二、癖
<宮野にお願いされて、彼のお母さんの元を定期的に訪れるようになったイチノセさん。イチノセさんは、最初はかなり困っていたけど、何度も宮野のお母さんと話をするにつれて、彼女の息子の振りをするのが上手くなっていった。そして、イチノセさんは宮野のお母さんについての色んなことを知るようになった。彼女の得意料理、宮野の好物、好きな花……イチノセさんが知ったのが、そんな平和なことばかりだったらよかった。だけど、イチノセさんは、出来ることなら知りたくなかったことを知ってしまった……というか、察してしまったんだ。
宮野のお母さんが、息子に依存してるってことを。
……は? バカにすんなよ。「依存」って言葉くらい、知ってるよ。学校でも習ったし。
母親が子どもに依存するのって、結構あることなんだって。だから、宮野のお母さんもそうだった。「あなただけが生きがい」っていうのが口癖。それから、「あなたのため」っていうのも。宮野のお母さんは、宮野のことが大好きだったんだ。それは本当。でも、それが行き過ぎて、子どもが自分の思い通りにならないと、不安になっちゃうんだって。あ、いや、不安になっちゃうの。
宮野のお母さんは、宮野の進路とか、友達とか……そういうことにも、カンショウしていた。だから、イチノセさんは驚いた。宮野のお母さんがものすごく息子に依存してるってことにもだけど、息子の方が大人しく彼女の言うことを聞いていたことにも。宮野のお母さんによれば、宮野はそれまで、彼女の言うことに反抗したことはなかったんだって。
そんな宮野がお母さんを自分の実験に使うなんて、随分大胆なことをするなあ、とイチノセさんは思った。それで、なんだかこの実験の話はおかしいと思ったイチノセさんが宮野にお母さんのことを問い詰めると、宮野は自分のカテーカンキョーについてようやく話しだした。宮野は、小学生の時、お父さんの仕事の都合で海外で暮らしていた。その時、お父さんとお母さんがテロに巻き込まれ、お父さんは亡くなり、お母さんは失明してしまう。宮野は学校にいたおかげで無事だったけど、お父さんが亡くなったからお母さんと一緒に日本に帰国したんだ。それからは日本に持ってた家に戻って、親戚にお金を助けてもらいながら生活していた。大事な夫が死んでしまったせいで、宮野のお母さんは段々息子に依存するようになった。……そう。宮野が通う学校から、付き合う友達とか恋人まで、本当に色んなことを勝手に決めては宮野に押し付けていた。そうすると、宮野のお母さんは安心だったんだ。
宮野は学校に行っていたから、一人じゃなかった。宮野のお母さん以外にも、世界があったんだ。だけど、宮野のお母さんはほとんど家から出なかった。テロの怖い記憶があるから、地下鉄とかバスとか、そういう乗り物が大嫌いになってしまったんだ。そのせいで、宮野のお母さんの世界はどんどん狭くなっていった。宮野のお母さんにとって、宮野だけが全てになっちゃったんだ。
だけど、宮野は本当は、お父さんのように海外に出て仕事をしたいと思っていた。でも、海外で夫を亡くしたお母さんには猛反対されてしまった。……宮野がもし海外に行くことになったら、自殺するとまで言って。
これは脅しなんだ。宮野はお母さんのことが心配だったから、彼女の言うことを聞くしかなかった。実際、宮野のお母さんが心配する理由はよく分かっていたから。それでも、宮野は海外への気持ちを諦め切れなかった。だから、自分が海外に行った後もお母さんが寂しくないように、イチノセさんに自分のふりをさせてお母さんの話し相手を続けてもらおうとしていたんだ。
