令嬢は黒ネズミと出会う 3
「その梯子は老朽化しているので、あなたのように華奢な女性でも支えきれないかもしれません。特に──」ネズミは細い前肢で梯子を差した。「──特に、下から五段目は木が腐りかけているみたいです。怪我をしてしまったら大変ですから、僕が代わります」
宮廷魔法士に支給されるローブを着たネズミが、二本の後ろ足で器用に立っている。
背丈はおそらく子どもくらいだろうか。口調は礼儀正しく、見上げてくる目はくりくりとしていて、ほんの少しふっくらとした体格も相俟って実に可愛らしい。全身を覆う黒い毛は手入れが行き届いているかのように艶めいて、ローブの裾からは細長いしっぽがはみ出している。
スフィーはただただ困惑した。
他意がない気遣いに戸惑っているからだが、それ以外にも理由はある。
宮廷で獣人を雇ったという情報を耳にした覚えがないのだ。
獣人は、数こそ少ないがこの世界に実在する。彼らの大半は独自に築いた集落でひっそりと暮らしているらしいが、なかには首都に赴き、市民権を獲得している個体も一定数存在するという。しかし、長い歴史を持つローエンベルグでも、獣人が王室仕えになった前例は記録されていない。それほど、宮廷を出入りできる獣人は例外的だと言える。
すっかり素の表情で固まっていたスフィーは、ハッと我に返った。淑女の礼儀作法もどこぞへ吹っ飛び、とにかくこの無作法な態勢をどうにかしなければ、と焦って件の五段目に足をかけてしまった。すると腐食部分が嫌な音を立て、うっかり足を滑らせてしまったのである。
「……ぷぎゅう」
「ごっ、ごめんなさい……!」
落下の衝撃は、ネズミのぽってりお腹に吸収された。尻の下からは、人ともネズミともつかないひしゃげた声が漏れている。触れた毛並みは触り心地が良く、まるで高級毛皮のようだ──と浸っている場合ではない。スフィーは急いで離れた。
「あの、あのっ! 申し訳ございません、お怪我は?」
「っ、たた……はは、大丈夫です」
ネズミは尖った指先でかりかりと頬を掻く。
幼さを残した声色をしている。獣のかたちをしているので見た目から年齢は判断できず、せいぜい、相手の性別が分かる程度だ。声に無邪気さがあるからといって、実年齢までそうとは限らない。
起き上がった彼は、倒れた梯子にほたほたと近づいた。まあるい耳をぴくぴくさせ、うむ、と頷く。
「ああ、やっぱり腐っていたみたいですね。危うく折れるところでした」
「本当に申し訳ありません、わたくしの不注意で事故に巻き込んでしまって……」
「僕は怪我をしていませんし、梯子もまだ折れてはいません。事故と言うほど大袈裟なものではないですから、どうか気に病まないでください」
「ありがとうございます、魔法士さま」
スフィーは周囲に人の姿がないことを確認し、ややあって、スカートの裾を軽く持ち上げた。
「わたくしは、ロイズ伯爵家長女、スフィーと申します」
「ロイズ……ああ! 研究者のアルベール・ロイズ伯爵ですね!」
「はい、わたくしの父です」
ここまで名乗ると、多くの者たちはスフィーの評判を言い立てて嘲弄する。魔力がなく、貴族としての責務も果たせない無能で可哀想な令嬢だと。そのやり取りにもすっかり慣れていたので、さあ、いつ始まるのだとスフィーは身構えた。
ところが、ネズミ姿の魔法士はいつまで経っても何も言わない。恐る恐る様子を窺うと、つぶらな瞳が少し細くなって、頬のあたりがふっくらしている。おそらくこれは機嫌が良いときの表情──人で言うところの「笑顔」に分類されるに違いないと、獣人をよく知らないスフィーでも理解できた。
「ロイズ卿の研究成果は、我が国の魔法学界に大きく貢献しています。僕たち魔法士が束になっても敵わない難題をたちどころに解決してしまう頭脳は、ローエンベルグの知恵そのものと呼ぶに相応しいでしょう」
「……あ、ありがとうございます」
「確かご長男であるアシェル殿も、お父上と同じ機関に所属していますよね」
「あ、はい。兄も父と同じ分野を専攻しているかと」
「お父上だけでなく、ご兄妹揃って明達なのですね。素晴らしいです」
「……魔法士さまは、わたくしのことをご存知ではないのですか?」
「あなたを、ですか?」
「はい。その……わたくしの噂や、身の上について、とか」
ネズミが不思議そうに首を捻ると、髭がゆらんと上下した。
「ロイズ卿の功績はよく耳にしますが、ご息女については特に。実は僕、最近まで辺境地帯に配備されている部隊にいたので、時世には少々疎いところがあるんです。お恥ずかしい……」
「遠、征……そう、ですか……」
「……何かお困り事ですか? それとも、僕が何か無礼を──」
「い、いいえ! ただ、宮廷でこうして親切に話しかけていただくことが稀なものですから、つい疑り深くなってしまっていて……こちらこそ失礼いたしました」
どうやら、本当に他意はないらしい。ほっと胸を撫で下ろすと、ネズミがまた頬をふっくらさせる。それから彼は、腐りかけの梯子に再び視線を戻した。指を一本立てて、くるくると小さく円を描く。と同時に呪文を唱える。すると、指先に光の粒子が現れた。可視化された魔力だ、とスフィーは直感した。
「次の利用者が怪我をしてはいけないので、直しますね」
言うが早いか、ひびが入っていた箇所に粒子が染み込んでいき、あっという間に補修が完了した。腐食は消え、そのまま音も立てずに浮遊し、元の位置に立てかけられる。
「ロイズ嬢の探している本は、上段の右から三番目で間違いありませんか?」
「えっ? あ、はい」
「ではお約束どおり、あちらも」
ネズミが、遥か上空を一瞥した。そして、先ほどまで粒子を漂わせていた指を、今度はくいっと折り曲げる。スフィーが借りようとしていた厚い表紙の一冊が、まるで空から綿帽子が降るみたいに柔らかく舞い降りてきた。両手に着地するなり魔法が解け、ずっしりとした重量が両腕に伝わった。
この規模の魔法は、国内にいればいつでも目にすることはできるだろう。それなのに、スフィーはとにかく感動していた。純然たる親切心から、自分のために魔法を揮ってくれる誰かが家族以外に存在した事実が、ただ嬉しかった。
思いがけず与えられた幸福を逃さぬように、両腕で丁寧に抱き締める。こんなふうに、他人から優しくされたのは初めてだ。スフィーを知る者も、知らない者でさえ事情を知れば簡単に顔を背けて離れていく。けれど、ネズミ姿の彼はスフィーと目を合わせ、対等な立場で言葉を交わしてくれた。それの、なんと温かで、安らぐ心地であることか。
「ありがとうございます、魔法士さま。本当に」
「どういたしまして。僕のことは、ローレンと呼んでください」
黒ネズミ──改め、魔法士ローレンは、感極まる令嬢を青い眸に映し、微笑んでいた。