羊飼いの少年(1)
暗い闇に、体が沈む。この感覚、何度目だろう。
(――ああ、またこの夢か……)
血を流し倒れた、母親の頬の冷たさ。
(やめてくれ)
血まみれで蹲り、微動だにしない父親。
(もう、やめてくれ)
口から血を流す、小さな弟。
(僕だけ置いて行かないで)
何度苦しんで、涙を流せばいいのだろうか。
僕はこの結末を知っている。
暗い闇、深い深い心の底……僕の中に、眠るのは――
◇◇◇
遠くの地平線に砂埃が舞う。何かを知らせる笛の音が少し遅れて耳へ届く。いつもの生活音だ。
枯れかけた草木がささやかに茂る痩せた大地を駆け回り、羊を追う少年がひとり。少年は十歳の誕生日を迎えたばかりだ。くすんだ灰色の髪はぼさぼさで、耳の下まで伸びている。目鼻立ちはすっとしているが、窪んだ目と頬がそれ以上に目立つ。体は痩せこけ、骨と皮。服はくたびれ穴が開いている。
ただ――澄み切った空を映したその瞳だけは、決して揺るがない美しさを放っていた。
砂漠化の進んだ大地へ一際強い風が吹く。風を遮るものもなく、舞い上がる砂が少年の瞳の中でもがいて遊ぶ。不快感を拭うように少年は額から伝う汗と一緒に顔を擦った。
広大な砂地へぽつんと建つ小さな家が、少年の住まいだ。夕日色の煉瓦で造られた家は若干傾き今にも倒壊していましそうで侘しい。家の裏には石を積み上げ作られた背の低い小屋があり、その横へ家畜を入れる為の木柵がある。少年の背より柵が高いのは、何度も繰り返される山羊の脱走を防止するためだ。
少年は太陽が雲に隠れると、慣れた手つきで木の棒を振り回し柵の中へ羊と山羊を追い込む。そして出入口へ引っ掛けてある縄を手に取り、柵を固く縛った。朽ちた木がみしっと音を上げる。
家の壁へ差し込まれたホースを引き抜くと、勢いのない水がじょろじょろと音を立て地面へ零れる。少年は太陽の熱をたっぷりと含んだ顔や手をバシャバシャと洗った。気持ちの良さに「はぁー!」と声を出し、顔を左右へ振り水を落とす。顔はすぐ火照りを取り戻すが、ずっと水を使う訳にもいかずホースを壁へ刺し直した。家の周りを半周程歩き建付けの悪い錆びた扉を右手で押し、家へ入る。
「あぁー母ちゃん、腹減った」
少年は腹を押さえ流し台へ立つ母親へ声をかけた。母親は一つに結んだ灰色の長い髪を揺らし、少年を温かい目で迎える。夕日をそのまま映したような橙色の瞳。痩せていてひょんと背が高く、足首まで隠す長い丈の若草色のワンピースと生成りのエプロンを身に着けている。母親の足元には今度三歳になる弟が抱っこをせがみ、しがみ付いていた。
家の中は質素だ。入って左へ大きな窓が一つ、右を見れば流し台と食器棚、正面を見ればこの土地の特産である白い軽石で造られたテーブルと椅子が四つ。その奥に寝室、浴室へ続く扉が一つ。それだけだ。少年は椅子へ腰掛けると「疲れたぁ」と声を漏らす。
「おかえりギル、夕飯まだだから……チーズ食べる?」
「食べる!」
くすくすと笑いながら母親が濡れた手をエプロンで拭いている。流し台には先程少年が抜いたホースが顔を覗かせ、年季の入った桶に向かって弱々しく水を落としていた。
母親は食器棚から小さな皿と円形の硬いチーズを取り出す。薄く切ったチーズを二枚皿に乗せ、少年の目の前に置いた。少年はチーズを口に含むと直ぐ飲み込まないよう、まずは口の中でじっくりと舐め回す。絶妙な塩気に唾液が溢れ、熟成された香りが鼻へ抜ける。歯を立てたいが、我慢する。もったいないので舌で削り舐め溶かす。そうすると長い時間口の中でチーズの旨味を楽しめる。少年はうっとりとした顔で余韻を楽しんだあと、鍋で湯を沸かす母親の隣へ行き、顔色を伺いながら夕飯用であろうチーズに齧りつく。
「あ! もう、食べ過ぎよ」
少年の母親は呆れたように微笑む。少年はいたずらっぽく笑うと、弟を抱き上げた。
「にぃちゃん、おかえりい」
「ただいま。フィン」
