羊飼いの少年(5)
泣き疲れて地面へ顔を押し付けている少年の耳に、土を蹴るような音がかすかに聞こえる。その音は段々と耳元へ近付く。
家族を襲った人間かもしれない、と思い焦る気持ちともう動けない気持ちが少年の中でせめぎ合う。涙は枯れない。どれだけ流しても、尽きることは無いのだと今日知った。
音が止まったかと思うと、今度は少年の頭を何かが擦り髪を引っ張る。
「……?」
少年が重い頭を動かすと、それは大きく鼻を鳴らす。
「――エメット?」
見上げると、長いまつげで縁取られた大きな瞳にはっきりと自分が映っていた。
「無事……無事だったんだね……」
少年は目から涙を零し、縋るように牡馬の足へしがみ付いた。しかし掌がぬるりと滑り、すぐ体を離す。
「怪我してるじゃないか!」
牡馬の足には血がべったりと付いている。少年は震える手で細い足をそっと包み込んだ。
「どうしよう……僕……どうすれば治してやれるのか分からないんだ……ああ、エメット……君まで居なくなったら……」
少年が途方に暮れていると、土を蹴るような音が聞こえた。先ほどの音と同じ。今度は幾重にも重なって聞こえる。音の聞こえる方を見ると、砂埃を立て何かが近付く。濁る視界の中で、白い布が靡くのが見えた。
「何……なに……?」
砂埃の中から見知らぬ馬が現れる。濃い栗色のその馬は、白い光沢を持つ金属でできた馬具を着けている。馬具には透明の宝石が幾つも埋め込まれており、馬が動くたびに虹色の輝きを放つ。
「生きてるやつ、はっけぇーん」
若い男の大きな声が聞こえ、馬が喋ったのかと少年は困惑した。風が吹き、砂埃が消える。馬の背には細かな装飾の施された白金の甲冑を着けた人間が乗っていた。兜には白く大きな羽根でできた飾りが二本付いている。まるで兎のようだ。
「お前流れ者かぁ」
「ヨハネス」
「あっ……すみません」
知らない声がもう一つ増えた。目の前に立つ馬の後ろから別の馬が現れる。次に現れた馬は白い毛に茶色が混ざっていた。白い馬から降りた甲冑の男は、頭から兜を外すと少年の前へ膝をつき顔を覗き込む。分厚く艶やかな生地でできた白いマントが渇いた土と擦れ、黄土色に汚れる。
「――大丈夫か?」
少年の目に見知らぬ男が映った。縦に長い顔に枯茶色の目と髪、低い声が印象的だ。
「……父ちゃんと母ちゃんを殺した人……?」
「は? ああ、違う、逆だ。悪い奴を退治しに来たんだが……」
「もういないみたいだな」そう言いながら顔の長い男は辺りを見渡した。
「ひとりか? 怪我は? 何があった?」
起こったことといえば、家族を亡くしたこと。そうだ、ついさっき家族を亡くした。何者かに殺されたのだ。助けてほしい。どうすれば良いのだろう。少年の中で様々な言葉と感情が渦巻くが、言葉にして発することができなかった。
目の前の人間が誰かは知らない。信用してもいいものか、少年は疑問を抱く。ただ、もし目の前のこの人間に酷いことをされても、今の自分には抵抗する術も気力も無いことだけは分かった。
「あの……馬……怪我してて…………僕治せない……」
「ん? ああ……見てみよう」
顔の長い男は鉄の手袋を外し牡馬の足を触ると「怪我をしていない」と答える。
「でも、血が……」
「これは人間の血だ」
「人間の……?」
顔の長い男は無言で頷いた。遠くから蹄の音が聞こえる。緑色の煉瓦の家――ご近所さんから、薄い栗色の馬が駆けてきた。その手には白色をした大きな旗を持っている。
「――ラルドさん。緑色の家でお爺さんが一人亡くなってました」
甲冑越しにご近所さんの死を知らせたのは、少年のような中性的で高い声。ラルドさん、と呼ばれた男以外は馬から下りる様子は無い。
少年は身近な人間の死を知り、また胸が痛くなる。
「この村で生きているのは君と家族だけか……?」
「か、ぞくは…………」
「……そうか」
ラルドは表情一つ変えず何かを察したように呟く。
「君の家族はどこだ?」
「……家の中」
「ふむ、顔を見てもいいか?」
「うん」
ラルドは立ち上がると家の扉を開く。少年は、ぼうっとした様子でその男の背中を見つめた。白いマントの後ろには大きな鳥が描かれている。兎の耳のようなものが生えたその鳥の名を少年は知らない。
改めて見ると、随分と背の高い男だった。家の入口に頭がぶつかりそうになり、背を屈めている。家の中へ入ったあと、今度は地面に染み込んだ血痕をしげしげと眺め、少年の元へ帰ってくる。
「――君が運んだのか?」
少年は「うん」と答える。ラルドは再び地へ片膝をつくと少年の目を真っ直ぐ見た。
「痩せてるのに力があるな」
少年は再び「うん」と答える。
「……今日の夜、この村で火葬を行う」
「カソウ……?」
