三、嘘
土砂降りというほどではなかったが、人々を鬱屈とした気分にさせるのには十分な強さの雨が降っていた。ジュンくんは子どもが持つにしては渋い濃紺色の大きな傘を差し、仏頂面で人通りの少ない道を歩いていく。大人びた傘から覗くのは、ややくたびれた黒いランドセルだ。彼にしては珍しく錠を閉じ忘れていたせいで、ランドセルのベロの部分がだらりと垂れている。それはまるで、ランドセルまでもが強くなってきた雨脚にしょげているかのようだった。
ジュンくんは帰路とは逆方向に向かって進んでいた。とにかく今の彼はむしゃくしゃしていて、ちょっとしたきっかけがあれば我慢の糸は容易く切れてしまいそうだった。だからこそ、家には帰りたくなかった。家に帰ったら、まず祖母が彼を出迎えるだろう。そして、祖母の顔を見ても泣きださない自信が、ジュンくんにはない。だから、彼はこうして外を歩いて怒りを鎮めようとしているのだった。
行き先は決まっていなかった。だが、気付けば彼の足はいつもの公園へと向かっている。イチノセさんを見ても泣きそうな気がしたが、流石にこんな雨の日にはイチノセさんも来ていないだろう。ジュンくんはそう思い、黄色い柵の立った公園の入り口を通って行った。
案の定、公園には誰もいなかった。ジュンくんは傘をたたみ、地面に膝をついた。そして、両手で持ったその傘を、思い切り振りかぶって地面に叩きつける。叩きつけられた傘は、雨水を吸った泥を辺りに撥ねさせた。泥がクッションになっているのか傘は思うように壊れない。それで彼は何度も何度も、必死で何かを罰するような執拗さで、傘を叩きつけた。
「その傘さあ」ふっと雨音に人の声が混じった。
「ジュンくんが大事に取って置いたプリンでも食っちゃったのか?」
ジュンくんが驚いて振り返ると、そこにはいつもと全く変わらない様子のイチノセさんがビニール傘を差して立っていた。口の端に小さく、へらへらした笑みを浮かべて。
「何でいるんだよ」
ジュンくんは絞り出すようにそう言った。何で、よりによってこんな日にイチノセさんと会ってしまうのだろう、と彼は思っていた。まずいところを見られた恥ずかしさとばつの悪さで、思い通りに行かない苛立たしさがエスカレートしてさえいる。そして彼は突如として掠れた叫び声を上げ、傘を放り捨てて走り去ろうとした。ひっきりなしに込み上げてくる怒りと、頭の中でミミズが這い回ってでもいるのじゃなかろうかという奇妙なむず痒さのせいで、とにかく大声を出さなければ気が済まなかったのだ。
「待て待て」
しかし、ジュンくんは呆気なくイチノセさんの手によって捕まってしまった。彼は必死にもがいて逃げ出そうとしたが、イチノセさんはジュンくんをひょいと抱えていつものベンチの脇に立たせる。イチノセさんは羽織っていたウインドブレーカーをベンチに敷くと、ジュンくんをその上に座らせた。そして、傘を傾けてジュンくんを雨から守りながら、「このタオル使え」とたった今ショルダーバッグから取り出した薄青のタオルを差し出した。しかしジュンくんは唇を噛み締めながら泣いていて、タオルを受け取ろうとしない。仕方なくイチノセさんは傘を持っていない方の手でジュンくんの頭や体を拭いてやった。
それからイチノセさんは自分のビニール傘をジュンくんに無理矢理握らせると、急いで地面に打ち捨てられたジュンくんの濃紺の傘を拾って戻って来た。ジュンくんは口をきゅっと真一文字に結んだまま、それを睨むように見つめる。イチノセさんは気にせず、ジュンくんがたった今歪めてしまった傘を苦労して開いて差すと、彼の隣に腰掛けた。
「風がなくてよかったな」イチノセさんはいつものように空を見上げながらそう言った。
「台風みたいなのじゃなきゃ雨は結構好きだ」