宮野の考えを知ったイチノセさんは、実験をコウジツに自分のお母さんの面倒を見させようとするなんてあまりに自分勝手だ、とものすごく怒った。宮野はイチノセさんの怒りも当然だって反省し、もう関わり合いにならない、と約束して、謝った。その後イチノセさんは宮野とも宮野のお母さんとも会わなくなるんだけど、ある日の夜、図書館で宿題を終えて大学を出ようとしたイチノセさんは、宮野の帰りが遅いことを心配した宮野のお母さんに遭遇するんだ。警備員に宮野がどこにいるかをしつこく聞いて迷惑がられている彼女の姿を見て、イチノセさんの胸はきゅっと締めつけられた。イチノセさんは、彼女の息子への強すぎる愛情を知っていたから、正直少し引いていたし、理解できないと思っていた。それでも、宮野のお母さんと一緒に料理を作ったり、好きな花について話したりもしていた。だから、宮野のお母さんが警備員に冷たくされているのを見て、辛くなったんだ。宮野のお母さんのことが恥ずかしくてならなかったけど、彼女のことがかわいそうでもあった。それで、イチノセさんは宮野のお母さんに思わず声をかけた。
その時、反射的にイチノセさんは宮野の声を作ってしまった。それで宮野のお母さんは息子が来たと勘違いするんだ。
「随分遅いじゃない。心配したのよ」
半分泣きそうになりながら、宮野のお母さんはそう言った。それから、イチノセさんを強く、強く抱きしめた。その時、イチノセさんはぎょっとした。イチノセさんと宮野では抱き心地が違うかもしれない。背の高さとか、体重とかは近かったけど、それでも全く同じっていうわけじゃないから。それで、イチノセさんは自分の嘘がバレないかってビクビクするんだけど、奇跡的に宮野のお母さんはイチノセさんの正体には気付かなかった。
……絶対、絶対言うと思った。気付かないわけないでしょ、って? ふふん。考えてもみてよ、イチノセさん。宮野は大学生なんだよ。いくらお母さんと仲良くたって、そんなに普段から抱き合ったりしないよ。大人なんだし。……え? あ、匂いか……。えーと……あ、とにかく! そう、宮野のお母さんは、あんまりにも気がドウテンしていたから、イチノセさんの正体には気付かなかったんだ。そういうこと。
それで、イチノセさんは宮野のお母さんと一緒に家に行った。そうしていつもしていたみたいに、彼女と一緒に料理をした。宮野のお母さんは、宮野が帰ってきてくれたことを本当に喜んでいて、心からほっとしていた。だからこそ、イチノセさんは宮野って嫌な奴なんじゃないかと思うようになった。お母さんのためとは言え、他人のイチノセさんを利用するくらいだし、それにこんな優しいお母さんを心配させるなんて罪なやつ、って思ったんだ。
……え、何で笑うの。「罪なやつ」? その言葉の通りだけど。……おい! 何でニタニタ笑ってるんだよ! …………。
——こほん。えー、お母さんのためとは言え、他人のイチノセさんを利用した上に、こんな優しいお母さんを心配させるなんて「ヒドイ」やつ。って、イチノセさんは思ったんだ。イチノセさんが自分で思っていた以上に、宮野のお母さんへの気持ちは大きくなっていた。
宮野のお母さんの息子への依存っぷりは、イチノセさんにとって理解できない、恐ろしいものでもあったけど、でもその母親としての愛情とかやさしさとかは、決して嘘じゃなかった。だからイチノセさんの心は宮野のお母さんに傾き始めたんだ。
二人で夕食を食べながら、宮野のお母さんはやさしくイチノセさんに語りかけた。なんでもない話だったけど、イチノセさんはそれが少し嬉しかった。当たり前のように一緒にご飯を食べて、平和な話ができるっていうのが幸せだった。イチノセさんはお父さんとお母さんの仲が悪い家庭で育って、そういう家族のあたたかい時間をあまり知らなかったからだ。イチノセさんの両親は、結局離婚してしまって、お母さんとはそれきりずっと会っていない。お父さんとは仲が良かったけど、でもそれは仲が良い振りをしていただけだった。イチノセさんは、ずっとお父さんに対しては心の中でわだかまりをずっと抱えていた。
だから、宮野のお母さんとの関わりで、イチノセさんは初めて「家族」というものを知ったような気がした。たとえ自分を宮野だと思い込んでいたとしても……イチノセさんにとって、宮野のお母さんは確実に特別な存在になりつつあったんだ。>
*