「遺体を燃やして、骨を集め、墓を作る」
ラルドは「いいか?」と言いながら、ずい、と少年の顔を覗き込む。少年は驚いて細い肩をすくめた。
「……父ちゃんと母ちゃんとフィンが、ここにずっといるのは駄目なの?」少年は不安に揺れる瞳で男の顔を見つめる。
「暑いだろう? 死んだ体ってのは放っておくと腐っちまうんだ」
「腐るとどうなるの?」
「蛆が湧く。虫に食われ穴だらけにもなる。溶けたようになり、とてつもなく臭い」
少年はきゅっと唇を噛み、下を向いた。
「それは……いやだ」
「そうだな。できれば綺麗なまま燃やしてやるのがいい。いいか?」
ラルドは少年が理解できるように、納得するように話を進める。
「……いいよ」と少年は小さな声で言うと、仏頂面が一瞬だけ驚いた表情を見せた。
「随分あっさりしているな。死を理解してるのか?」
「……体は入れ物だって聞いたから……中の魂も気持ちも天に昇って星になるんだって」
「……そうか」
「辛かったな」そう言いつつラルドは真顔で少年の頭を撫でた。
「話長くない?」
「流れ者同士気が合ってんだよ……」
「あぁ、なるほどね」
「隊長ーまだっすかー」
外ではヨハネスと呼ばれた声の大きな男と、後から到着した声の高い男が雑談をしていたが、待ちくたびれたのだろう、ヨハネスが更に大きな声でラルドを呼ぶ。
「お前ら……聞こえてるからな?」
「げっすみません」
「すみません」
ラルドは大きなため息をついたあと「日が暮れる前には火葬を行う。遺体をここに集めるよう他の奴にも伝達しろ」と馬に乗ったままの二人へ指示を出した。
声の高い男が馬から下りると、手に持っていた大きな旗を地面に突き刺す。ラルドの胸までしか背丈が無く、甲冑を身に着けていても小柄なのが見て取れた。どんな力が作用したのか少年には分からないが、棒の先はいとも簡単に硬い地面へと突き刺さってしまった。
白い旗は分厚く、重たげな生地でできている。水色と金色の細かな刺繍が施してあり、濃い青色と白色の線、何個かの星、そしてラルドのマントと同じ鳥が描かれていた。純白の旗の中で鳥が飛んでいるようにも見え、少年はその美しさに目を奪われる。
「この辺でいいですか?」
「構わない」
声の高い男は腰に付けた小さな鞄から布袋を取り出すと、突き立った旗を起点に白色の輝く砂を撒き始める。さらさらと輝く砂は大きな円を描いた。
「ヨハネスさぁ……ボーっと見てないでお前が伝達行けよ」
「は? お前も来いよ」
「俺旗立ててんだろ」
「そんなのすぐ終わるだろ」
「煩い。ヨハネスもエデルも行け。旗と準備は俺がする。遺体は丁寧に扱えよ」
ラルドがそう言うと、ヨハネスは「はぁい」と適当な返事をして馬の腹を蹴った。エデルと呼ばれた声の高い男は、白い砂の入った袋をラルドに渡しながら「よろしくお願いします」と言うと馬へ跨る。二匹の馬は颯爽とどこかへ消えてしまった。
少年はラルドから「腹は減ってないか?」と水の入った筒と食料を渡されるが、何かを口に入れたい気分では無く、首を横へ振った。
少年は座ったまま、ラルドの手の動きを目で追う。大きな手は白い砂で円の続きを描くと、円の内側に慣れた手つきで複雑な模様と文字を描く。白い砂は太陽の光を吸い込み輝きを増す。少年は眩しくて目を開けていられなかった。突然の突風が灰色の髪を揺らす――が、砂埃が舞い上がるのに対し、白い砂は微動だにしない。少年はそれが不思議だった。牡馬は退屈そうに少年の髪を噛んでいる。
「――君は」模様を描き終わった様子のラルドが、少し離れた場所から自分が描いたものを確認しつつ口を開く。
「君はこれからどうしたい」
少年はラルドを見上げるが、逆光で男がどんな顔をしているのか分からなかった。
「……ぼくは、生きたい」
その言葉しか出ない。空っぽになった少年の中には母親と交わした約束しか残っていなかった。
ただ、生きる方法が分からない。食事の準備は母親で、食料を買うのは父親の役割だった。
「――どうすれば生きていける?」
今度は少年がラルドへ聞いた。
「……生きるには、手に職を……仕事を見つけることだ――が、君は何歳だ?」
「十歳」
「では――まだ働けないな」
ラルドは顎に触れ何かを考えているようだ。
「まず、ここは危険だから離れた方がいい。新しく住む場所、食事、衣類も必要になるな。全て得る為には間違いなく金が必要だ。でないと野垂れ死ぬことになる」
「お金……」
父親が亡くなる前「金だけ持って逃げるぞ」と言っていたのを思い出す。少年は母親から受け取った重い袋を開くと、中には金色と銀色、大小様々な丸い金属が溢れんばかりに詰め込まれていた。
「これはお金?」
「……ああ、そうだ」
少年は袋の中をラルドへ見せた。