ジュンくんは何も答えなかった。イチノセさんは俯いているジュンくんの頭をぽんぽんと叩いた。そしてそのまま手を頭の上に置いて、イチノセさんはぼんやりと公園の敷地に植えられた木々を眺めた。
かなりの時間が経ってから、ジュンくんがイチノセさんの手を振り払った。その時イチノセさんはほとんど眠りかかっていたが、それではっと目が覚めた。ジュンくんは泣き止んでいて、相変わらず仏頂面ではあったけれど、覇気は戻って来たようだった。それでイチノセさんは少しほっとした。
「プリンなら俺がまた買ってやるよ」まるで一度でもジュンくんにプリンを買ってあげたことがあるかのような口ぶりだった。ジュンくんはイチノセさんをジトっとした目で睨みつける。しかし、ジュンくんもイチノセさんが彼なりに気遣ってくれたことは分かっていたので、あえて何も言わなかった。
二人は並んで遠くの空を見つめていた。雨が上がる気配はなかったが、灰色の空は不思議に明るく、美しい。
段々とジュンくんとイチノセさんの間に流れる雰囲気が普段通りになっていく。ぎこちなく、張り詰めた空気が少しずつあたたまり、ジュンくんの表情も次第に緩み始めていた。
ジュンくんが軽く咳払いをして、あのさ、と切り出す。「考えたよ」
「何を?」
「イチノセさんのお話の続き」
「ほう」イチノセさんはにやりと笑った。
「聞かせてもらおうじゃないの」
*
<イチノセさんは、宮野のお母さんと大学でばったり会った数日後、大学の友達から宮野がここのところずっと友達の家に泊まっているという話を聞く。宮野はお母さんのいる家には何日も帰っていなかったのだ。そりゃお母さんは心配するだろう、とイチノセさんは納得して、無責任な宮野に腹を立てた。宮野が頼りにならないと分かると、イチノセさんは再び宮野母を訪ねるようになる。孤独な宮野のお母さんを放っておくことができなかったんだ。
でも、決してイチノセさんのオモワクはそれだけじゃなかった。宮野と宮野のお母さんは、一対一の、お互いに代わりのいない大切な存在なんだ。親子っていう固い絆で結ばれているから。普通だったら、イチノセさんはどう頑張っても宮野のお母さんの息子にはなれないし、せいぜい「息子の友達」くらいの関係しか手には入らない。だけど、今回は普通の状況じゃなかった。イチノセさんは、普通だったらどうやっても手に入らないような、「宮野のお母さんの息子」という関係性を手に入れたんだ。もし、宮野がまだお母さんにとって「良い息子」だったなら、話は別だ。あくまでもイチノセさんは偽物ということになるから。でも、宮野は何日も家を空けてお母さんを放っておくような、「悪い息子」だった。だからイチノセさんは、宮野よりも自分の方が「良い息子」になれる、今なら宮野に取って代われる、そう思ったんだ。
……そんな変な顔しないでよ。このお話はあくまでもおれが作った物語なんだから。イチノセさんのことが嫌いになった? でも、本当のことじゃないし。
とにかく、イチノセさんはそういう気持ちになったの。イチノセさんはイチノセさんで孤独だったからね。でも、そういう気持ちも日が経つにつれて薄くなっていった。宮野のお母さんと話をすれば、彼女が見ているのはイチノセさんでも何でもなく、本物の宮野の方なんだということに、嫌でも気付いてしまうから。それで、一時期はちょっと悪い気持ちになっていたイチノセさんも目が覚めて、やっぱり宮野を連れ戻そうと考えるようになった。宮野がお母さんにうんざりして逃げ出したんだとしても、やっぱり宮野のお母さんには宮野が必要だから、宮野を説得しようと思ったんだ。
それで、イチノセさんは宮野の居場所を探そうと、大学の友達に話を聞きに行った。あ、さっき「宮野は最近ずっと友達の家に泊まっている」って教えてくれた友達ね。で、イチノセさんはその友達に、「宮野がイソーローしてる友達は誰なのか」って聞いた。そうしたら、その友達は、宮野がイソーローしてる友達のことを……。
