プロローグ
黒いネズミが、つぶらな瞳でスフィーを見つめる。
深みのある青色の目は期待に満ち溢れ、柔らかそうな毛並みのなかで宝石のように輝いている。スフィーの言葉をひたむきに待ち、そして焦がれている様子がありありと伝わってきた。
「スフィー・ロイズ嬢。あなたこそ、僕らが求めた人材なのです。どうか、力になってくれませんか。あなたなくして、いまのローエンベルグ国を救うことはできません」
黒いネズミは、小さな前肢でスフィーの両手を包んだ。
ますます煌々とする目が、ずずいと距離をつめるので、スフィーはほんの少し仰け反った。いいえ、できません、ごめんなさいと拒絶を口にするのは簡単だが、喜色満面で訴えるその人……いや、獣だろうか? とにかく彼を突き放すことができなかった。
黒いネズミは、ただの獣と呼ぶにはあまりに普通ではなかった。
人の言葉を理解し、流暢に操り、子どもくらいの等身をして二足歩行をする。身にまとうローブは金の飾り刺繍があしらわれている高級品で、胸には王室筆頭魔法士の証である月と鷲の勲章を付けていた。
「おっ……お待ちください! その者は、魔法大国に生まれながら、魔力を一切持たないのです! 魔法のひとつもまともに行使できない無能な人間が、筆頭魔法士殿のお役に立てるとは──」
「僕が必要としているのは魔法士ではなく、彼女個人です」
批難の声をぴしゃりと跳ね除けて、ネズミは長い髭をそよがせる。
「伯爵家に生まれ、権力を笠に着ず、自身の境遇をただ嘆くだけではなく、堅実に研鑽を積んできた。いまや、ロイズ伯爵令嬢よりも、王室図書館の蔵書を知る有識者はいません」
「しかしながら! 魔力がなければ、貴族の娘であろうと満足に務めを果たせません! 現にその女は、公爵家から婚約破棄を申し渡されている! 跡継ぎも産めないような娘など、ただの平民よりも価値がない!」
「──まあ、他でもない僕の前でよくもそこまでの暴言が吐けたなと、言っておきます」
瑞々しく幼さの残る少年の声色に、ひやりとした嫌悪と侮蔑が滲んだ。見た目は愛らしい黒ネズミであるのに、地位と権力を持つ者特有の凄みが、スフィーを害するすべてを圧倒している。誹謗中傷もそれ以外のどよめきも、まるで引いていく波のように窄んでいく。手はまだ、包まれたまま。ほっそりとした指から、体温が伝わる。
「どうか気に病まないで、ロイズ嬢」くるりとこちらを向いたネズミが、ゆらん、と髭をそよがせて笑った。「僕の言葉に嘘はありません。どうか、あなたの知恵を貸していただきたいのです。魔力があるかどうかなんて関係ない。誠実で勤勉なあなたにこそ、この役を任せたい」
スフィーは返答に困り、うろうろと眼球を彷徨わせた。
伯爵家の娘として生を受けて十八年。指摘のとおり、婚約は破棄された。魔法が使える兆しはまったくないまま婚期を迎えて、そして失った。幸い、家には兄がいる。家は兄が継ぐ。だからせめて、自分は家名に恥じない人生を──と覚悟を決めていたのだけれど。
「異世界から召喚された聖女様の世話係を、引き受けてくれませんか?」
国一番と讃えられる王室筆頭魔法士が、魔力を持たない貴族令嬢に懇願する。
黒いネズミは、明らかに普通ではなかった。
素性も見た目も言動も、ただの獣と呼ぶにはあまりに普通ではなかった。