夫だけを愛し、ほかの男とハグしてはならない
玄関扉を開けると奇妙なことに、場の空気が固まった。
オズボーンは後ろで手を組み、なぜか横目で意地悪くロッドを眺めているし、ロッドは呆気に取られた様子で直立したまま微動だにしない。
え……この空気、何?
祐奈は少し怖気づいたものの、オズボーンとロッドを順に眺め、
「――お久しぶりです、オズボーンさん、ロッドさん」
と微笑みながら挨拶してみた。
どんなに気まずい状況であっても、挨拶さえしておけばそれなりになんとかなる……これは日本で培った価値観なので、こちらの世界で通用するかどうかは不明であるが……。
祐奈が挨拶してみても、オズボーンのニヤニヤ笑いがさらに深まっただけで、ロッドのほうは依然として固まったままだ。
さすがにこれは異常事態……と小首を傾げると、隣にいるカルメリータがコソコソッと耳打ちしてきた。
「あの……もしかしてロッドさんは祐奈様の顔を知らないのでは?」
「あ」
そうか……ベイヴィア大聖堂に滞在していた時、ヴェールをつけていたんだった。
国外に出て、ラング准将に告白した時点でヴェールを外した。それから何も着けていない状態に慣れてしまったので、このようにうっかりしてしまう。
「あの、ロッドさん……私は祐奈と申します。以前ベイヴィア大聖堂でお世話になった『ヴェールの聖女』です。ロッドさんには転移の概念について教えていただいたり、カナン遺跡内の銅板に書かれた古代文字解読の件で助けていただいたりして、とても助かりました。ありがとうございました」
考えてみると、自分は『ベイヴィア大聖堂に滞在した多くの客の中のひとり』にすぎない。ロッドからするとすでに記憶が薄れているのかもしれない。こうして訪ねて来てくれた経緯はよく分からないが、無理矢理オズボーンに連れて来られただけという可能性もある……。
祐奈がお礼を言うと、ロッドがハッとして身じろぎし、やっと言葉を発した。
「た、大変失礼しまし、た――その、お顔を初めて拝見したもので」
「あ、そうですよね……旅の途中からヴェールなしに変えたんです」
なんだか改めて言われると、恥ずかしいなぁ……祐奈は顔が熱くなってきた。
ちょっと違うかもしれないけれど、変身ヒーローって絶対に正体を明かさないじゃない? 『何かをかぶって顔を隠したことがある人は、その後素顔がオープンになった場合に大変気まずい思いをする説』ってあると思うなぁ。
「祐奈様はその……優しい声から想像していたとおりのお顔です」
すごいな……顔の骨格によって声の特徴がある程度決まるという説を聞いたことがあるけど、その知識を利用すれば、声を聞くだけで顔の造りを推測できるの? 彼はそういった音声学にも通じているのだろうか?
「そうですか?」
祐奈が興味を覚えてロッドを見返すと、
「いや違う――『想像していたとおり』というのは嘘です。実際にお会いしたら衝撃すぎてこれは現実なのか……?」
「???」
ど、どういうこと? 祐奈は頭が混乱してきた。
すると成り行きを見守っていたオズボーンが、含み笑いをしながら話しかけてきた。
「祐奈、おひさー、元気そうで何よりー」
「……どうも」
この人の場合、フレンドリーならフレンドリーでそれもまた怖い……祐奈が警戒して顎を引くと、オズボーンが目を閉じて「んん」と咳払いをし、気取った仕草で自身の聖職服を整えた。そしてパチ、と片目を開け、口角を上げる。
「こうして久しぶりに『友達』に会ったってのに、ハグもなし?」
「……だけどオズボーンさんは『友達』じゃないですよね?」
「うわ冷たっ! 何この子、人でなしー」
失礼だな……祐奈はイラッとした。本当の友達なら、平然と相手を窮地に追いやったりしないぞ。君、過去の自分の悪行を忘れていないか?
半目になる祐奈を見返し、オズボーンがニヤニヤしながら続ける。
「じゃあロッドくんには? 彼にはお世話になったわけだよねえ? わざわざ家まで来てくれた恩人にハグしないって、人としてどうなのかなあ……それって暗に『あなたを歓迎しません、早く帰って』って言っているも同然だからね?」
……本当に? とカルメリータを見遣ると、
「ニュアンスは大袈裟ですが……でもオズボーンさんの主張は間違いとも言い切れません。ハグまではしなくても、握手をするというのはどうでしょう?」
との見解が返ってきた。
握手か、それなら祐奈にも抵抗がない。
ただしオズボーンは『友達』ではないので、彼に対してはやはり握手も不要だろう。
そうなると……祐奈はロッドのほうに視線を移し、「ようこそ」と手を差し出した。
するとロッドが「うぐ」という謎の呻きを発し、こわごわ手を持ち上げる。
なぜか尋常ではない緊張感が漂う中、ふたりの手が近づく――……五、四、三、二、一――……そしてもうすぐ手が触れ合うというところで、祐奈はグイッと後ろに体を引かれた。
「わ、あ……」
ロッドのほうに手を伸ばしていたのに反対方向に遠ざけられ、踵に体重がかかり、よろけた。けれど転んでしまう危険性はなかった。
気づいた時には鎖骨の辺りと腹部を抱え込まれ、背後からすっぽりハグされていたからだ。
仰ぎ見るようにそっと振り返ると、至近距離に琥珀色の綺麗な瞳がある。
「エド……」
彼が謎めいた瞳でこちらを見おろし、短く制止してきた。
「だめ」
初め、意味が分からなかった。
「ん……何がだめなの?」
「結婚の際に神に誓っただろう――夫だけを愛し、ほかの男とハグしてはならない」
あくまでも端正な佇まいを崩さず彼がそう言うので、祐奈はくすっと笑みを漏らしてしまった。
「そんな誓いはなかったわ。あと、ロッドさんとはハグをしようとしていたわけじゃない。握手だから」
「それもだめ。夫だけを愛し、ほかの男と握手をしてはならない」
「全部初耳」
「ほら……ハグなら俺にして」
そう促され、どういう理屈なのかは分からないのだが、祐奈はラング准将の腕の中で反転させられ、彼にハグしていた。ラング准将が祐奈の体を抱え直し、ポンポン、と優しく背を撫でる。
慈しむように腕の中の愛妻を見おろしてから、ラング准将がスッと視線を上げた。
怜悧な瞳が対面のロッドを見捉える。
「ロッド――私の妻に気安く触れるな」
「………………」
可哀想なロッドは立ち尽くし、声も出ない。
祐奈は『ロッドさんは悪くないのに、これはさすがに』と抗議の声を上げようとしたのだが、そのタイミングでラング准将からなだめるように背中を撫でられ、言葉が喉のあたりで止まってしまった。これはもしかすると『気を逸らす』という体術の一種なのかもしれない。強く触れられたわけでもないのに、抗えない。体から力がフニャリと抜け、さらにラング准将に寄りかかってしまう。
それを眺めていたカルメリータが口元に手を当て、
「あらまあ……」
と赤面しながら呟きを漏らした。
この頃には奥からリスキンドも出て来て、ヒュウ、と口笛を吹いた。
元凶のオズボーンは「ロッドくん……下心なくスッと触っときゃ握手できたのに」と皮肉げに片眉を上げた。
奥から見物に出て来たミリアムは、抱き合う夫妻を無遠慮にジロジロと眺め回し、
「なんともエロイねえ……ええもん見た」
と身も蓋もない下品な感想を漏らした。




