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令嬢は黒ネズミと出会う 2

 晴れて自由の身となったスフィーは、王室図書館を連日訪れている。


 宮廷にあるギャラリーを改装し、広い壁面を隙間なく埋めるようにして設置された書架の森。多くの魔法士、研究者が出入りする知識の宝庫は、父たちの職場からもそう遠くない。


 婚約破棄からひと月過ぎれば噂も雲散霧消するかと考えていたが、そこはスフィーの認識が甘かったらしい。宮廷の敷地を歩けばあちらこちらで貴婦人が内緒話を始める。やれ、あの娘が魔力なしの慇懃無礼な令嬢だとか。公爵家に捨てられたのに厚顔無恥甚だしいとか。言いたい放題だ。


 雑音は耳障りだが、実害はない。


 そもそも、有能で優秀な教育者たちにみっちり鍛えられた伯爵令嬢は、父と兄に差し入れを届けるという名目で図書館に入り浸り、片っ端から古書を読み込むのに忙しい。

 ひとつぶの麦ほどの価値にもならない噂話より、古代史を現代語に翻訳する作業こそ生きがいを感じるからだ。三週間前に魔法協会に提出した論文は、専門家を軒並み唸らせる完成度と着眼点で話題に上っている。素性が知られると途端に評価が下がるので、ロイズ家縁の者、という匿名であったことだけが不満ではあるが。


「次はもう少し調査地域を限定してみるのもいいかしら……」


 スフィーは次の題材を構想しながら、使い込まれた背表紙をスッと撫でた。

 堂々と名乗れないことに歯痒さはあるものの、協会の重鎮たちが挙って一目置いている結果に、彼女は確かな手応えを感じている。魔法学の研究者として自立し、貴族や性別に左右されない人生を送るのが、スフィーの第一目標だ。その実現は、夢想というほど非現実的ではないのかもしれない。


 ──となれば、俄然やる気も出るというものだわ。


 新緑の目を皿のようにして、研究資料になりそうな古書を見繕った。ぎゅうぎゅうに詰め込まれている本たちを数冊抜き取ってはテーブルに運び、翻訳が必要なら辞書も探す。多くの家庭教師から学んだが、なかでもスフィーが得意とするのは語学だ。外国語、旧ローエンベルグ語、難解とされる古代魔法言語。これらの翻訳・解釈をやり遂げた瞬間を想像するだけで、彼女の眸はきらきらと輝きを増していた。


 国内随一の蔵書量を誇る図書館を利用する者は多い。

 魔法士や研究者だけでなく、巡回の騎士や図書館司書──すれ違うたびに会釈をすると、スフィーが数歩進んだところで後ろから棘のある言葉が背中に浴びせられた。


「魔法も使えない無能め」


 ひくり、と少しだけ肩が震える。


 厚みのある辞書を胸に抱えながらゆっくりと振り返ると、ローブを着た魔法士と目が合った。青年は露骨な舌打ちをし、館内の静寂をわざと波立たせるように靴音を響かせて立ち去っていく。


 ……ままあることだ。


 貴族の娘は、魔力を次代に繋ぐために嫁ぐのが慣例的だ。だが、スフィー自身に魔力がなく、たとえ跡継ぎを産んだとしてもその子どもに魔力が宿っている保証はない。フォード公爵家からの提案はまさに降って湧いたような幸運だったが、それをも失った現在、確かに自分は無能で無価値な存在なのだろう、と彼女自身も自覚している。


 ──俺に触るな、無能のくせに!


 かつての幼少期、出会って間もないジルベルトに怒鳴られたことを、こういうときに思い出してしまう。苛立たし気な魔法士の背中が曲がり角に消えていくのをじっと見据えながら、辞書を抱える手には力がこもる。


 幼いジルベルトは、ふと伸ばしたスフィーの手を叩き落とすのが当たり前で、使用人たちの前でも婚約者を嘲り、暴言を吐いていた。馬上鞭でわざと撲たれたこともある。手が腫れて痛むのを隠し、見た目が崩れてしまう字を家庭教師に叱られるのはつらかった。目撃者がいても、まわりはみんなフォード家の使用人だ。スフィーの味方は誰ひとりいない。


「あの頃に比べたら、いまなんて平和そのものだけれど……」


 控え目に日光が差す窓際から、外の景色を眺める。

 庭園の道で、艶やかなドレスに身を包んだ貴婦人たちが談笑中だった。時に通りすがった衛兵や青年貴族を呼び止めては、世間話に花を咲かせている。ジルベルトと結婚すればスフィーもあの輪に混ざっていたのだろうが、さして、現状より平和だとは思えないのだ。


 貴族社会は言葉や仕草での駆け引きを要求される。ああして賑やかに会話をしていたとしても、もしかしたら右側の淑女は結婚相手を探しているのかもしれないし、途中からやってきた青年は顔と名前を売り込もうとしているのかもしれない。

 和やかな表情の下に、誰もが野心を飼っている──それが社交界だ。騙し合いと探り合いが肩を組んで行進しているような世界でウフフオホホと作り笑いをするよりは、物言わぬ歴史を紐解くほうが断然楽しい。


 だから婚約破棄に後悔はない。最良の選択であり、作戦だった。

 ただ──傷つかないわけではない。


 耳を塞いで誹謗中傷を受け流すことはできるが、声が大きければ覆う手の隙間からどうしても聞こえてしまうものだ。拒絶された過去も、理不尽な暴言も、心の傷としてしっかり刻まれている。意識しないように心がけても、やはり、多少なりとも胸は痛い。


 スフィーは視線を書物に移し、すぐにペンを置いた。


「……別の資料を探さなくてはだめね」


 気が滅入るのを誤魔化すように席を立った。


 いまとなっては、どの場所にどの本が収められているのか熟知しているスフィーなので、生い茂る森のなかで目当ての果実を即座に見つけられるように、本棚の間を迷いなく進んで行く。そして果実が枝に生るみたいに、本もまた、上段に並んでいるのを発見した。

 大柄な騎士でも手が届かない高所にあり、当然のように梯子を昇る。

 貴族令嬢にあるまじき行為である。だが、昇り降りできる足があり、本を持つ腕があるのだから、彼女はちっとも躊躇わなかった。


「──手伝いましょうか?」


 背表紙に指先を引っかけたところで、下から声がかかった。

 おや、と怪訝に思ったのは、舞踏会や宮廷で、スフィーの顔を知る者はわざわざ話しかけたりしないからだ。概ね遠くから観察し、あることないことを吹聴するのが常。ましてや、親切心など無きに等しい。


 どうせまた、好奇心とか揶揄いだとか、そんなものよ。


 しかし露骨に嫌な顔をして、家名をいま以上に貶めてはいけない。

 この十年で磨き抜いた淑女の礼儀作法を総動員し──まあ、梯子に昇っている時点で淑女も何もあったものではないけれど──たおやかに顔を向けた。


「……」


「こんにちは」


 ──ネズミがいた。

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