人生はほころびる
「上条さん、大丈夫ですか?最近毎日のように終電じゃないですか?」
直子は会社の営業事務だった。僕以外にも担当がいて。ベテラン事務で、課の中では一番仕事が速くて正確と定評があった。
「慣れない仕事だと、どこで手を抜いていいかわからなくて、緊張するし。」
あくびが出た。
「でも、さすがに疲れました。」
「たまには気を抜かないと。今日はもう、帰ったらどうですか?」
うーん。とうなる。
「じゃあ、気晴らしに食事に行きましょうよ。そんで、戻ってきたら?その方が効率がいいですよ。」
だけど、その日の夜、やっぱり疲れてたんだろうな。ちょっとだけのつもりでお酒を飲んだら、思いのほか酔ってしまって。
「なんで、俺が残ったんだろうな。毎日家に帰ってエプロンつけてる奥さんみると、思っちゃうんですよ。」
誰かに言いたかったのかもしれない。でも、同僚の男の人には絶対言いたくなくて。弱いところなんて見せたくなくて。気づいたら直子に話してた。
「エプロンなんか全然似合わないのに。あの人には。」
「じゃあ、何が似合うんですか?」
「白衣。研究用の。」
ふふふと笑う。
「ああ、そうですね。長谷川さん、白衣似合ってたわ。」
「あれ?知ってるの?」
「覚えてますよ。わたしが入社したときはまだ独身で。研究職の紅一点の人。」
「ええ?そんなころにもういるの?じゃあ、見た目より年上?」
「気、使わないでいいですよ。わたし、行き遅れですから。上条さんや奥さんとあまり変わりませんよ。」
直子が笑った。僕はまた、酒をのどに流し込んだ。
「うちの奥さんはさー。」
空っぽになったグラスの底を見ながら続ける。
「きっと脱落した俺のこと見ながら思ってるんだよ。自分だったら、営業に飛ばされることなんてなかったのにってね。」
「上条さん、そんなふうに考えたらだめですよ。」
「だめ?」
「職種にこだわりすぎです。前半で研究しているから、その経験生かして、誰にもまけないMRになればいいじゃないですか。」
「誰にも負けない?」
「そうですよ。むしろ、どっちもできるのは能力あるからですよ。」
明るい声でそう言って、にっこり笑った。ずっと落ち込んでいた気持ちが、初めて前向きになれた。
あの時、僕はたしかに直子に救われた。
翔子さんじゃなくて直子に救われた、それは、本当だ。
がむしゃらに仕事するようになって、やっとコツがつかめるような気がして、そして、思った。確かに僕にはセンスがあるかもしれない。営業の。少しずつ成績があげられるようになり始めて、周りにも一目置かれるような感じを受けたとき、僕は、どうかしてたんだろうな。調子に乗ってたんだと思う。
支えてくれた直子に気持ちがいってしまって、つい、一線を越えた。
地方への出張先で、直子がついてきて、2人で。その日の仕事もうまくいって。
「いつもありがとう。感謝してます。」
お礼にご馳走した。窓からの眺めのいい雰囲気のある所。
「いや。わたしなんて何も。上条さんの実力ですよ。」
「でも、前向きになれたのは富田さんのおかげですよ。」
独身で年齢も少し上になってきて寂しい女の人だって分かってて、お礼をするのならもっとおいしくても女の人といくような店じゃないとこでよかったのに。そういう店を選んだのは自分だった。
「じゃあ、お疲れさまです。」
「自分の部屋に戻るんですか?」
直子がそう言って、僕はそういう言葉をどこかで待ってた。
2人とも大人で、直子からもらう励ましの言葉の裏に僕への気持ちは見え隠れしていて、それで、僕が気付いていることは直子も知っていた。2人で泊まりで出張をしていて、僕が今日家に帰らなくてもいいことが明白で、そんな日の夜にいつもの居酒屋とかじゃなくて、違う雰囲気で食事して、それは結局僕が直子を誘ってたんだと思う。
