雲のうえ
「あの、修平さん。」
式の後に呼びかけられた。振り向くと、真理子さんがいた。
「ああ、どうも。」
「今日は本当におめでとうございます。」
「はい。」
「よかったですね。あんなに幸せそうな樹、初めて見ました。」
「ああ、僕もです。」
笑いながら、しばらく黙る。
「あの、この後忙しいですか?」
「え?いや、別に。僕は二次会出ませんし。」
梨花は少し顔を出すといっていた。だから、別々に帰る予定だった。
「修平さんさえよければ、話したいというか、お伝えしたいことがあって。」
「はぁ。」
なんの話だろう?とっさに見当がつかない。
「姉の話なんですけど」
心がちくりとする。彼女の話題が出るだけで。
「実は、姉の葬儀の日にお話ししようか迷っていたんです。でも、修平さん、途中で泣いてたので。きっと姉の話、聞いたらもっと泣いてしまうと思って。時間が経つのを待ってたんです。」
ホテルのラウンジの片隅で、むかいあって座った。
「今日は樹の晴れの姿も見られたし、修平さんも元気かなと思って。」
「翔子さんの話って、どんな話ですか?」
真理子さんは、ちょっと困った顔で僕を見た。
「あの、本当いうと、まだちょっと迷ってるんですけど。修平さんはもう聞きたくはないですか?」
「何をですか?」
「姉がなくなる直前に修平さんのことをどう思っていたか。」
時が一瞬止まった。
雲のうえにいってしまった人。煙になって実体を失った人。言葉を交わす術がなく、気持ちを通わすことのできない人。
もう二度と、彼女の気持ちを聞くことはかなわないとあきらめていた。
「真理子さんに話していたんですか?」
真理子さん少しだけ涙ぐんで、うなずいた。
「人間って不思議ですよね。虫が知らせるとかいうのってあるんでしょうか。姉とは普段からよくあっていたけど、姉は修平さんのことに対しては胸の奥に秘めてるというか、普段は口にはしなかったんです。もう、ずいぶん昔の話だし、それに、傷ついた思い出だから、わたしも取り立てて話題に出しませんでしたし。それが、あの最後にあった夜は、ずいぶん素直で。いつもだったら話さないような話をわたしに話したんです。」
真理子さんは少し泣いた。そして、ハンカチをバッグから出して、目じりを抑えた。
「わたし、それは、姉がどこかで自分がなくなってしまうのを知っていて、わたしから修平さんに伝えてほしかったんじゃないかって思うようになって。」
そこまでいうと、もう一度涙を流して、言葉を中断した。真理子さん。
「嫌でなければ、聞いてあげてもらえませんか?姉の気持ち。」
ホテルのラウンジのガラス張りの壁。中庭にはアジサイが見える。青紫、赤紫。六月美しい季節に僕たちの子が自分の家を持った。
どうして僕たちはこの日に二人で夫婦としてここにいられなかったんだろう。
翔子さんに見せてあげたかった。彼女と一緒に今日ここにいたかった。
そんな考えが心に浮かぶ。
「聞かせてください。」
(8年前)
あの日、姉は上機嫌だった。二人で久しぶりにあって、居酒屋で、つまみつつきながら日本酒を少し飲んでた。
「樹がさー。もう、変なこと言ったのよ。この前。」
「なに?」
「誰かいい人見つけなよって。もう、びっくりしたわよ。そんなこと言う年齢になったのかって思って。」
そういってひとしきり笑う。
「でも、いいじゃない。樹だってもう大人だし。これからは離れていっちゃうんだから、そういう人見つけたって。」
「え~?あんたまでそんなこと言うの?やだ。もう、男は懲りた。懲りましたよ~。」
赤い顔して、笑って、でも、不思議だな。姉さん。男は懲りたといいながら、まるで恋している人みたいなかわいい顔しちゃって。
「ねぇ、お姉ちゃん。」
「ん?」
「修平さんと出会ったこと、後悔してる?」
「なに?急に。」
「出会わなければよかったって思ってる?」
ふふふふふって笑った。
「思うわけないじゃん。」
「そうなの?」
驚いた。
「恋のない人生なんて、つまらないわよ。それに、出会わなければ樹がいないじゃん。」
「それは、そうか。」
「すっごい傷ついたし、立ち直るのにすっごい苦労した。怨もうとも思った。こう、真っ白できれいな思い出をさ、全部真っ黒なクレヨンでぐりぐり塗りつぶそうと……」
はぁ~とため息をついた。
「何年もしてたなぁ。ほんと悲しかったもんね。」
それから、お漬物をつっつく。
「それでもね、塗っても塗っても真っ黒にはできなかったよ。」
