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令嬢は黒ネズミと出会う 4

「魔法も使えない役立たずのくせに!」


 ぶどうジュースをぶちまけられたと理解したのは、罵られてから数秒後。

 ぴちょん、ぴちょん、と赤紫色の雫が前髪や頬から滴り落ち、この日のためにと誂えたらしいドレスも台無しだ。裕福ではない我が家だけれど、お父様が無理をして用意してくださったドレスなのに。スフィーはグラスを投げつけた幼い婚約者を驚きの表情で見つめる。


 婚約者──ジルベルト・フォードは幼少期から癇癪持ちだった。公爵家の跡継ぎならばさぞ厳しく養育されているのだろう、と思いきや実情はそうではなく。己の魔力の高さを「高貴なる血の証」と威張り散らし、気に食わなければ「自分は公爵家の子どもなんだぞ」と喚いてわがままを押し通してしまうような典型的おぼっちゃまだった。

 ジュースでびしょびしょになったスフィーに、フォード家の使用人たちは一切手を貸さなかった。ふふん、と嘲笑するジルベルトの後ろに控え、見ないふりをしている。スフィーとは目も合わせないし、濡れたドレスを嫌悪するかのように眉を顰める者さえいた。


 この日の癇癪の原因は、スフィーがジルベルトよりも魔法言語を理解していたからという、たったそれだけの差だった。

 当初、フォード家が雇用する家庭教師は、ジルベルトとスフィーの両方を担当していた。課題内容が同じなら、どちらが優れているのか否が応にも点数として表れてしまう。物心つく前から、父親の職業上魔法学に関する文献に囲まれて暮らしていたスフィーにとって、魔法言語は身近なものだ。普段から目にしている分野の理解を深めていくのにさして抵抗もなく、初回から好成績を出した結果──


「お前みたいな下等な人間が、俺より賢いわけがないんだ! ズルをしたんだろ!」


「わたし、ズルなんてしてません」


「父親に教えてもらったんだろう! なんて卑怯なやつだ!」


「お父様はいま、大事な研究があってお部屋にこもっております。邪魔をしないように声はかけないと、お兄様と約束しているのです」


「フン! なら、兄に聞いたんだな!」


「……お兄様はそんなことしません」


「フォード家に取り入るためにじゃないか、卑しい連中め。そんな安っぽい布切れで着飾ったところで、俺の高貴な血に釣り合うわけがないんだ。ああ、不愉快だ! いつまでそんなボロ雑巾みたいな格好で俺の目の前にいるつもりだ! さっさと帰れ!」


「きゃっ……」


「帰れ!」


 突き飛ばされ、庭園の芝生に尻もちをついた。草や土で余計汚れてしまった小さな令嬢に、誰も手を差し伸べようとしない。怒りと屈辱を涙ごと呑み込んで、スフィーは帰宅した。

 理不尽な癇癪と糾弾は以降も当たり前のように続いた。こちらから挨拶をしても無視、でも言葉を返さなければ無礼だと怒鳴られ、少しでも婚約者より優位に立つと殴られる。遊び放題で勉強を嫌がるジルベルトより、劣悪な環境下でも勤勉に取り組んだスフィーが賢くなるのは自明の理であるのに、優秀過ぎる女は可愛くないから成績をわざと落としなさい、と忠告とは名ばかりの警告を受けたことすらあった。


 さすがに長男が癇癪持ちで成績も芳しくない、となると公爵家もいよいよ焦り始めたらしく、十歳でようやくジルベルトの再教育が始まった。と言っても、癇癪があろうがなかろうが、不屈の精神で耐え抜き、日々の積み重ねを怠らなかった令嬢にはとっくに差をつけられている。ジルベルトは早々に勉学を諦め、交友関係を広めながら数多の貴族令嬢に手を出すようになっていった。


「魔力がないから見向きもされなくて、なんて憐れなのかしら」


「出会った日から毎日花を届けてくださるの、素敵でしょう?」


「彼の瞳と同じ色の宝石で作った耳飾りをいただきましたわ」


 スフィーのもとには、さる貴族のご令嬢たちが次から次へと訪問した。いわく、ジルベルトは自分こそ本命であり、スフィーを愛人に格下げすると約束してくれたのだと言う。今は父の顔を立てて大人しくしているが、時が来たら必ずスフィーを追い出す、と。

 言われるがまま、反論しないスフィーにたっぷりと嫌味を言って帰っていく令嬢その一(名前を忘れた)やその二(顔すら覚えていない)を見送るスフィーは、内心──理想的な展開でルンルンだった。


 もはや公爵家当主は、ジルベルトに知性を期待していない。

 婚約者は他の女性に夢中で会話はほぼ皆無。

 スフィーの自立計画を妨げる要素が、一気に取り払われたのである。


 それからはさらに勉学に励む毎日だ。家庭教師陣を独占し、使用人たちの無視や陰口など逆にこちらが無視し返す気概で、あらゆる知識を吸収していった。ジルベルトの女遊びには一切口を出さず、「あなたさえしっかりしていれば」と必死に煽てる公爵夫妻には明言を避けつつニッコリ笑顔。オメェらの教育どうなってんだよ、なんて本音はきっちり隠して、慎ましい伯爵令嬢の体裁を守り抜いた。


 しかし、幼少期からの経験のせいもあり、家族以外にあまり良い印象を持てずにいる。ましてや、互いに何の利益もなく、無条件で慈悲をかけてもらうなどありえなかった。


 ──図書館で出会った、謎の黒ネズミ魔法士。


 ローレンと名乗った彼こそ、おそらく人生初の優しい隣人なのである。

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