広い公園の端に設置された、お決まりのベンチに、イチノセさんとジュンくんは座っていた。二人は毎日のようにこの公園で会っていたが、こうしてジュンくんが「イチノセさんの物語」を話して聞かせるのはちょうどひと月ぶりくらいのことだった。
「イチノセ物語」の第二章を聞き終えたイチノセさんは、ふうと疲れたように息をついた。
「俺、色々複雑な家庭環境で育ったのね……。つーかこの物語なんか暗くない? ちゃんとハッピーエンドになる?」
「さあ、それはどうかな」
「え、何バッドエンドの可能性もあるの? 俺死んだりしないよね?」
「うーん。まあ今後に期待しててよ」
「うわ、絶対俺のこと死なすだろ。何だよー、俺に何か恨みでもあるの?」
ゴールドぴょんこちゃんのことを忘れたのか、という目でジュンくんがイチノセさんを睨む。それに、イチノセさんが嘘をついたのは、ゴールドぴょんこちゃんの時ばかりではない。何を考えているのだか、イチノセさんはよくどうでもいい嘘をつくのだった。肝心なことに関しては、いつも何も言わないでいるくせに、だ。どうでもいい嘘ならつかれたっていいじゃないかという話かもしれないが、ジュンくんにとっては嘘をつかれたということ自体が非常に重要なことで、許しがたいことだった。そういうわけで、ジュンくんがイチノセさんを恨む理由は確かにあったのだ。
だが、私怨を理由に物語の中でイチノセさんを不幸にしてやろう、などという意地悪な発想はジュンくんにはなかった。彼はただ、「物語」を作ろうと思っただけなのだから。ジュンくんの知らないイチノセさんを、想像で補おうとした。たったそれだけのことだ。
「おれ、今のイチノセさんから考えて、昔はどうだったのかなって自分で考えてみたんだよ。そしたらこういう物語になったの」
「どう考えたら俺がそんな陰のある感じに見えるんだよ。正直、俺ってパッパラパー男じゃない?」
「まあね、平日の昼間から公園にいるようなダメ人間だよね。でもだからこそだよ」
「え? つまりジュンくんは、『ダメ人間は、それ相応の重い過去なり悲劇なりを経験したからこそ、ダメ人間になってしまった』って考えてるの? それまで何不自由なく暮らして来た奴がいきなりダメ人間になることはないって?」
「イチノセさんはそれまで何不自由なく暮らしてたの?」
ジュンくんは思わずイチノセさんの言葉に食いついた。それまで、年齢も、下の名前も、どこに住んでいるのかも、今まで何をしていた人間だったのかも、一切教えてくれなかったイチノセさんが、初めてこぼした個人情報らしきものだった。だが、イチノセさんはジュンくんのカウンターにドギマギすることもなく、いつもと変わらない調子で答えた。
「いや俺は、アラスカで捨てられたところをクマに育てられた過去を持つけど……」
それは流石のジュンくんでも嘘だと分かった。しかし、イチノセさんは嘘をつく時に全く動揺しない。嘘をつく時は必ず目を逸らすとか、ついついにやついてしまうとか、そういった癖らしい癖もなかった。だからジュンくんはイチノセさんによく騙されるし、そういう理由から彼はイチノセさんが役者をしていたのではないかと考えたのだった。
「イチノセさんの嘘つき」
ジュンくんは毅然とした態度で不満を表明した。彼の考えでは、演技とは嘘であり、すなわち役者は詐欺師同然、大嘘つきなのだった。
「大人は嘘つきなんだよ……」
「すぐそうやって大人ぶる」
「なんと。誠に遺憾です」
「……だからあ!」
いつまでもおちょくるのをやめないイチノセさんに、ジュンくんの火山が火を噴きそうになった。顔を赤くして、今にも地団駄を踏もうとして足を上げたジュンくん。だが、彼のまだ小さな足が力任せに地面を踏みつけることはなかった。
ガシャアン。凄まじい音が空気を揺らした。ジュンくんは驚きと恐怖で、反射的にイチノセさんの腕にしがみつく。
