僕は打たれ強い
千夏さんと別れてから、暖かい風の中をゆっくり歩く。一駅ぐらい歩いてから電車に乗ろうと思って。なぜだろう。最近樹が幸せな様子を見ていて、自分の心にも余裕ができたからだろうか、いつもは心が苦しくなるから思い出さないできたことを、思い出した。
翔子さんとつきあい始めたころのことを。
(30年前)
「長谷川さん。どうしているの?もう終電行っちゃったよ。」
「どうしてって、だって、実験のデータ取りだよ。上条君もでしょ?」
なんでもない顔していう。また、この子はぼさぼさの髪をして。
「あのさ。僕は一日目だけど。長谷川さん何日目?」
「三日目」
思わずしかめ面になった。
「タクシーでもなんでもつかまえて早く帰りなよ。」
「ええ?でも、データ取りは?」
「僕が一緒にやっといたげるから。」
不満そうな顔をする。
「僕じゃ失敗でもしそうって顔してるね。」
「いや。せっかくここまでやったのに、人に任せるのいやだ。」
「もう。」
何度目だろう?こういうこと言うの。
「女の人なんだからさ。ちゃんと帰ってお風呂入って、寝なさいよ。」
「別にシャワーは会社で浴びてるし、仮眠だって取ってます。」
じっとこっち見る。
「上条君だけだよ。わたしのこと女の人だなんて思ってるの。」
「そんなことないって。みんな思ってるって。」
長谷川さんは知らないかもしれない。彼女が研究員に加わってから、この研究室や仮眠室には監視カメラがつけられた。深夜に泊まりで業務をしたりすることもあるから、女性の彼女に何かあってはと新たにつけられたんだ。
「ほら、タクシー代あげるから。」
5千円札あげた。
「え?」
「足りる?五千円で。」
「もったいないよ。」
「いいから、帰んなさい。」
やっと帰った。
早朝、実験している脇のソファーで寝てた。人の気配がして目をあけると、長谷川さんが傍らに立って僕をのぞきこんでいた。朝の光の中でいつもは一本に結んでいる髪を肩にたらしていて、きれいだな、いい香りするや、ぼんやりそう思って手を伸ばした。彼女の髪に指をからめて触れた。
「な、なにするの?」
長谷川さんがそう言って、僕は目がちゃんと覚めた。そんで、彼女が顔を真っ赤にしているのを見た。かわいいなと思った。
「きれいな髪だなと思って。ごめん。寝ぼけてた。」
それで、気が付いた。いつもこの人のだらしないのが気になって、後追い回して口すっぱくして帰れとかなんとか言ってきた。もしかしたら僕、この人のこと好きなのかもしれない。不思議だった。なんで、長谷川さんなのかわからなかったから。でも、気が付くといつも彼女を目で追ってる。
「暇なときにごはんとか一緒にいかない?」
僕がそういうと、立ち止まってじっと穴のあくほどに僕のこと見た。彼女。
「みんなで?」
「いや、2人で。」
「なんで?」
ええっと……。
「だめ?」
何もいわずに行っちゃったんだよ。いいともだめとも言わずに。でも、帰りがけ、外に出ると会社の出入り口のところに彼女が立っていて、困ってた。雨が降り出してたけど、傘がなくて。
ああ、神様っているんだな、と思ったんだよね。この時。
或いは、僕とこの子って縁があるんじゃないかって。
「どうぞ。バス停まで。」
ただ、残念なことにバス停まではすぐなんだけどね。僕は傘をさしかけた。
彼女警戒してるみたいに僕を見た。
「一緒の傘に入るのも嫌なほど、僕のこと嫌い?」
「いや。……嫌いではない。」
大人しく入ってきた。
「長谷川さんって。」
「はい。」
「一人で住んでんの?」
こっちまた見た。
「なんでそんなこと聞くの?」
「同僚としての普通の会話の範囲だと思うけど。このくらい。」
「……妹と一緒に住んでる。」
「妹さんって何歳?」
「23歳」
「何やってんの?」
「普通のOL」
そうなんだと言った後、会話がとぎれた。ふと彼女が言う。
「うちの妹はかわいいよ。」
「そうなんだ。じゃあ、お姉ちゃんに似てるんだ。」
彼女機嫌を悪くした。ほめてんのに。
「上条君はわたしをからかって遊んでるんだよね。」
「なんで?」
「わたしは全然かわいくない。かわいいのは妹なの。」
そう言って、2人はバス停についた。乗るバスが違うからここでお別れ。
「はい。」
彼女がバスに乗る時に傘を渡した。
「なんで?」
「いいから、持ってきな。明日返してね。」
彼女は傘を持ったままでバスに乗って、困った顔をして僕を見ていた。バスの中から。その日、帰り道で雨に濡れたけど、僕は幸せだった。それは小さな幸せだった。1人で10分とか15分おきぐらいに思わず思いだし笑いをしてしまうような。
「これ、ありがとう。」
次の日、彼女傘をきれいにたたんで持ってきた。僕は受け取らずに彼女に言った。
「傘を貸したお返しがほしい。」
「お返し?」
「一回でいいから一緒にご飯食べにいこうよ。」