……さっぱり分からない? うん……おれも訳分かんなくなってきた。名前って大事なんだな。よし、じゃあ今から名前をつける。「宮野は最近ずっと友達の家に泊まっている」ってことをイチノセさんに教えたのは、「佐藤」って男だ。で、「宮野がイソーローしてる宮野の友達」は「竹内」って男。
で、イチノセさんは元々竹内とは知り合いじゃなかったんだけど、佐藤に竹内のことを教えてもらったから、竹内の元へ話を聞きに行ってみようと思った。それで、イチノセさんは佐藤から竹内が受けている授業のことを聞き出して、授業の後に教室の外で待ち構えることにした。それで無事イチノセさんは竹内に会うことができたんだ。
「竹内くん、だよな」
「え? そうだけど」
突然呼び止められた竹内は、当然イチノセさんを変な奴だと思った。だって、竹内の方はイチノセさんのことを知らなかったから。でも、イチノセさんは引かないで、ちゃんと聞くべきことを聞いた。
「竹内くんが宮野を家に泊めてるって聞いたんだけど、本当?」
「宮野を泊めてる……? それ、俺じゃないよ。宮野とは最近ずっと会ってない」
イチノセさんはびっくりして、言葉が出てこなかった。確かに佐藤は竹内が宮野を家に泊めていると言ったんだ。これは一体どういうことだろう? イチノセさんは混乱したまま、竹内に尋ねた。
「最近ずっと会ってないって、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。宮野は最近ずっと授業に来てないし、俺の家にも泊めてない。誰かと間違えてるんじゃないか?」
竹内はそう言うと、さっさと行ってしまった。イチノセさんは佐藤が嘘を言ったんだと思って、急いで佐藤に電話をかけた。つい今さっき起こったことを佐藤に説明しているうちに、段々イチノセさんは腹が立ってきた。それで、全部話し終えた時にはイチノセさんは佐藤を責めるような口調になっていた。
「どういうことだよ、佐藤」
「どういうことだって言われても。俺は宮野から『今竹内の家に泊まってる』って聞いたから、お前にそれを言っただけだよ。だから嘘をついてるとしたらそれは宮野ってことだな」
イチノセさんはボーゼンとした。宮野はなぜそんな嘘をついたのか。イチノセさんは、宮野がそんな嘘をついてまでお母さんから逃げようとしているのだと思うと、悲しいし、辛い気がした。でも、イチノセさんは宮野のお母さんがどれだけ宮野に依存して、どれだけ縛り付けていたかも知っていたから、そこまでして逃げたがっている宮野を連れ戻すのは酷い話なのかもしれない、とも思った。
それで、イチノセさんはこれ以上宮野のことを深追いするのはやめるべきなんだろうか、と躊躇った。でも、少し考えて、宮野の居場所だけでも突き止めよう、という気になった。これからどうするかどうかは、宮野と実際に話してから考えればいいことだと思ったんだ。
イチノセさんは宮野に会わなくなってから連絡先を消してしまっていたので、改めて佐藤から宮野の連絡先を教えてもらって、メッセージを送った。「宮野のお母さん、お前を心配してるけど、今お前はどこにいるんだ?」って。それから数日経って、ようやく返信が来る。
「迷惑をかけて本当にごめん。でも母さんを心配してくれてありがとう。僕はもう家には帰らないと思う。それでも大丈夫なように色々手配はしたけど、もし君さえよければ時々母さんのところへ話しに行ってくれると嬉しい」
イチノセさんは宮野に、「なぜ家に帰らないのか」とまたメッセージを送ったけれど、返事はなかった。それでイチノセさんは、ついに宮野はお母さんから逃げることを決めたんだな、とサトった。最初は、お母さんに何も言わないで出て行ってしまうなんていくらなんでも無責任だと思って宮野に怒っていたけれど、最終的には、宮野にも事情があるんだろうと思うようになった。
