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雲のうえとした  作者: 汪海妹
6/10

君より僕のほうがつまらない

(22年前)


僕が研究職から営業職へ移されたのは、翔子さんと結婚して、樹が生まれて、幼稚園に入ったばっかりの頃だった。翔子さんが、樹のことを思って仕事を辞めて半年ほどのことだった。

「上条はさ、人あたりもいいし、見てくれもいいしさ。理系男子じゃなくて文系っていってもいいんじゃないの?そういう特性生かせよ。新しい職場で。」

会社はいつも人材に投資する。研究職の人員は毎年コンスタントにとっている。そして、その中から時間をかけて厳選した人員のみを残し、それ以外は別の部署へ移すんだ。

だからと言って僕の研究者としての能力は周りの人たちと比べてものすごく下だったわけじゃない。結局、一握りの人がむっちゃ優秀で、そんで、それ以外はどんぐりの背比べなんだ。

「そう言えば、奥さんは元気?」

「ああ、はい。おかげさまで。」

「もったいないよね。結婚なんてしちゃってさ。結婚だけが人生の答えじゃないのにな。」

すっごく嫌な上司だった。この人に換わったのが運のつきだった。僕の人生の、転がりはじめ。この人、なんとなく僕のこと嫌いで。そんで、誰を飛ばすか決めるとき、能力的にそんな差があるわけじゃないから、最終的には好きか嫌いかなんだよね。決定権持っている人の。

運さえあれば、もう少し基礎研究に関われたと思う。ただ、遅かれ早かれはあったのかな、やっぱり。でも、動かされるにしても、開発あたりじゃないかと思ってたから。量販に向けての研究とか、できるんだと思ってた。まさか、MRにされると思ってなかったから、落ち込んだ。

上司が言ってたのはある意味、当たってると思う。

自分は人当たりがいいし。所謂、世間が思っている理系っぽくない人間なのかもしれない。だから、営業とかのほうが上手なのかもしれない。できないとは思わない。たぶん、できるんだろう。

だけど、自分で選んで、一生懸命勉強して、それで、会社入って、こつこつ頑張って来たのってなんだったんだろうって。全部否定された気がした。自分の全部。

「ただいま」

「お帰り」

翔子さんがいつもと同じように僕を迎える。

「いつもより早いね。ごはんは?食べた?」

彼女に言いだしづらかった。

「食べてない。」

「ちょっと待ってね。」

台所にはいってく。

「あ、いいよ。今日は。お茶漬けかなんかもらえれば。」

顔をちょこんとだした。

「お腹へってないの?」

「食欲なくて。」

「そう。」

「樹は?」

「寝ちゃった。なんか疲れたみたい。幼稚園で。」

部屋へ行って、暗い部屋の中で寝てる顔を見た。

頑張るしかない。嫌なことがあったって。僕は。

子供の顔を見て、動揺した自分の心を整えたかった。でも、無理だった。ぱっと見て、ぱっと切り替える。そんなことできるわけがない。

「修平君?」

ドアのところでそっと翔子さんが僕に声をかける。振り向いた。

「今日、なんかあった?」

ちょっと遠慮がちに聞いてくる。秘密にしとくもんでもないし。それに別にリストラされたとかじゃない。

「ちょっとね。」

収入だって減らないし、営業成績によっては増えるかもしれないくらい。でも、言い出しづらかった。なんか、負けた気がして。敗北感があって、みじめで。そして、彼女にばかにされるんじゃないかと思った。同じ仕事をしていただけに。

「営業に移ることになった。仕事。」

彼女は息をのんだ。しばらく黙って、それからつぶやいた。

「そう……。」

もう一度彼女から顔をそらして、寝ている樹の顔を見た。すやすやと。

「考えてみたら、君だってこのくらいショックだったんだよね。仕事辞めたんだからさ。」

「そんなことないよ。」

「続けても、研究や開発に携われないんだったら、僕が辞めて君が残ればよかったのかもね。」

翔子さんが、困っている。困った顔で僕を見ている。

「一緒にやってたからわかる。君はきっと最後まで残るくらい才能あったよ。僕なんかと違って。全然。」

どうして、そんなひどいことを言ってしまったのかわからない。でも、止められなかった。彼女が僕のことを思って、心を砕くのが分かっていて、そして、ほんとは彼女が僕をばかにしないってこともわかってた。だけど、彼女がばかにしなくても、事実は変わらないし、それに、周りの他の人間は僕をそう言う目でみるだろう。


それから、忙しくなった。

いくら薬の基礎は分かっているって言ったって、営業では新人だし、それに、自分がやっていた分野とは別の薬を売ることになれば、一からいろいろたたきこまなければいけない。認可がどうとか、そういう周辺の事情もわからなければいけなかったし。


「いってきます。」

「いってらっしゃい。」


彼女とすれ違う日々が続いた。


ある夜、深夜に家に帰って、翔子さんがお風呂に入っている音が聞こえて、

「いたっ」

何か踏んだ。樹のおもちゃだった。片づけをちゃんとしない子で、翔子さんもばたばたと忙しいときは、夜帰ってくるときまで床に散らばっている。

「しょうがないな。」

拾って片づけてると、翔子さんがお風呂から出てきて、

「あ、ごめん。」

濡れた髪のままで、おもちゃを片づけ始める。

「風邪引くよ。先に髪乾かしなよ。」

「でも、あなた疲れて帰ってきているのに。」

そう言って、彼女は濡れ髪のまま、床に落ちたミニカーとか積み木とか拾って歩く。

ソファーにすとんと座って、そんな彼女を見つめた。

翔子さんは何事にも追及する態度を持っていて、発想にも独特なものを持っていた。発想というのは、努力では手に入らないもので、彼女はもともとちょっと変わってたし。1人で動物園行ってじっとペンギン見ていて飽きないような。興味を持ったものはとことん突き詰める人で……。

どうして、こんなつまらない男と結婚して、こんな深夜に床をはいずりまわっておもちゃを拾っているんだろう。

「翔子さん、僕と結婚して幸せ?」

翔子さんが驚いて、こっちを見た。

「幸せに決まってるじゃない。なに?急に。」

「僕みたいなつまらない男と結婚して、本当に幸せ?」

彼女が目をみはった。何も言えずに僕をじっと見た。

「修平君がそんなこというの、初めて聞いた。自分で自分のことつまらないっていうのは、いつもわたしだったのに。」

「変な話だな……。」

ぽつんと思う。

「僕なんかより君のほうが断然つまらなくなんてないのにね。どうして僕は今まで自分がつまらない男だってことに気がつかなかったんだろうな。」

そう言えば、一度も思ったことなんてなかったな。僕って平凡でつまらない普通の男だ。翔子さんは僕なんかと結婚するより、研究を続けてたほうがよかったんじゃないか。誰にも発見できなかったような新しいことや偉大なことをやる人というのは、翔子さんみたいにいい意味で変わった人なんじゃないかな?

「修平君、疲れてる?」

翔子さんが心配した顔で僕を見る。我に返った。何やってんだ、俺。

「ごめん。何でもない。気にしないで。風呂入ってくるよ。」


たしかに僕は、このときくたくたに疲れていた。心も体も。

でも、本当はあのまま何もないまま続いていれば、それでも僕たちは僕たちの心はちょっと離れた後にまたきっと戻れたと思う。ちょっとした要素がちょっとずつ重なって、僕たちは不安定になっていたけど、もう少したったら新しい落ち着き方を覚えて、そして、小さな衝突を繰り返しながら、形を変えながらそれでも、続いて行ったんだ。きっと本当は。

人生なんて、ほんの些細なところからほころびる。そして、崩れる。


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