「2人で?」
「うん。2人で。」
誰かに聞かれたり見られたりするのを嫌がって周りしょっちゅうきょろきょろしながら、僕と話してた。僕は途中でくしゃみがでた。
「もしかして、風邪ひいちゃったの?」
「いや。大丈夫だよ。たいしたことない。」
あ、会話また流れちゃうじゃん。
「だめ?」
さすがにしつこすぎるかな、と思いつつ。
「1回だけならいいよ。」
ぼそぼそとそういうとくるりと回れ右してあっち行った。行きかけてふと慌てて戻ってきて、僕の手に傘押し付けて今度こそ去っていった。
会社から一緒に行くの嫌がられて、バス停で待ち合わせた。僕が仕事終わっていくと、ベンチにちょこんと座っていた。声をかける前に横から彼女のことちょっと見つめた。所在なさげに行きかう人を見ながら座っている彼女。ときどき挨拶をされて、ちょこんとお辞儀をしている。
「長谷川さん」
僕が声をかけると、ぱっとこっちを見てそして立った。
「早く行こう。」
「いや、でも、バスまだ来てないよ。」
そういうと、ちょっとすねたような顔をしてまたベンチに座った。横に座ったら、彼女もう一度ちょっと離れて座りなおした。
「そんなに露骨にそういうふうにされると」
「なに?」
「さすがにへこむんだけど。」
こんなに嫌われるというか避けられるようなこと、人生で受けたことないんだけど。
「あなたが嫌なんじゃなくて。」
「うん。」
「あなたと一緒だと見た人に思われるのが嫌なんです。」
僕はちょっと考える。
「それはつまり僕が嫌だってことなんじゃないの?」
「違うよ。」
「どういうこと?」
「会社の中にはね、なんで上条君が長谷川さんなんかとっていうようなこと言う人がいるの。」
「どこに?」
「女の子たちだよ。事務職とか、営業職とかの。」
「そんなの関係ないのに。」
余計なお世話じゃん。
「あのね。みんな、会社の中の独身の男の子っていうのは注目してみてるの。その中の一人なの。みんな、研究室に用事作ってはあなたの様子確かめに来てるよ。気づいてないの?」
「え?」
僕は、会社の中の実験動物か何かですか?
バスが来た。
彼女が窓際の席に座って、僕はやっぱり彼女の横に座った。バスの座席は動かないし、彼女も今度は僕との間に距離を置けなかった。
「ねえ、そういう一緒にいるの見られるのやだと思いつつも今日来てくれたってのはさ。」
「うん。」
「僕、期待してもいいのかな?」
「なにに?」
この人って、なんて答えようか考えるってことがないよね。即答なの。いつも。
「あのね。今日はちゃんと借りを返すから。」
「借り?」
「5000円もらっちゃったし、傘借りたからおごります。それで貸し借りなしだから。」
「うん。」
「もう、こういうふうに誘うのはやめて。いろいろと大変だから。」
「……」
しばらく黙りました。さすがに。
「じゃあ、また何か頭をひねって。」
「はい。」
「借りを作ります。」
「……」
ほんのしばらく2人とも黙って、前見ていてそんで、彼女ぶっと笑った。
「笑ったら負けだよ。」
「にらめっこじゃないからそんなのはない。」
彼女が笑うと僕は嬉しかった。
「上条君って、驚いた。こんなしつこい人だと思わなかった。」
「いや、しつこくなんかないよ。」
「うそ。」
「僕は打たれ強いだけ。」
「なにそれ?」
そして、彼女はもう一度しかめ面を作ろうとした。僕といてもつまらなさそうなふりをしようとした。でも、一回笑っちゃったからね。失敗してるよ。長谷川さん。
ご飯を食べて、
「家まで送るよ。近くでしょ?」
「え?いいよ。子供じゃないし。」
「子供じゃないから、危ないんだよ。」
「別に危なくなんかないよ。」
「家を教えたら僕がストーカーにでもなると思ってるの?」
ちょっと酔っていて2人とも。少しだけ。
「そんなこと思うわけないじゃん。ばかね。」
彼女はそう言うとはははと笑った。
「長谷川さんってそんなふうに笑うんだ。」
「え?」
「研究室でもそんなふうに笑えばいいのに。」
「やあねぇ。仕事に笑顔なんていらないよ。」
「でも、僕が見たいから。」
ちょっときょとんとした後に、恥ずかしがってあっち向いてしまった。
「じゃあ、送らせてあげるから帰ろうよ。」
家の前でばったり彼女の妹さんに会った。
「お姉ちゃん?」
長谷川さんの酔いがさめた。
「じゃあ、すみません。上条君遅くまでありがとう。」
お辞儀をされた。
「ちょっと待って。お姉ちゃんの会社の人ですか?」
妹さんは、長谷川さんと雰囲気が違った。若い女の子だった。普通の。
「もう、いいから。行くよ。真理子。」
「え~。」
長谷川さんに手を引っ張られて、妹さん階段をのぼってく。のぼりながら僕に言った。
「お姉ちゃんのこと送ってくれてありがとうございました。ええっと…。」
「上条です。」
「上条さん。」
そう言って、にっこり笑った。