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花冠と白い騎士  作者: 天晴 月湖
序章 その少年、生きる
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羊飼いの少年(3)

 少年の耳に、父親の声とは全く違う、知らない男の声が聞こえた気がした。


「――噓でしょ……?」


 母親の手に力が加わり、動揺が伝わってきた。少年の気のせいではないようだ。母親はよろよろと窓へ向かい、外を見て小さく悲鳴を上げた。何が見えたのか気になり少年も窓へ近付こうとするが、母親に手を引かれ叶わなかった。ぐいぐいと手を引っ張られ、台所の奥まで移動する。

 今度は先ほどよりはっきりと、聞いたことのない人間の声が聞こえる。


「しっかりして……しっかりして……私。デヴィンと約束したじゃない……」


 独り言のように呟くと母親は「ここに入って」と少年の体を流し台の下へ押し込む。導かれるまま隠れると、視線を合わせるように母親がしゃがみ込んだ。


「――いい? ギル、ちょっとしたかくれんぼよ」


 そう言う母親の顔は真っ青で引きつっている。


「あなたは体が小さいからきっと大丈夫。これを巻いて頭を守って、あとこれを持つの」


 母親はぶるぶると震える手で生成りのエプロンを外し、少年の頭へ巻き付ける。そして、この家で一番大きな片手鍋を少年へ押し付けた。


「いい? 持っていて」

「何? 母ちゃん何が起こってるの?」

「恐ろしいおばけが来てるのよ。だから、ここに入って、隠れるの」


 母親の手が少年の頬を撫でる。


「怖い。怖いよ」

「大丈夫だから」

 

 父親が怪我をしていたことが怖かったのか。弟の姿が見えないことが怖いのか。はたまた母親の目が笑っていないことが怖いのか――それとも他の要因か、分からないことが少年の恐怖心を余計に煽る。


「絶対に声を出してはダメよ」

「いやだ。怖い」

「大丈夫、母さんがいる。人の声、物音が消えるまで、絶対に動いちゃいけない。大きな声も――」


 母親は早口で次々に言葉を発する。いつになく神妙な口ぶりだ。もしかしたら自分の想像を遥かに超える恐怖がこの先にあるのかもしれない。もしそうなのであれば、自分はこの先どうするべきなのだろう。母親と乗り越えられるのだろうか。父親も居てくれるのだろうか。

 少年の頭の中は不安でいっぱいで、母親の早口言葉が全然頭に入ってこなかった。

 家の外からは羊の鳴き声が聞こえる。いつもと違う、悲鳴のような鳴き声だ。


「何があっても、声を出しては駄目。この袋にお金が入っているから。あと、それでも困ったときはこれを売って、国境から離れた場所……ローレライのずっと奥の方に逃げなさい」


 母親は鍋を握っていない方の手に、小さな翠色の石が付いた指輪を握らせる。いつも母親の左手の薬指に光っていた、小さなお守りだ。父親が仕事でいない日は母親がそれを撫でていた事を少年は知っている。何故、そんな大切なものを自分に渡すのか少年は疑問に思った。


「ローレライの中で何があっても、何を言われても、あなたはただのギルバート。いいわね、自分の人生を生きなさい」


「約束」と柔らかな力で抱きしめられ、額へキスが降る。どこか不安を孕んだ母親の柔らかな微笑が空色の目に映った。


「ああ、愛してるわ。ギル、フィン……デヴィン」

「母ちゃん……」

「――ギルの瞳、デヴィンにそっくりでとても綺麗よ」


 母親が少年の耳元で囁く。


「……え?」

「自分じゃ分からないかもしれないけれど、あなたはデヴィンとよく似てる。さ……ここに入って、動かないで」

「母ちゃんは……?」


 少年の質問に母親は答えなかった。母親は足元の隙間を隠すように立ち上がり、足の間に少年を挟むと、若草色のスカートを少年の頭から被せた。

「もっと体を小さくして」と指示され、両膝を両腕で抱え体を小さくする。長いフレアのスカートは流し台の下からはみ出した少年をすっぽりと覆い隠してしまう。

 きっとこれは良くない夢なのかもしれない、と少年は思った。不安で手が震えるのも悪い夢のせいで、目が覚めると、きっと母親が笑って背中を撫でてくれる。夢なら覚めて欲しいと、鍋を握る手に力を込めた。

 頭上で水の流れる音が聞こえる。どうやら母親が水の張った桶へホースを引っ張り込んだようだ。次に聞こえたのは食器を洗う音。狭苦しい流し台の下に籠った水の音と食器のぶつかる音が響く。

 錆びた扉の出す鈍い音を、少年は感じ取る。どうか、弟を見つけた父親であってほしいと願う。


「あら? どちら様? 洗い物の途中なのだけど――」


 少年の願いは叶わなかった。水の音、母親の声、どかどかと大きな足音、聞き覚えのない声を近くに感じる。低い声に交じり聞こえる、母親とは違う甲高い声。男性と一緒に女性もいるようだ。

