蝸牛とチーター
そんなふうにときどき出かけた。約束して、普通の恋人同士がする普通のこと。映画見に行ったり、車乗ってふらふらしたり。でも、それは練習って名目で。
ある夜、ごはん食べ終わって帰る前、ちょっとだけ公園のベンチに座って、僕は彼女の片手を両手で握って僕の膝の上に載せていた。彼女はその手を僕に預けていた。
「翔子さん」
そっと下の名前で呼んだ。
「その名前で呼ぶの?」
「いけない?」
「じゃあ、修平君。」
ちょっとじんときた。
「知ってたんだ。下の名前。」
そういうと笑った。
「ばかね。同僚でしょ。知ってるわよ。そのくらい。」
「ねえ、翔子さん。僕、来月誕生日なんだよ。」
「そうなの?」
「うん。プレゼントちょうだいよ。」
「なにほしいの?」
この人なら、絶対に直接聞いてくるだろうと思ってた。
「翔子さん。翔子さんがほしい。」
耳まで真っ赤になっちゃったんだよね。
「そんなこと言う人漫画の中だけだって。」
「いや、言っちゃったな。今。」
はははとごまかす。
「僕の買う服着てさ、靴はいてさ、お化粧してきてよ。ちゃんとその日は。」
彼女はいつもぶかぶかとした服を着ていて、だから、服のサイズがいまいちつかめなくて、一緒に連れってった。そんで試着させた。でも、フィッティングルームのカーテンが待てど暮らせど開かない。
「まだ?開けるよ。」
「きゃ。やだ。だめだってば。」
何をやってるんだ、幼稚園児じゃないだろうに。そっと覗いた。隅っこから。
「なんだ、別にもう着てるんじゃん。」
開けちゃった。カーテン。
「え?やだ。信じらんない。覗いたの?」
かわいかった。別人みたい。
「こんなの、似合わないよ。」
「そんなことないよ。似合ってるよ。」
「恥ずかしくって歩けないよ。こんなの着てちゃ。」
「だめ?」
つい手が伸びて、彼女の肩に無造作にかかった髪をそっとなでた。とたん魚がはねるように彼女が体をびくんとさせて、僕の指先はしびれた。あの寝ぼけた朝につい彼女の髪に触れてしまったように、僕の手はときどき僕の言うことを聞かなくなる。
服に合わせて靴も買って持たせた。
きっと真理子さんが手伝ってくれたんだと思う。当日待ち合わせの日に、彼女はお化粧をしていたし、髪の毛、きっと美容院に行ったんだろうな、少し色が明るくなっていつもよりもっとさらさらしていた。彼女が僕に向かって歩いてくるのを僕はずっと見ていた。別人みたいに見えた。心配そうにしながら、ここは普通の道路なのに、地上なのに、まるでとても高いつり橋の上を歩いてるみたいにこころもとないんだ。足元が。
「お待たせ…しました。」
「ありがとう。」
「なに?」
「お願い事聞いてくれて。」
「変なの。」
「なにが?」
「自分の誕生日なのに、人に服買って、靴買って……。あ、そうだ。忘れてた。」
彼女、僕に紙包み渡した。
「誕生日、おめでとう。」
「ああ、ありがとう。」
ネクタイだった。
「なんか、ありきたりだけど。思いつかなくって。」
「ありがとう。大事にするよ。」
自分だったら買わないような色と柄で。でも、翔子さんは僕にこういうのが似合うと思って買ってくれたんだと思う。彼女の中にいる僕というのが少しだけ見えた気がした。
一緒にご飯を食べて、ちょっとお酒飲んで、その日はどうしてもと彼女がお会計をしてしまったんだけど。のんびりと歩きながら帰る。
「国によっては誕生日の本人が周りにありがとうってご馳走する日なんだよ。」
ぶつぶつ言う。