少年は幼い弟の頬へ自分の頬を押し付ける。柔らかく、母親や父親には無い肉付きの良さがある。柔らかな赤茶色の髪からは太陽のような香りがして、心の中まで温かくなる。弟はくすぐったそうに笑うと少年の首へ手を回した。それを見た母親は、二人を包み込むように抱き締め「んー大好き」と少女のように笑いながら言う。母親の時折見せる子供のような表情が、少年は大好きだった。
「お楽しみの所すまんが、父さんも交ぜてくれないか」
大きな影が少年の視界を覆う。頬を押し上げる盛り上がった胸筋と逞しい腕は父親のものだ。いつの間にか仕事を終え帰ってきたらしく「今日は【ご近所さん】が良い物をくれたぞ」と言いながら強い力で家族を抱く。右手に握られた袋の中から漂う香ばしい香りを敏感に感じ取った少年は胸を躍らせる。
「パンだ! 父ちゃん離して!」少年が窮屈な腕の中でもがく。
「とうしゃん、くるしー」弟が言った。家族四人のささやかな笑い声が煉瓦の隙間から外へ漏れた。
◇◇◇
少年は貧しく小さな村で生まれた。人口が少なく、人より家畜の数の方が多い。地平線を見渡し辛うじて視界に入る緑色の煉瓦の家、その一件が【ご近所さん】だ。
少し歩けば隣国との国境があり『戦争』が行われている。少年が生まれた時から続く『戦争』はこの世界では当たり前だ。
家族は山羊の乳で作ったチーズと羊の毛で作る織物を、国境の住人と兵士に売って生計を立てている。
父親はいつも、ご近所さんの家の畑で働いている。お金は貰えないが、珍しい食品や収穫物を度々お裾分けしてくれるのだ。
母親は流し台で黒パンを袋から出す。普段食卓に並ぶことが無いご馳走に、少年は今か今かと首を長くして待っている。母親はそれを全て薄く切り、数枚だけ食卓に出すと食器棚へしまった。少年は貴重なそれを一枚手に取り、一口齧る。酸味が口に広がり、穀物の香りが鼻へ抜けた。密度の高い黒パンは香りも相まって非常に食べ応えがある。少年は最初の一口を飲み込むのが勿体なく感じ、口の中へ含んだまま舌で転がし香りを楽しんだ。
「うーん、美味いなぁ」
父親の言葉に少年は何度も頷く。
「うん! おいしい」
少年はやっと一口目を飲み込んだ。
「あ、そうだ、父ちゃん、羊のあれ……僕もしたいんだ」
「ん?あれって何だ」
黒パンにバターを塗る手を止め、少年は口を開く。朝からご近所さんの持つ畑で働く父親とゆっくりと会話ができるのは、夕飯の時くらいなのだ。少年は少しだけ頬を染め、恥ずかしそうに父親から目を逸らした。少年は山羊のミルクを一口飲むと、父親を真っ直ぐ見据える。
「――こう、ハサミでチョキチョキって」
「あぁ、毛刈りか。…… ギルがもう少し大人になってからだな。危ないから」
「えぇ!僕もしたい!羊追いかけるのもう飽きたよ」
「はは、大人になれば嫌ってほどできるさ」
そう言いながら、父親は大きな口で黒パンを齧る。少年はつまらなそうに口を尖らせた。少年にとっては大きな提案であった。羊と山羊が短い草を探しては齧りを繰り返し、毎日隣でそれを見守るだけの仕事に意味が見い出せていないからだ。肩を落としあからさまに落胆する少年に、父親は空色の瞳を細めた。
「――残念か?」
「うん。だって僕さ、父ちゃんみたいになりたい」
「はは、なれるなれる」
「父ちゃん適当ばっかり」少年はむすっと頬を膨らませ、わしわしと頭を掻いた。母親譲りの細い髪が指へ絡まる。父親の髪は赤茶色で硬くて太い。顎には髭が生えていて、どちらも羊の毛刈りバサミで短く整えられている。身体は大きく、筋肉質だ。男らしくて、少年の憧れだ。口に出して言ったことはないが、本当は赤茶色の髪の毛が良かったと何度も思った事がある。
「はぁ…」
少年の溜息をよそに「あ、そうだ。そろそろ私も後ろを切ってもらおうかしら」なんて言いながら母親はミルクを含ませた黒パンを弟に与えている。弟の髪は赤茶色。少年は不公平だと思った。
テーブルの上には黒パンとチーズとバターとミルク。そして、ほんの少しの乾いた木の実。家族と囲む、いつもの食卓――少年の日常である。
決して裕福ではないが、少年の心はいつも満たされていた。