 目を瞑ると、体が痛くなるくらい小さく丸め膝へ額を押し当てた。間もなく、母親の足が強張り揺れる。一体この家の中で、何が起こっているのだろう、少年の額に汗が滲む。

 父親は、母親は、弟は、山羊は、羊は、無事だろうか。少年がゆっくりと目を開けると、母親の足は変わらず目の前にあった。

 薄暗さに目が慣れると、若草色のスカートが上から下へ半分近く赤茶色に染まっているのに気付く。その色には見覚えがあった。つい先ほど母親の肩口を濡らしていた父親のそれと同じだ。

 部屋にはまだどかどかと大きな足音が響いている。

 

「おい……女……殺……」

「……綺麗……きっらぁい……」

「なんだぁ……の家も子供が……のか?」

「あのチビに……」

「いや……あれは……のと一緒に……もういい。ここは……少な……み……くの奴等が……国境へ帰……」


 まるで時間が止まっているようだった。少年は、ただ呆然と母親のスカートを見つめる。若草色はみるみるうちに赤茶色へ浸食される。母親が心配だ。だが、声を出してはいけないと言われたことを思い出す。

 狭い空間に籠った空気が熱く、額に吹き出した汗がこけた頬を流れ、顎から滴る。直ぐ外へ出てしまいたいが、人の音が消えるまで動くなと言われたことを思い出す。

 今になって聞き流していたはずの母親の声が頭の中でこだまする。少年は、じっと耐えるしかなかった。

「無駄足だったな」その声だけはっきりと聞き取れた。人の足音が家の中から消えた。だが、乾いた土地を歩く独特の足音がまだ聞こえる。

 少年は耳を澄ます。水の音以外、何も聞こえなかった。「もう少し待とう。もう少し待とう」心の中で何度も呟き、いよいよ我慢ならなくなったところで、少年はスカートの中の母親の足へ抱き付く。母親の微かな体温に、恐怖で固まっていた心が溶かされるようだった。


「母ちゃん……母ちゃん……」


 堪えきれず、母親を呼ぶ。目の前にいるはずなのに、返事はない。


「母ちゃんってば……!」


 不安ともどかしさで、少年は鍋を放り投げ、とうとうスカートから抜け出した。頭に巻いたエプロンがするりと解け、床へ落ちる。

 ゆっくり立ち上がり見上げた先の母親は、首や背中から大量の血を流し、水が目一杯張られた桶へ顔を浸けていた。


「――かっ……」


 少年が母親の袖を引くが、ぴくりとも動かない。桶の縁を持つ母親の手に触れる。強い力で握ったまま、指が開かない。


「駄目だよ、し、死んじゃうよ」


 少年は震える手で桶を掴む母親の指を一本ずつ外していく。流れ続ける水で指が滑る。両手外し終えると、母親の体はずるりと音を立て床へ倒れ込んだ。


「母ちゃん…母ちゃん、起きて」


 少年は母親を呼び、体を揺する。床に血が広がり、少年はびっくりして手を引っ込めた。頭は熱いのに、背中は寒い。手足の末端から熱が引き、歯が勝手にがちがちと音を立てる。


「起きてよ」


 青白く、水に濡れた顔を撫で、額へ張り付く髪に指を通す。なぞるようにして、瞼に触れる。

 まるで、眠る前のいたずらだ。そういえば「もう、眠れないじゃない」と叱られるのがくすぐったくて好きだった――なんてことを思い出す。そうだった。眠る前には、額にキスが降るのだ。


「かぁちゃ…………」


 少年の瞳から大きな涙こぼれた。


「かぁちゃんん……」


 身体が、脳が、じわりじわりと状況を飲み込み始める。幼い少年でも今目の前で母親がどうなっているのかを理解できた。

 昔、寿命の訪れた羊を家族で看取ったことがある。その時、父親に命はいつか尽きるということを教えてもらったのだ。弱った羊は次第に呼吸が浅くなり、遂には体が動かなくなった。最期は、ただの入れ物のようだった。

 星空を見ながら教えてもらった。中に入っていた魂は天に昇り星になるのだと。

 目の前にある母親の顔は、どんどん儚く白くなる。床に広がる血は止まっていた。入れ物へと変わっていくその姿を目の当たりにし、どれだけ時間を巻き戻したくても、もう叶わないということが少年にも分かった。

 大きな声が出ないよう、唇を噛んで泣く。口の中で血の味がした。

 よく見ると、母親の唇にもくっきりと歯型が残り、血が滲んでいる。少年は、何があっても声を上げてはいけないと二人交わした約束を母親も守ったのだと悟った。


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