「でも、それでも本質は変わらないよ。今日、修平君が払ったら、わたしの誕生日の日はわたしが払うから。」
未来の話を当然のように翔子さんがした。たぶん無意識に。その時も当然2人は一緒にいるのだと彼女が思っていた。それが嬉しくて、何も言わずに彼女の手を取った。
「今日の僕へのプレゼントは翔子さんだって言ったのに。それだけで十分なのに。」
こっち見てくれない。
「本当に修平君ってときどき、びっくりするくらい恥ずかしいこと言うね。」
「そお?」
「学校で習ったの?そういうの。」
「いや。」
こっち見た。
「学校では教えないよ。こういうの。」
駅について電車に乗る。彼女の家の最寄り駅で降りようと立つと、彼女がちょっと変な顔して僕を見た。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。」
家の前まで送って分かれようとすると、急に言われた。
「今日は、修平君の家に行くのかと思ってたのに。」
「え?」
心なしか、ちょっと怒ってるみたい。
「おやすみなさい。」
階段のぼってっちゃいそうになったの、手つかまえた。
「どういう意味?」
「だって言ってたじゃない。今日のプレゼントはわたしなんでしょ?」
「……」
「本気か冗談かわからないようなこと言うのやめて。」
いや、ほんとに怒ってるな。これ、たぶん。そっと抱きしめた。
「すみません。」
「……」
「あの、翔子さんへの僕の気持ちは冗談じゃないですけど、でも、今まで蝸牛みたいにゆっくり進んでたのに、いきなりマッハで進むような乱暴なことはしませんよ。」
彼女は僕の腕の中で僕を見上げた。
「だって、そんなことしたら怖いでしょ?」
「そこまで気を使わなくても、修平君忘れてるみたいだけど、わたし、大人です。中学生とか高校生ではないよ。」
そんなこと言われたってさ。ほんのつい最近まで手つなごうって言われただけで、立ち尽くしてたくせに。これ、どうしたらいいんだろう?僕。
「じゃあ、折角だからちょっとだけもらおうかな。」
どうして、人を好きになると、自然にその人に触れたいと思うのか、僕はわからない。
わからないけれど、指をのばして彼女の額にかかっている髪をそっとよけて頬をそっとなでて、彼女にキスをした。きっとこれがこの子の初めてなんじゃないかな、と思いながら。
そして、また同時にたぶん、キスをしてしまったことで、これから僕は蝸牛でいつづけられないとも思いながら。
「おやすみなさい。」
階段を上っていくのを見送った後、駅へ戻ろうと歩き出した途中で、
「いって」
焼き鳥屋さんの看板に思いきりぶつかって、危うくその看板を倒して壊しちゃうとこだった。ほんと、痛かった。ついでに、すごいかっこわるかったよね。幸い誰も見てなかった。
翔子さんがあんなこと考えてあんなこと言うなんてほんと思ってなくって。だって、繰り返しになるけど、手つなごうって言われて立ち尽くす子なんて今までいなかったし。そりゃ、中学の頃とかならあったかもしれないけど。
だから、彼女に合わせてるうちに自分も中学生レベルまで若返ってたのかな。急に大人に戻っちゃうんだもの。いつも彼女をどきどきさせるのは僕だったはずで、僕のほうに余裕があるはずだったのに。看板にぶつかるほど動揺してしまった。今晩の彼女には。
電車に乗って帰る道すがら思う。
今晩、そういうつもりだったのかなと。
ということは、近いそのうちに彼女は僕に許してくれるつもりなんだろうか。あの翔子さんが?嘘だろ?
