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花冠と白い騎士  作者: 天晴 月湖
序章 その少年、生きる
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羊飼いの少年(2)


 早朝、少年はいつもより早く起きていた。今日は父親がチーズと羊毛を売りに行く日である。日が昇らないうちに食事を済ませ、家族全員で売品の準備だ。

 母親はずっしりと重そうなチーズを家の裏へ建つ乾燥小屋からテーブルへ運ぶ。形、大きさは様々だ。少年は清潔なふきんでテーブルに並ぶチーズを手際よく包む。父親は少年の包んだチーズを次々と荷車へ積み込む。


「にぃちゃん、あのね、これたべゆ」


 弟は椅子に登りチーズを指差す。ついさっきまで母親の背を追いかけ回していたが、どうやら飽きたらしい。


「これは売りに出すチーズだから駄目だって」

「んー…」


 少年が人差し指を弟の頬へ押し込むと弟はムッとした顔をして「ぺこぺこ」とお腹を押さえて見せる。その様子に少年は呆れたような笑みを浮かべ、戸棚にしまってある乾いた木の実を小さく砕き弟の口へ運んでやった。

 山羊から搾れる乳量は少なく多くは作れないため、少年の作業はすぐに終わってしまった。母親は弟を抱き上げ、窓から朝日を眺めている。


「――僕たち今日も留守番?」


 少年は外へ出ると父親に聞く。父親は荷物が崩れないよう長い縄で手際よく縛り付けている。大きな体の後ろ、東の空が桃色に染まっていた。そろそろ日が昇るようだ。


「そうだ。でなきゃ誰が羊と山羊の面倒見るんだ?」

「僕も行ってみたい……」

「駄目だ。危ないことだってあるんだぞ」


「父ちゃんいつも元気に帰ってくる!」少年が唇を尖らせると、父親は荷物を縛る手を止め、大きな手で少年の頭を撫でた。


「そうだな。それが幸運だって思わなきゃな」

「当たり前だもん」

「まさか。今日もこうして無事に過ごせたこと、お前たちが父ちゃんの子として生まれてきてくれたこと、全てが奇跡なんだぞ」


 父親は背を屈め、少年と視線を合わせる。真っ直ぐな空色の瞳に少年の顔が映った。


「……しあわせってこと?」

「そうだ。母ちゃんと出会えて、ギルとフィンが生まれて……父ちゃんは幸せ者だ」


「よし。今日もしっかり稼いでくるぞ」そう残すと、父親はご近所さんの家へ挨拶に向かった。緑色の煉瓦の家までは歩いて十分はかかる。父親はそこに一人で暮らす老爺からいつも馬を借りているのだ。

 程なくして父親は馬を引き帰ってきた。老爺の馬は灰色の若い牡馬だ。磨き上げ引き締まった体はまるで日の光を全身に纏っているかのような艶を放ち、銀色にも見える。何とも美しい毛色に、少年はいつも魅了される。


「久しぶり! エメット!」


 少年が牡馬の鼻を撫でると牡馬はそれに応えるように鼻先を擦り付け、はむはむと髪を噛んだ。


「あはは、よしよし」


 少年が満足そうな顔をすると牡馬は鼻を鳴らして見せる。


「すっかり仲良しだな」

「そうさ。僕たち友達だもん」


 誇らしげに少年が笑っていると、母親が弟を抱いて外へ出てくる。


「イルゼ、留守は頼んだぞ」

「ええ。デヴィンも……気を付けてね」


 父親は母親を抱きしめると、頬へキスをした。


「フィンも、いい子にしてるんだぞ」


 弟の頬にもキスをする。小さな手は父親の顎を押しのけた。


「とうしゃん、ちくちくいたい~」

「ははは、ギル、羊と山羊の面倒は頼んだぞ」

「はぁい……いってらっしゃーい」


 父親は少年の頬にもキスをする。確かに髭が刺さって痛かった。大きな掌を少年の頭へ一度乗せた後、父親はまた母親の頬へキスをし、今度は抱擁もしていた。

 別れの儀式を終えたあと、荷馬車は軋む音を立てながら遠く砂埃の舞う地平線へと消えていく。

 こうして父親が数日家を空けるのは定期的にある事なのだが、あの大きな体を持つ父親が家に居ないことが、少年には酷く寂しく思えるのだ。


「あーあ、僕も行きたかったなぁ」

「ふふ。朝から動いて疲れたでしょ。少し休憩しましょ」

「いい。羊と遊んでくる」


 少年は不貞腐れた顔をしながらも、父親との約束を全うするため乾いた大地へ駆け出したのだった。




◇◇◇




 次の日の早朝、予期せぬ形で父親は帰宅した。


「――イルゼ!!」

「――え? 何? 何があったの!?」


 高く鈍い音を立て、錆びた扉が開く。母親の名前を呼び、飛び込んできた父親は頭と右腕の付け根から血を流していた。少年は生まれて初めて見る人間の大量出血に目を見張り、言葉を失う。父親が早く帰ってきた喜びより、衝撃の方が大きかった。握っていた朝食のパンが床へと落ちる。

 母親が軽石の椅子を父親の元へ運ぶ。父親はそれどころではないと言うように手を振ると、母親の肩を掴んだ。若草色のワンピースに父親の血が染み込む。


「いいか、イルゼ。ギルとフィンを連れて逃げるんだ」

「そ、その前に手当て……!」


 母親が顔を青くして父親の傷へ指を伸ばすが、父親はその手を握り制止する。


「いいから! 見た目ほど傷は深くない! それより時間が無いんだ! このままだと、全員殺される」

「ころ……何があったの!」

「盗賊だ。国境を越えてきたリューベツァールの奴等だ」


 赤茶色の顎髭から血が滴り、床を濡らす。少年は口を開けたまま滴下する血を目で追った。


「ローレライに入って来てるの!?」

「ああ。道中逃げてる人間に会った。国境の町は襲われて壊滅状態だと。俺も襲われた。荷物も奪われた。俺はエメットに乗って帰ってきたが……この村も時間の問題だ」

「なんてこと……」

「ああくそ! ここまで……無事にやってきたのに……!」


 両親が未だかつて聞いたこともないような感情的な声で話し込んでいる。少年が母親を見ると、震える手で口元を押さえ何か考え込んでいるようだった。


「――とにかく! 金だけ持って逃げるぞ!」

「え、ええ。ギル、私から離れないで」


 父親の大きな声に驚いた母親の体が大きく揺れる。母親は食器棚の奥の板を外すとそこからずっしりと重たげな袋を引っ張り出し右手へ持つ。左手で少年の手を握った。

 父親は窓から外の様子を伺うと、今度は母親と少年、部屋中に視線を走らせた。


「フィンは……!? フィンはどこだ!」

「……え? 嘘! 扉が開いてるじゃない……!」


 外へ繋がる扉は開いたままで、乾いた風が外から流れ込んでくる。

 見上げた母親の顔からは血の気が引いていた。


「ああ! くそ! すまない、俺のせいだ。俺は外に行く! フィンを守るから、ギルを頼む……! とにかく国境から離れるんだ!」

「ええ! お願いデヴィン! 大丈夫、ギルは私が守る!」


 少年は外へ飛び出す父親の背中を見送った。母親の手は熱く、汗でじっとり濡れている。

 窓から差し込む光が日の出を知らせた。今日がいつもの今日であれば、少年が羊と山羊を放牧している頃だ。朝日は母親の若草色のスカートから肩口までを照らす。真新しい血とそれは、何とも不釣り合いだった。


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