「わたしの部屋で飲みなおしません?」
あの時、彼女、結構緊張してたと思う。断られる可能性も覚悟してた。
女の人として僕を憧れの目で見てくれる直子が、あの時、欲しくて。そういう風にみられることで、男としての自信を取り戻したかったんだ。
でも、それは直子でなくてもよかった。他の女の人でも。僕に憧れてくれる人なら。
どこかでは本当は分かってたんだと思う。だけど、止められなかった。
あの時、翔子さんに飽きてたんじゃない。
あの時、僕は翔子さんから逃げたかった。好きだからこそ、愛していたからこそ、ちゃんと認められたくて、でも、まっすぐ向かって行って、認めてもらえる自信がなかった。
翔子さんは絶対に僕を否定したりしない。否定したりしないんだけど、彼女の存在自体が、彼女がそれを望んでいなくても、彼女の優秀さが、僕を遠ざけ、僕を否定しているように思ったんだ。
本当に最低な男だと思う。
彼女がずっとコンプレックスに思ってたこと。
勉強ができる女なんてつまらない。それを、そんなことなんかないって言っておいて、裏切るんだから。彼女によりかかれなかったのは、それは、彼女が勉強ができる女の人だからだったんだ。直子は楽だった。尊敬してくれたし、その尊敬をそのまま受け入れられた。直子といると自信が持てた。あの頃、翔子さんといても僕は自信が持てなかった。
「子供ができました。」
「え?」
「どうしましょうか?ただ、すみません。わたしも若くはないので。」
直子がある時、僕を呼び出してそういうときまで、僕は世の中に多々存在している他の馬鹿な男たちと一緒でした。本当にばかで、能天気で、無責任で、そして、夢の中をふらふらと歩いてたんだ。
「あなたがどうするにしても、産みます。産んで育てます。」
そう言った後に、落ち着いた顔でお茶を飲んだ。女の人って結構、肝が据わっているものだ。いざとなると。
「急に言われても、ちょっと、わかりません。僕には奥さんも子供もいるし。」
「どのくらいで答えが出るの?早めにしてほしい。」
そう言うと、僕を残して直子はお店を出て行った。僕は一人で残された。
それでも、僕はぐずぐずと悩み、直子は僕のそんな煮え切らない態度に我慢できなかったんだろう。
「ただいま。」
乱暴な方法で自らの解決策を見出した。
「翔子さん?」
あの日、家について空っぽな部屋を、
「樹?」
2人の名前を呼びながら、歩き回った。どこにも2人がいなくって、狭い家はすぐに探しつくして。家はきれいだったけど、棚をあけると翔子さんの荷物と樹の荷物がなくって。
その時、僕は悟った。
自分が本当に愛している人が誰なのかを。失いたくない人が誰なのかを。
空っぽな部屋から電話をかけて、でも、翔子さんは出なかった。何度かけてもでなかった。机の上にもテーブルの上にも、どこにも書置きみたいなのはなくて。思い立って、真理子さんに電話かけた。そうだ。彼女のところにいるに違いない。
「はい。」
「真理子さん、あの。」
「修平さん、一体なにしたの?」
「翔子さん、真理子さんのところ?」
「うん。あ、ごめん。ちょっと待って。こっちからかけなおすから。」
しばらくして、電話がかかってくる。
「お姉ちゃん、絶対に修平さんに連絡しないでって言ってて。すっごい怒ってて。でも、理由教えてくれないからさ。困っちゃって。」
「そう。」
「なにしたかわからないけど、別れるって言ってるよ。」
「そうなの?」
それでも、このときはまだ、話せば大丈夫だって思ってた。2人で積み上げてきた時間があったし、樹もいたし。
「ねぇ、修平さん。お姉ちゃんって一旦こうって決めるとすっごい頑固なの。大丈夫?」
「明日、迎えに行くから。」