でも、それが嘘だったとしたら、僕はいつまで待つつもりだった?よく考えたら、そんなこと何も考えてなかった。考えずに恥ずかしがる彼女の顔が見たくて、ぽんぽん頭に思い浮かぶこと言ってただけ。まさか、本気にされてしかも、怒らせちゃうなんて思ってなかったんだよ。
足が痛い。まだ。痛いけどでも僕はやっぱり幸せだった。どうしようもないほどに。
そして彼女はそれから、職場にも軽くだけどお化粧をしてくるようになった。僕は気が気じゃなかった。髪や服も少し女らしくなって、そうすると、やっぱりみんなの態度や見る目が変わる。うちの職場の紅一点なので、彼女。僕みたいにいいなと思う人が現れるかもしれないじゃないですか。最も、自分が一番早かったというのには自信は持ってたけど。
「だから、次から気を付けますって言ってるじゃないですか。」
お盆休みが始まる前の日に、新人君が翔子さんにたてついてた。田中君。彼の凡ミスのせいで、実験をいちからやり直さなきゃいけなくなっていた。
「長谷川先輩だって、ミスぐらいしたことあるでしょ?」
「わたしはありません。少なくとも、こんなに簡単なミスはしません。」
ずばっと切り捨てた。
「あなたは、周りの迷惑考えて行動したことあるの?」
へらへらしていた田中君が、カチンときて翔子さん睨んでるのが見えた。僕含め周りのみんなちょっと心配になる。
「とにかく、もうミスしてしまったのはどうしようもないから、さっさと次の準備しましょう。今度こそ、同じようなことしないでよ。」
翔子さんは淡々と言ってたんだけど。
がん。
田中君、手に持っていた器具を乱暴に置くと、ばたばたバタンと勝手に研究室出て行っちゃった。
「なにあれ」
流石にみんなあきれた。
「長谷川さんは悪くないよ。」
声かけている同僚がいる。たしかに翔子さんは悪くない。悪くないけど……。
「長谷川さん、ちょっと。」
午後に上の人から呼び出しくらってた。部屋から出てきたとき、そこまで暗い顔じゃなかったから安心した。
「さっき、何だったの?」
周りの目を盗んで話しかける。
「え?ああ、最近の若い子は難しいから……」
翔子さん、チェックしている資料から目を離さずに続ける。
「自分が正しいときでも、言い回しとかね、気を使いなさいって。ばかみたい。」
「……」
「そうやって気を使っておだてて、いっぱしの人間になるのかしらね。」
そう言った。何も言わずにその場は終わらせた。
世の中には、正しいことが通用しない場面や相手がいる。
たぶん、田中君はそう言う子だと思った。それに、翔子さんが女の人なのも彼をいらいらさせた要因なのだと思う。そんなの、全然21世紀的じゃないと思うんだけど、誰もが公明で正大な21世紀に生きているわけじゃない。何世代か前の価値観で生きていて、それに本人は気がつかないまま、自分の正しさを証明するために、あることないこと言いまくるような人だっているんだ。その人自身の防衛本能で。
そういう曲がった物に対して、翔子さんはまっすぐすぎて。
そして、正儀がいつでも勝つって盲目的に思ってる。それが心配だった。彼女が好きで、大切だから。
「ああ、上条さんの横空いてます?」
「え?ああ、どうぞ。」
夜は部署の飲み会。夏休み前の慰労会。男ばっかの部署の地味な飲み会のはずだったのに、誰がどう声をかけたのか、総務や経理から独身の女の子が何人か来てた。そんで、うちの課には三人しか独身の男がいないので、その周囲に女の子が集まった。
僕は端っこにいて、翔子さんの前に座ってた。彼女が座るのに合わせて急いで取った席。
僕の隣に総務の女の子が座って、その横に田中君が座った。翔子さんのそばに座っちゃった。ちょっとまずいなと思ったんだけど。しょうがないな。彼女の方は気にしてないみたいだし。まあ、大丈夫だろう。
「上条さん、何飲みます?」
「ああ、ビールでいいです。」
僕には聞くのに、翔子さんには聞かない。