どうやら、音は公園のすぐ近くでしたようだ。イチノセさんが首を伸ばして様子を窺ってみると、公園入り口の向かいにある家の窓が見事に割れている。野球少年の仕業? とイチノセさんは言ってみたが、公園内にそれらしき影はない。そもそも、この公園では原則的にボール遊びが禁止されていた。住宅街の中にある公園のため、近くにはたくさん家が立ち並んでおり、それこそボールが窓ガラスを割るような事故が起こりかねないからだ。とは言っても、公園内でサッカーに興じる子どももいたし、そのルールが絶対的に守られているわけではなかったが。しかし、今はサッカーで遊ぶ子どもの姿も見えない。遊具や砂場で遊んでいた子どもたちは、皆一様にたった今物凄い音を立てた家の方を凝視している。
「何で窓が割れたんだ?」
イチノセさんは、誰に問うわけでもなくそう呟いた。ジュンくんはその言葉でイチノセさんから離れ、恐る恐る顔を上げた。「何だ……バクゲキでも来たのかと思った」
「そんなわけないだろ」
「そんなわけなくない」ジュンくんはむっつりした顔でそう答えた。そして今更、たかが窓が割れたくらいのことで怯えた自分の子どもっぽさを恥じて、イチノセさんから物理的に距離をとった。だが、イチノセさんにそれを気にする素振りはない。彼は興味深そうに窓が割れた家の方を観察していた。割れた窓から部屋の様子が少し見える。部屋には二人の人影があった。窓がなくなったことで声が丸聞こえだ。二人はどうやら激しく口論しているようだ。片方は中年くらいの女性の声、もう片方は同じく中年くらいの男性の声。
「なるほど。謎は解けたぜ」イチノセさんは名探偵気取りで顎に手を当てて言った。
「夫婦喧嘩だな。夫婦喧嘩で窓ガラスが割れたんだ。つまり、犯人はやんちゃな野球少年じゃなかったってことだ」
イチノセさんはそう言いながら、公園の入り口の方へ行ってもっと近くで家の様子を見ようとした。典型的な野次馬だ、とジュンくんは少し不愉快に思った。他人のことにそんなに首を突っ込んでいかなくたっていいのに。そういう考えのもと、ジュンくんはベンチから動かなかった。
「『長谷』さんちだって、あそこ」
「表札を見たの?」ジュンくんは咎めるような口調でそう言った。
「わざわざ名前を知ってどうするんだよ。誰かに言いふらすわけ?」
ジュンくんはイチノセさんが答えに詰まり、考えを改めてくれることを期待していた。だが、イチノセさんの返答はジュンくんの予想を裏切るものだった。
「警察に通報するためだよ。窓が割れるほど激しい喧嘩だ。止めないと危ないだろ」
そう言ってイチノセさんはスマホを取り出し、「泉二丁目公園の目の前にある、長谷さんという家ですごい喧嘩が起きてまして……」と始めた。その様子が、ジュンくんの目には、取引先に電話をかけるサラリーマンのように見えた。イチノセさんがそういうまともな大人らしい行動をするのは、本当に珍しいことだった。ジュンくんは、イチノセさんという人をこうだと決めつけていたことに少し居心地の悪さを感じた。それで、イチノセさんを責めるような言い方をしたことを謝ろうかと思ったが、どうしてかジュンくんの口から出て来たのはそれとは真逆のことだった。
「警察って、そんなに簡単に呼んでいいものなんだ」
やたら不貞腐れたような声が出てしまった。ジュンくんは言うことを聞かない自分の喉が恨めしかったが、一度出てしまった声を引っ込めることはできない。
「いいんじゃないのか。警察はそれが仕事なんだからさ。まあ、俺に『仕事なんだから』とか警察の人も言われたくないだろうけど」イチノセさんは冗談めかして言う。
「でも喧嘩っていうのは仲裁する人がいないとどんどんヒートアップしちゃうものだろ。それが破壊癖のある人なら危ないからな」
「ハカイヘキ?」
「物を壊す癖ってことだよ。俺が今考えた言葉なんだが。まー、カンシャク持ちってことさ」
ジュンくんはドキッとした。「ジュンはカンシャク持ちだね」。それは一緒に住んでいる祖母からよく言われることだった。実際、ジュンくんは気が短いし、怒ると物を投げたりもする。家にいても、学校にいても、とにかくカーッとなるとそれが抑えられないのだ。そのせいで、ジュンくんは今まで色々な弊害を受けてきた。