次の日、真理子さんの家に行って、チャイム鳴らして、気の毒そうな顔した真理子さんが出てきて、
「こんばんは。あの、翔子さんは?」
「それが……」
言いにくそうにしている真理子さんの頭ごしに部屋の中を覗く。玄関に2人の靴が見えて、見慣れた樹の小さなスニーカー。でも、声が聞こえなかった。2人の声が聞きたくて、顔が見たかった。毎日のように見てたのに、突然見ることも触れることもできなくて。何が起こったのか自分でもまだわからない。
「お姉ちゃん、会わないって言ってて。」
「うそ?」
「その、説得はしてみるけどね。でも、しばらくはやっぱり我慢したほうがいいんじゃないかな。お姉ちゃんがもうちょっと落ち着くまで。修平さんの気持ちもわかるけど。」
会えない日が一日、一日と連なっていった。
そして、僕たちの間で何か目に見えないものが形になっていった。
透明ななにか。僕たちを他人にしていくもの。冷たくてかたい何か。
翔子さんのいない家。樹の寝ないベッド。聞こえない笑い声、泣き声、ぱたぱたと走り回る足音。
夜遅く家に帰ってくると、ときどき樹のおもちゃが片づけられずに散乱していて、それを見ると、今日何をして遊んでいたのかがよくわかった。積み木がいろいろな形に組み立てられていたり、ウルトラマンと怪獣が向き合って立っていたり、本人は寝てて会えないんだけど、残されたおもちゃが僕に話しかけてくる。
それは、本当にかわいい詩のようだった。あれを眺めるの嫌いじゃなかった。自分が働いている間にそれで遊んでいた息子のことを思って、疲れが取れる瞬間。
そんなことまで思い浮かべた。
翔子さんの優しく樹を呼ぶ声。おかえりなさいといつも僕の顔を覗き込む顔。営業に回された日からは、いつも心配して、でも、どう声かけていいのかわからなくて、悩みながら、それでも、何かしてあげたくて。そういう困った顔。
悩んだり戸惑ったり苦しんでいたのは決して僕だけじゃなかったのに。
それなのに、自分のことしか見えなくなっていて。彼女の気持ちを考えもせずに、他の女の人に甘えるなんて。本当に最低だ。
直子に電話をかけた。
「君は一体、何をしたの?」
今になって思う。直子との関係。本当は最初の最初はそんなにひどかったわけじゃない。直子は直子なりに、僕を励まそうとしてくれてたし、たしかに僕は彼女に励まされた。でも、彼女は僕に断りもなく、僕の家庭に入り込んで、乱暴な方法で全てをぶちまけて、いろんなものを壊していった。
彼女が壊したのは翔子さんと僕の関係だけじゃなかったんだ。ついでに、僕と直子の関係もあの時に壊れた。
「あなたが、はっきりしないからよ。」
「だからって、土足で踏み込んでいいところじゃないよ。僕の家は。」
「どうなったの?わたし、知らないの。結末を。」
「出てった。2人とも。帰ってこないし、会ってもらえない。」
「ふうん。」
一体、何がどうなればこんなふうに、残酷になれるのだろうか。人は。この女の人をここまで残酷にさせているのは、僕なんだろうか。
「どうするの?これから。」
「わからない。」
「ふうん。」
「彼女次第だよ。翔子さん次第。」
「ふうん。」
直子は、僕たちを壊したら、僕が自分のものになると思ってたのか。違うと思う。僕が直子のものにならないことはわかってた。だから、僕を自分のものにするためにではなく、ただ純粋に僕たちを壊したかったんだと思う。なにかの腹いせに。うまくいかない自分の人生のために。そして、それは成功した。
「久しぶり。」
翔子さんは、自分が自分として立ち直るまで、僕に会ってくれなかった。そして、実に一か月ぐらいまたされた上で会ったとき、彼女はすでに心を決めていた。
「別れよう。わたし、いろいろ考えたけど、もう修平君のこと信じられないし。」
白い光の中で、たんたんと涙を見せずに告げられた。