そして、その後ついにイチノセさんは宮野母の家に移り住むことにする。幸いなことに、イチノセさんは大学入学と同時に一人暮らしを始めていたから、その辺りの問題は特になかった。
細かい仕草とか、生活スタイルとかから、宮野のお母さんにイチノセさんが宮野でないことがバレるんじゃないかという危険はいつもあったけれど、宮野のお母さんを一人にはできなかった。それに、その時イチノセさんは既に、宮野のお母さんの世話を「押し付けられた」とは感じなくなっていた。「自分から進んでやりたい」と思っていたんだ。だから、決して嫌な気持ちではなかった。もちろん、イチノセさんの心の隅っこの方では、宮野のお母さんに嘘をついているという罪悪感があったけれど。
宮野のお母さんと生活する中で、イチノセさんは何度も自分は宮野ではないと言いかけた。それは罪悪感のせいもあったし、こんなことずっとは続かないだろう、という焦りみたいなもののせいでもあった。でも宮野が宮野のお母さんから逃げ出したことを知れば、彼女はきっとショックを受けるだろうと考えて、結局いつも明かさないまま。そうやって、ずるずると二人の嘘の関係は続いていった。
*
そこまで話し終えた時、ジュンくんの顔はすっかり苦々しいものになっていた。
「でも、嘘って本当最悪」
ジュンくんが自分の物語に関することに対してネガティブな物言いをするのは珍しかった。彼は両手で重たそうに傘を持ち、つま先をじっと見下ろしている。
「やさしい嘘だって何だって、嘘は嘘だろ。そんなの嫌だ」
ジュンくんはそう言うと、また泣き出しそうになった。でも、今度はすぐに服の袖で目元をこすって、目の前を睨むようにして顔を上げた。涙は、痛々しい努力によって何とか溢れ出ないでいる。しかし、いつ決壊してもおかしくはなさそうな、危うい様子だった。イチノセさんは、ジュンくんの言葉をゆっくり吟味した後で答えた。
「ジュンくんは嘘にご立腹なんだな」
ジュンくんは、その言葉がいつもの茶化しやからかいなのだと思って、むすっとした顔でイチノセさんの方を見上げた。だが、彼の予想に反して、イチノセさんの表情は真面目そのものだった。
「でも嘘っていうのはジュンくんが思ってるよりありふれたもんなんじゃないかな。良いものでも悪いものでもなくってさ……当たり前のように嘘をついてつかれて、上手に嘘と付き合えたら、きっとそれが大人ってことになるんだろうなあ。でもさ」イチノセさんは憂鬱そうに瞬きをした。
「俺は大人になんてなりたくない」
雨の力は絶大だ。普段のらくらしているイチノセさんに、こんな弱音を吐かせるのだから。ジュンくんは、「らしくない」イチノセさんに少なからず戸惑ったが、イチノセさんの気持ちはよく分かった。ジュンくんの周りにいる大人たち——家族や教師など——は、決して悪い人間ではないが、彼らは皆どうしても一様に「大人」なのだった。どれだけ明るく振舞っていても、夢や希望という言葉を口にしていても、心のどこかには諦めが棲みついている。そういう諦めは度々言葉や態度に滲み出て、その人から半径五メートルの世界を少しずつ退屈にしていってしまう。そんな諦念が寄り集まれば、やがて世界全体がつまらないものになってしまうだろう。そして、若い頃はそういう諦めの膜を破ろうともがいてみても、結局長く生きれば生きるほど体力を奪われて、そんな膜から出ようとするよりも、膜の中で生きていた方がよっぽど気楽で幸せなのだという風に思うようになる。そしてそんな大人たちは、膜の中から出なくてすむように、嘘をつき、つかれた嘘を嘘と分かりながらも真実だと信じる。それが、大人になるということなのだ。