イライラした時には枕でも殴りなさい、と祖母に言われてそうしようと思ったこともあるが、結局怒る時は一瞬だからベッドに行くまで保つわけがない。枕の方から来てくれたらいいのに、と思ったことは一度や二度ではなかった。
そんな具合だから、ジュンくんは憂鬱な気分になって、すっかり小さくなってしまった。
「……イチノセさんも、カンシャク持ちは嫌い?」
「お? お前さん、自分がカンシャク持ちだから気にしてるの? 殊勝なところもあるじゃんか」
「うるさい。ニヤニヤ笑うな!」
ジュンくんは恥ずかしさのあまり立ち上がって地団駄を踏んだ。だがその様子がさらにイチノセさんをにやつかせてしまう。
「また地団駄踏んでるよ。ジュンくんはカンシャク起こすといつもやるよなー」
「何だよ。悪いかよ!」
「おいおい、地面さんがかわいそうだろう?」
「何が地面さんだ!」
イチノセさんは空を仰いで気持ち良さそうに笑う。本格的に怒り始めたジュンくんを諌めるでもなく、彼と距離を置くでもなく、ただ楽しそうに笑っていた。
「俺はお前のカンシャク、結構好きだぜ」イチノセさんは散々笑った後、気の抜けた声で言った。
「いつも全力で怒ってる。それが面白い」
「……面白がるなよ」ジュンくんはその言葉をどう捉えるべきか分からず、戸惑った。
「おれは全然、面白くないし」
「それはそうかもなあ。周りの人は、『カンシャク治せ』ってしきりに言うだろ?」
「……まあね」
「俺にもあったぜ、そういう『治さねえとやべーぞ』って言われた癖。実際そいつのせいで俺は何度か辛酸を舐めてきた」
「え、何それ? 今は治ったの?」
「どうだと思うよ」
「もったいぶんないで教えろよ!」
「嫌だ、恥ずかしいもん。……そうだ。今はその癖があるのかどうか、ジュンくんが見極めてみろよ。よく観察してたら、俺のすげー癖が分かるかもしれないぜ」
イチノセさんの癖。ジュンくんにとって、それはともすれば彼の年齢や経歴などよりもずっと意義深いもののような気がした。もし、本当にそんな癖を発見することができれば、ジュンくんは自分の作っている「物語」にもそれを還元できるかもしれない。そう考えると、ジュンくんの胸の奥はじんと熱くなった。それは、期待や興奮と、奇妙な使命感が入り混じった感情だった。
「イチノセさんにも、弱点があったんだ」
「あるだろ、そりゃ」
「分かってるよ。適当だし、いつもフラフラしてるし、時々大人げないし。でも、イチノセさん自身はそういうの気にしてないじゃん。だから、弱点っぽくなくて」
「なるほどね。その点、俺の癖は俺が気にしてる分弱点っぽいと」
ジュンくんは頷いた。だがイチノセさんは腑に落ちない様子で、しばらく顎を触っていた。イチノセさんがある事柄に対して否定も肯定もしないのは度々あることだったが、それは大抵真意を隠しているからだった。でも、この時のイチノセさんは本当に判断しかねているといった具合で、やや曇った表情からは迷いが見て取れた。
「癖は、弱点なのかなあ」絞り出した声は、最早ため息に近い。
「俺の癖はともかく、ジュンくんのカンシャクがなくなったら俺は寂しいぜ。ジュンくんと言ったらカンシャク持ちっていうところがあるからな」
「……それ、イチノセさんと言ったら無職、みたいなこと?」
イチノセさんはジュンくんの放ったジャブを華麗にスルーした。都合の悪いことを聞く耳は、彼には付いていない。彼はお構いなしに熱い持論を展開した。
「例えばさ。ピカチュウとキャタピーは違うポケモンだろ? キャタピーの方が弱い。だけど、キャタピーに向かって『お前ピカチュウになれ!』って言ってもなれるわけがない。キャタピーはキャタピーだからキャタピーなんだ」
「はあ」
「だけどな。キャタピーは弱いけど、進化してバタフリーになるんだ。成長するんだ。そうしたら、ピカチュウよりも強くなる。だからピカチュウよりキャタピーの方がダメってことにはならないし、キャタピーはそんなに焦らなくたっていいんだ。そうだろ?」