「それに、直子さん、だっけ?言われたわ。1人でほおりだされたら、生活の手段がないって。」
そっと、窓の外を見た。
「子供抱えて、女手ひとつで働きながらって、簡単なことじゃないよね。幸いわたしには薬剤師の資格もあるし、結構お金と時間もかけて取ったものだしさ。使わないと損だし。なんとかなると思うんだよね。」
「僕は、翔子さんと樹と別れたくなんてないよ。」
「ねぇ、修平君。」
彼女、僕をじっと見つめた。
「わたしと一緒にいるより、彼女と一緒のほうが楽なんじゃないの?最近ずっと思ってたの。元気のないあなたをどうやって慰めたらいいのかわからなくて。」
彼女が長い間、悩んでて、真剣に。僕が悩んでいるのは自分のことばかり。でも、翔子さんは僕のために悩んでいた。苦しんでた。
「最近分かったの、好きだけじゃ結婚って続けられないんじゃないかな?あなたもきっとわたしのことをまだ好きなんだと思うの。それはわかる。でもね、好きだっていうのといっしょにいられるっていうのは違うんじゃないかな?あなたが一番大変なときに支えられないなら、わたしはやっぱり失格なのよ。奥さん、失格。」
話し合えなかった。ちゃんと。そして、彼女は1人で悩んで1人で結論をつけてしまって、
「心配しないで。わたしと樹は大丈夫だから。」
そっと荷物を肩にかけて、立ち去ろうとした。
「そんな簡単に、終わりにしないでよ。」
思いのほか大きな声が出て、お店にいた人たちがこっちを見た。僕は構わず彼女の手を握った。翔子さんはこっちを見た。
「修平君、離して。」
冷たい目をしていた。そして、僕の手を振りほどいた。
僕は思い出した。初めて彼女の手を握った日を。キャラメルがこつんこつんと落ちてベンチに当たった音を。あの時、僕は拒絶されるかもしれないとびくびくしていて、でも、彼女は僕の手を振りほどかなかった。あの日からずっと彼女は優しかった。
それが終わった。終わったんだと思った。
「さようなら。」
背中が怒っていた。最初からずっと穏やかだったけど、最後に手をふりほどき背中を見せて怒りを見せて、そして、一度も振り向かずに去って行く。
泣きわめいたり、ひっぱたかれたり、そういうほうがきっとよかったんだ。だって、そうなるってことはまだ、翔子さんの中にも揺れてるものがあって、そこにつけこんだら、望みがあるってことじゃない。あんなに優しかったのに。ずっと僕の物だったのに。当たり前のように自分のものだったのに。こんなに簡単に失ってしまった。こんなに簡単に。
好きな人に拒絶されるということがこんなにつらいものだなんて、僕はこの時まで知らなかった。
そのうち何日かして彼女の部分だけ書き込んだ離婚届けが郵送されてきて、僕はそれをしばらく放置していた。直子とも別に話さずにいて、でも、彼女のおなかが目立ってくるにしたがって、彼女の不安な様子をぼんやりと見ていて。翔子さんが帰ってこないという現実に慣れてきて……。生活力のない女の人と自分の血を分けた子が路頭に迷うようなことをただ静観しているほどに僕は冷血でいられるわけもなく。
離婚届けに自分の名前を書いた。一字一字ごとに、僕は魂を削った気がした。四文字書き終わって、僕の中の何かが死んだ。印鑑を押して、区役所に届けを出して、直子に連絡をした。
「責任を取ります。」
結婚しようとか、そんな言葉がでない。直子を受け入れようとか愛そうなんて気持ちはなく、むしろ、恨んでいた。もう少しやり方が違ったなら、僕は翔子さんを失わなかったかもしれないのに。きっと一生、この人のことを許すことはないと思う。ないと思うけど、のたれ死ねばいいと思うほど憎んでいるわけじゃない。
そして、僕は笑わなくなったんだと思う。めったに冗談も言わなくなった。