「翔子さんは?」
と言ったら、翔子さんがちょっと固まった。あ、まずった。
「わたしも、ビールでいいです。」
名前で呼んじゃった。誰か聞いてたかな?隣の総務の子そっと見る。じっとこっち見てる。でも、何も言わない。そんで、
「田中さんは何飲みますか?」
セーフだったかな。
「ねえ、佐倉さんってさ、彼氏いるの?」
酔いが進んでくると、田中君がいい感じで隣の子と話してる。助かった。相手したくなかった。翔子さんの前で。
「いないんですよ。誰かいい人紹介してください。いたら。」
「俺なんかどう?」
「え~。」
きゃははと笑う。
「みんなの前で言うっていうのは、冗談でしょ。」
「いや、半分本気だよ。」
僕は何も話さずに横の2人の馬鹿話片耳で聞きながら、翔子さんが食べる様子を見ていた。冷奴の上の葱だけたべたり、豆腐つついたり、なんで、こうもっとがばっと食べないのかな?豆腐嫌いなのかなと思ったりしながら。
「あの……」
「はい」
「自分、食べないで人が食べるのじっと見るのやめてください。」
そう言って、伏し目がちになる。
「すみません。人が嫌がることするのが趣味で。」
翔子さん、そこで、こらえてたけどこらえきれずにぷっと笑った。かわいいな。僕も微笑んだ。気がつくと、横の馬鹿話の2人が話すのをやめて、僕たちを見てた。
「ねぇ、上条さんは?彼女とかいるんですか?」
また、彼女とかか……。
「います。」
佐倉さんのほうを見ながら、目の端で翔子さんのこと見ながら。
「え~、嘘。残念。そんな人、前からいました?みんな上条さんはフリーだって言ってたのに。」
「最近、付き合い始めたばかりかな。」
「どこの誰ですか?」
「秘密です。」
「もしかして?会社?」
言ったら、やっぱりやばいよな。翔子さん下見て緊張してるみたいだし。
「社外ですよ。」
「ふう~ん。あ、じゃあさ、長谷川さんは?」
翔子さんがぱっと顔をあげた。困ってる。
「佐倉さん、長谷川さんにそういうこと聞いたら失礼だよ。」
田中君が言った。
「長谷川さんみたいな完全無欠な人はさ、男なんて必要ないでしょ。」
すごく嫌な言い方だった。昼のこと根に持ってるんだ。たぶん、こいつ。
「男より優秀な人だからさ。そんな女の人、恐れ多いって、みんな。」
翔子さんは何も言わなかった。でも、顔が固まった。
「長谷川さんってそんな優秀なんですか?」
「いや、そんなことないです。」
「すごいな~。わたし、勉強苦手だったもんなぁ。」
「でも、僕は佐倉ちゃんみたいな子がタイプ。」
その言い方も、わざと翔子さんに聞かせてるみたい。
「女の子はさ、勉強なんてできないほうがいいよ。」
さすがに、佐倉さんも困ってしまった。田中君の言い方に。
「そういえば、夏休みってどうするんですか?」
話題が変わった。2人でまたぺちゃくちゃ話始める。
「あの、上条さん。すみません。これで払っておいてください。」
翔子さんが気がつくと、お金をテーブルの上に置いていて。そんで、かばん持ってそっと席を立った。
「あ……」
課長のところまでいって、挨拶してる。帰っちゃう。
「お前さ」
腹立って田中に声かけた。
「もうちょっと大人になれよ。」
「何の話すか?」
「仕事でいらいらさせられたら、仕事でやりかえせよ。仕事以外で嫌な思いさせて、なんか楽しいのか?」
そんだけ言うと、翔子さんのお金の上に適当にお金おいて、僕もかばんを取って立ちあがる。
「それで足りなかったらお前がだせよ。田中」
「え?帰るんすか?まだ始まったばかりなのに。」
課長に声かけてから、外に出る。駅のほうに急いでいくと、とぼとぼ歩いている彼女の背中が見えた。
「追いついた。」
「ええ?」
顔見たらそんなに落ち込んでなさそうで、安心した。手つかまえた。
「どうしたの?なんで?」
「つまらないし。翔子さんいなかったら。」
彼女の手を持ち上げて唇を寄せた。彼女の少し青ざめてた顔が明るくなった。