「……」
暫し沈黙が降りた。ジュンくんは真剣にイチノセさんの言ったことを反芻していた。イチノセさんの言わんとすることは分かる。でも、それは心で理解したというよりも、頭で理解したといった具合だった。彼はイチノセさんの言葉を、自分の心の一部にすることまではできなかったのだ。だから、ジュンくんは「そうだね」と言う気になれなかった。それで彼は、わざとおとぼけな回答を寄越した。
「バタフリーはむし・ひこうタイプだからピカチュウと戦ったらピカチュウが勝つよ」
「あ、うん……」
イチノセさんは弱々しく頷いた。彼は何か言おうとして口を開いたが、結局また口を噤んだ。
そうして二人は黙り込んだ。初夏の麗らかな太陽の光を含んだ風が、少年と青年の間を吹き抜ける。ジュンくんは、心なしか青々とした葉の匂いが鼻腔をくすぐってくるような気がした。穏やかな時間。煩わしい世事からすっかり切り離されたよう、というのは言い過ぎだが、それにしても二人の間を流れる時間はゆったりとしていた。
しかし、「穏やかな時間」という言葉には、「束の間」という枕詞がつきやすい。そして実際、イチノセさんとジュンくんのほのぼのとした穏やかな時間も、束の間のものだった。遠くから何か甲高い音が聞こえてきたと思えば、数台のパトカーがけたたましいサイレンを鳴らしながらやってきたのだった。やがてパトカーは長谷家の前に停まった。
「え、パトカー多すぎない……?」イチノセさんは呆気にとられていた。
確かに警察に通報したのはイチノセさん自身だったが、まさか夫婦喧嘩に何台もパトカーが駆り出されるとは思っていなかった。激しく危険な喧嘩をすることで余程有名な家だったのか。イチノセさんとジュンくんは長谷家の方を凝視した。
ややあって、パトカーから降りてきた警官がインターホンを鳴らし、何事かを話し始めた。しばらく警官はインターホン越しに長谷家の住人と会話をしていたが、最終的に彼はもう待ってなどいられないとでもいうように激しく扉を叩き始めた。イチノセさんとジュンくんはその様子を固唾を飲んで見守った。
少しして扉が開かれた。警官が扉を叩き始めてからさして時間は経っていなかった筈だが、その状況のあまりのことに、扉が開いた時に二人は思わず「ようやくか」と安堵のため息をついた。
が、次の瞬間、二人の表情は凍りついた。
開いた扉から出てきたのは、大量の屈強そうな男「たち」だったのである。顔に傷のある男、筋肉が発達しすぎてスーツが今にも弾け散ってしまいそうな男、肌の見えるところ全てに刺青が入った彫りの深い顔立ちの男、花柄のシャツを着て色眼鏡をかけた胡散臭い男、金属むき出しの義手をつけた三白眼の男、エトセトラ、エトセトラ……。全ての男たちの特徴を挙げていたらキリがないほど、次から次へと長谷家からおよそ一般人とは思えない男たちが出てくる。そしてその盛大な行進のトリを務めたのは、立派な口髭をたくわえた威厳のある中年の男と、黒い着物に身を包んだ気の強そうな中年の女だった。
「……」
「……」
イチノセさんとジュンくんは、最早何も言うことができなかった。お互い顔を見合わせて言葉を交わすでもなく、ただただ呆然と長谷家の方を眺めやった。果たしてそこが本当に「長谷家」としての役割を持っていたかすら疑わしかった。
屈強そうな男たち、及び、並々ならぬオーラを漂わせていた中年の夫婦(恐らく)が次々にパトカーに乗せられていく。パトカーが列をなして一斉に走り去っていくまでの行程は、驚くほどスムーズだった。竜巻のような衝撃はそれでいて実に呆気なく国家権力に吸収されたわけだ。パトカーが去ってしまうと、住宅街と公園には再び元の穏やかさが戻った。しかしこのような騒ぎの後では、そんな穏やかさは仮初めのものでしかないようだった。
イチノセさんは空を仰ぎ、ぼそりと呟く。
「想像力が試されるな……」
しかし、いくらジュンくんでも、自らの想像力を長谷家の奇妙な物語のために使おうとは思わなかった。