ジュンくんがそういったことをきちんと理論立てて理解していたわけではないけれど、ただ大人になるのは嫌だ、と漠然と思っていた。彼としては、自分のことをもう子どもではないと思っていたから、そんな風に感じるのもある意味当然のことだ。ジュンくんは、しょげているイチノセさんに何か声をかけたいと思った。しかし、上手い言葉が思いつかず、結局はいつもの憎まれ口を叩いてしまう。
「もう大人でしょ、イチノセさんは」
「誰がオッサンだって?」
「オッサンとは言ってない」
「でもそういうニュアンスを感じました、ええ、感じましたとも」
イチノセさんは頰を引きつらせている。おじさん扱いは彼にとって地雷だったようだ。ジュンくんはその様子に少しばかり呆れながらも、過剰に反応するあたり本当におじさんのようで却って怪しいと思った。イチノセさんの見た目は実際にはまだ青年のそれだったが、本当の年齢は謎である。
イチノセさんのセンチメンタル・モードは、ジュンくんの一言によって呆気なく解除されたらしい。やってらんねえよ、とでも言うように、イチノセさんはぶすくれた顔でベンチの背もたれに背中を預け、傘越しに空を仰いだ。
「誰か俺の代わりに大人になってくれよ。俺が二人いたら、俺の代わりにそいつに仕事させてお金稼ぐのに」
「イチノセさんが二人いたって、二人とも怠けるだけだろ」
「じゃあジュンくんが俺の代わりに大人になれよ。そんで俺を養ってくれ」
「最悪」
ジュンくんは遠慮なく軽蔑の視線をイチノセさんに送る。そしてそれがトドメとなった。イチノセさんはどんよりとした表情で黙り込む。ジュンくんが怒ってるの、と聞くと、イチノセさんは怒ってないとも、と返した。変な人だなあ、とジュンくんは思わず眉をひそめた。
相変わらず雨は降り続けていた。灰色の雲は分厚く、どこまでも続いている。公園にはイチノセさんとジュンくんの他をおいては誰もおらず、二人が黙っていると、音といえば雨音しかなかった。ジュンくんは、ビニール傘が雨粒を弾くぼつぼつという音に耳を傾ける。そのくぐもった音を聞いていると、現実世界から切り離されていくような感じがした。ずっとここでこうしていられたなら、とジュンくんは思った。
太陽が終始厚い雲に隠れているせいで、夕方という感じはしなかったが、確実に夜が近づいていた。薄暗かったのが、段々と本格的に闇が深くなっていく。別れの時間が近いことを二人に告げているのだ。ジュンくんは気乗りしないながらも、ゆっくりと立ち上がった。帰りたいわけではなかったが、イチノセさんに遠回しに早く帰るよう促されるのは癪だった。
立ち上がりざま、ジュンくんはイチノセさんが手にしている濃紺の傘を一瞥した。一瞬だけ躊躇った後、彼はふいと顔を背けてぶっきらぼうに言った。
「傘、交換しよう」
「んー? ジュンくんはそのビニ傘で帰りな。ジュンくんの傘は明日か明後日か……明々後日くらいには返してやるから」
「何でだよ。今返してよ」
「ジュンくん、家の人に怒られちゃうぞ。傘壊しちゃって」
「別にいいよ。こんなの……ゴミ捨て場に捨てて、ばあちゃんにはなくしたって、言えばいい」
イチノセさんは笑って答えた。「ジュンくん、嘘つきだな」
ジュンくんはぎゅっと心臓を握り締められたような心地になった。イチノセさんの目はいつもと違って、どこか深く、澄んでいる。ジュンくんは、自分がとても汚い存在になってしまったと思った。
「本当はこの傘、大事なものだろ」
イチノセさんはジュンくんを真っ直ぐ見ていた。ジュンくんは何も答えることができない。泣きそうで、でも泣くのを何とかこらえている。イチノセさんはジュンくんの肩をぽんと叩いた。その時にはもうイチノセさんの顔から思慮深そうな雰囲気は消えていて、彼はお馴染みのへらりとした笑みを浮かべていた。