「ちゃんと食べられなかったしさ、どっかで2人で何か食べようよ。」
「わたしなんかと一緒にいると」
夜の街に根っこが生えたように動かなくなった。この人。
「あなたが損しちゃうよ。」
「どうして?」
「みんなにばかにされるよ。」
「ばかになんかされないよ。」
「わたしはつまらない女だもの。」
そう言って、捨てられた犬みたいな顔で僕のこと見た。
「神様が決めたの?」
そおっと手を伸ばして街の片隅で彼女のこと抱きしめた。
「そうだよ。」
「ねぇ、翔子さん。君の神様は雲のうえにはいないし、雲のしたでもね、そこらへんにはいないよ。」
「なんの話?」
「君の神様は僕だから、だから、僕のいうことだけ信じてればいいよ。」
また、ぷっと笑った。
「屁理屈ばっかり。」
「君のだって随分屁理屈だ。」
彼女の体を離したくなかった。彼女がつまらないことを言わなくなるまで。
「ねぇ、翔子さんはつまらなくなんてないよ。だから、自分で自分のことつまらないなんていうのはよして。」
「勉強できる女なんて、みんなに嫌われる。」
「僕はそういうところもすごいと思うよ。」
「……」
「田中みたいなつまらない男の言うこと聞かないでよ。あれは君の神様じゃないって。」
また笑った。
「僕が君の神様でしょ。」
「やだよ。それ、わたしが下になりすぎるわよ。」
「じゃあ、僕の神様は翔子さんだから。神様同士ってことでどうですか?」
顔を覗いた。
「それは、また随分と安い神様だね。」
そう言って笑った。
ぶらぶらと2人で歩いて、適当なお店でご飯を食べて、明日から休みなんだよね。気分がよくてそして、わかれたくなかった。一緒にいたかった。
「どうしようか?これから。」
蝸牛って言ってたんだけど。期待しながら彼女を見る。
「帰る?」
「修平君が決めて。」
即答で返された。悩まないのね。
「あのね、こういうのは女の人がいいならいいで、だめならだめだと思うんだけど。男の人は聞くまでもない。」
「そうなの?」
「そうですね。」
じっと見られた。
「蝸牛はどうなったの?」
「さすがに蝸牛って年齢でもないのかなと。」
「そう。」
「もう少し足の速い動物と交換してもいいですか?」
「例えば?」
「チーター」
また、笑った。翔子さん。地上最速だったよね。チーター。
「だめ?」
笑ってて、答えてくれない。
「嫌だって言わないと連れてっちゃうよ。」
「どこに?」
「僕んち。」
やっと笑うのやめて、僕のこと見た。翔子さん。
「いいよ。」
「ほんと?」
「うん。いいよ。」
「痛い……」
どんなに気を付けても丁寧にしても、やっぱり初めてのときは痛いもので、眉しかめてる顔みながら、本当にすみません。彼女は痛がってるのに、好きな人が。でも、僕は快楽のど真ん中にいた。好きなのに痛めつけたいのかな?そうじゃなくて力で押さえつけたいのかもしれない。よくわからないけど。彼女の痛がる様子が独特の快楽を僕に与えるんだ。
男って、やっぱり動物なんだろうな。
毎日シャワー浴びて、髭剃って、服着て、文化的な生活をしていても、結局動物なんだ。そんで、そういうこと終わって、人間に戻るのね。
「なに考えてるの?」
「ん?ああ……。動物のこと、かな。」
「なに?」
笑って彼女の傍らに寝そべって、彼女の額にかかった髪を指でそっとはらった。
「あのさ」
「うん」
「慣れればそんな痛いものじゃないし、悪いもんでもないから、嫌いにならないでね。」
「うん」
幸せすぎて、その夜、僕はちゃんと寝られなかった。朝までずっと彼女の体を抱きしめて。彼女の髪のにおいをかいで、いたるところに口づけをした。
いつまで続くのかなんてあの夜は考えてなかった。今になって思う。あの夜でそのままむしろ止まってしまったのなら良かったんだ。後ろの時間なんて僕たちには必要なかった。人生最高の瞬間をあの夜に味わっていたんだから。