「俺実は昔傘職人をやっててなぁ。この傘くらい逆立ちしながらでも修理できるぜ。直したら返すから」
ジュンくんはほとんど表情を変えないまま、ぽろりと一粒だけ涙をこぼした。
「イチノセさんだって、嘘つきじゃんか」
ジュンくんは俯いたまま、その場から動かない。動けなかった。そして長い沈黙の後、彼は唐突に話しだした。まるで、機械仕掛けの人形がぜんまいを巻かれたように。
「おれの父さんは詐欺師なんだって。だから、全部自業自得なんだって、学校の奴らが言ってた」
イチノセさんは穏やかな目でジュンくんを見つめ返した。「自業自得?」
「おれの父さんは死んだんだ。事故で。でも本当は事故じゃなかったんだって。おれはそんなこと教えられてなかった。何も知らなかった。なのにどうして学校の奴らが知ってるんだよ。色々噂されてるのは知ってたけど、何でそんなこと……おかしいだろ、おかしいだろ。薄々、なんか変なような感じはしてたけどさ、だけど何で? 何でみんなそのこと教えてくれなかったんだよ。母さんもばあちゃんも、みんなみんな嘘つきだ。何でなんだよ」
ジュンくんは何かに駆り立てられるようにまくし立てた。誰にというわけでもなく、何でなんだと激しく問い詰めるジュンくんは、ままならない現状を嘆く無力な一人の子どもだった。だがイチノセさんはそんな彼に対して特別構えるでもなく、普段のように気楽に、少なくとも気楽に見える様子で言った。
「その傘、元々はお父さんのものだったんだな?」イチノセさんは口の端をきゅっと歪めた。ジュンくんは無言のままだ。
「ジュンくんはその傘も、嘘も、嫌いか?」
「……嫌いだ。大っ嫌いだ!」
「そうかい」イチノセさんは頷いた。沈黙の後、彼はまたジュンくんの方を見遣った。
「でもさ、ジュンくん、誰かのためを思ってつく嘘はすてきじゃないの。ジュンくんもきっといつか、そういう嘘をつくようになるんだと思うけど」
ジュンくんは黙りこくって何も答えなかった。イチノセさんの顔を見るのも何となく怖くて、俯いたままじっとしていた。イチノセさんの声は、全くいつもと同じだった。やさしすぎず、冷たすぎず、いい塩梅の声色。でもジュンくんには、自分が未来にどうなるかなんて想像もできなかった。
「そんなの分かんないよ」ジュンくんは言った。
「分かんないから……、分かんないんだよ」
ジュンくんは、父親のことをもっとちゃんと教えてほしかった。その気持ちは間違いなく本当なのに、それにも関わらず彼は「知りたくなかった」と思っていた。何も知らなければ、想像で補える。でも本当のことを知ってしまったら、もう後には引けないのだ。
イチノセさんは黙ってジュンくんが言葉を継ぐのを待っていた。しかし、ジュンくんは最早続きを言おうとは思わなかった。代わりに彼は、イチノセさんから濃紺の傘を引き取り、自分が差していたビニール傘を返した。「捨てたりしないから」、ジュンくんはぼそりとつぶやいた。それでイチノセさんが満足そうな笑みを浮かべたから、天邪鬼なジュンくんは「早く仕事見つけろよ」と憎まれ口を叩いてから、くるりと背を向けた。
そうして飛ぶように公園から走り去って行ったジュンくんは、大きく足を振り上げながら考えた。母や祖母の嘘に気付いていない振りをするのか。それとも、なぜ父親について本当のことを教えてくれなかったのだと聞くのか。どちらの選択をとるにしても、ジュンくんは前に進んでしまうだろう。そう考えると、ジュンくんは嫌だった。前になど進みたくない。ただ停滞していたい。彼はそんなことを思った。でも今はまだそれでよかった。大人になるまでには、まだいくらも猶予はあるのだから。
ジュンくんは、水たまりに足を突っ込んでびしょ濡れになるのも構わず、風のように道路を駆け抜けて行った。