そういって、わたしのほうを見て笑った。とてもきれいな笑顔だった。
「まりちゃんは、そこまでの大失恋したことないもんね。」
「うん。」
「だから、わかんないと思うんだけどさ。失恋ってさ、その相手を失うだけじゃなくてね、その人を好きだった自分も失っちゃうの。過去までさかのぼってさ。自分の好きも相手の好きも嘘だったって思うわけよ。だって、最後に裏切られちゃったわけだからさ。」
もう一杯ちょろちょろと日本酒をグラスについで、そして、お酒をちびりちびりとなめる。
「それが、つらいのよね。いい思い出として思い返すことを自分が許さないわけ。それに気が付いた。自分が好きだという気持ちも自分に許さないわけ。そういうのからね。解放されたの。だから、わたしは今は元気なの。」
「そんなことできるの?」
姉はこっちを見た。
「できるよ。大人になればね。」
そういって、またきれいに笑った。
「本当の好きはさ、相手が自分を愛してくれなくても存在するし、長く続いていくものなのよ。まりちゃん。」
「ええ?」
「あなたはまだそこまでの境地には至っていないでしょう?好きって感情はね。相手が聖人君子だから起こるものでも、自分のことを愛してくれるとか大切にしてくれるから起こるものでもないのよ。たとえ相手が自分を傷つけたとしても、好きなものは好きだよ。そう認められないからずっと苦しかったの。認められたら、楽になった。わたしは。」
「お姉ちゃん。」
彼女は両手を組み合わせて軽く目を閉じた。
「ずっと、自分に禁じていたの。あの、わたしが人生で一番幸せだったころを思い出すのをね。もちろん、最近だって幸せだなぁって思うときはあるわけだけどさ。あの頃、修平君に恋していたころ、あの人もわたしをちゃんと好きだったし、わたしだってあの人をちゃんと好きだった。わたしたちちゃんと輝いていた。あの後に、いろいろ悲しいことがあったけど、その出来事があの過去をけがすことはできないの。あの日々はね、わたしの中で映画の前編なの。わたしの映画は後編が駄作でさ。で、前編が傑作なのよ。だから、前編だけ繰り返して見るの。懐かしいきれいな思い出。」
酔っぱらって頬をほんのりとさせながら、目を閉じる。きっと瞼の裏に今、好きな人を思い浮かべてるんだわ。お姉ちゃんたら。
「じゃあ、もう、恋はしないの?」
ぼんやりと目を開けてこっち見た。
「したくてもできないんじゃないかなぁ。なかなか素敵な人っていないよね。」
「じゃあ、結局、今でも修平さんが好きなの?」
ははははと笑った。
「妻子がある人なんだって。だから、たまに少し見るだけ。そして、たまに、ほんとにたまにね、連絡とってつながるだけ。それでいいの。」
「そんなこと言ったって、元はお姉ちゃんの旦那さんなのに。」
姉がばかだと思った。自分のものなのに、あっさりと人に譲っちゃって。それなのにこんなに長い間、それでも好きなんて。なんて不器用で馬鹿な人なの?
「お姉ちゃんお人よしすぎるよ。」
「なんで、まりが泣くのよ。酔っぱらっちゃった?」
かわいそうすぎる。かわいそうすぎるから、新しい人みつけて幸せになってよ。お姉ちゃん。でも、きっとできないんだろうなぁ、そう思った。
「僕が悪いんです。全部、僕が……。」
大切にすると誓ったのに、僕の手をすりぬけて去って行ってしまった。つかまえられず、追いかけられない遠いところまで。
真理子さんが僕をじっと見つめる。
「修平さんが、お葬式で泣いている様子みて思ったんです。本当は修平さんもお姉ちゃんのこと忘れてなかったんじゃないですか?」
「今更、何も言えません。」
「もし、そうなら、死ぬ前にお姉ちゃんに教えてあげたかった。きっとすごく喜んだのに。」
涙が出た。
「もう一度翔子さんに会いたいです。もう一度だけでいいから……。」
会いたい。会いたいから死にたい。そう一瞬、本気で思った。
でも、僕は知っている。
死んでもきっと会えない。死んだから会えるなんて保証はない。
「ごめんなさい。こんな話、知らないほうがよかったですか?」
「いいえ。聞けてよかったです。ありがとう。真理子さん。」
涙をぬぐって、窓の外のアジサイをみた。そして、曇り空を。
「今日、どこかに来てるって思ってもいいですかね。翔子さんも。樹に会いに来ているって。」
「はい。」
「それで、今、僕たちのことを見ていて、僕の言うことを聞いているって、思ってもいいですかね。」
「いいと思いますよ。」
真理子さんはそっとそう言った。
「僕も今でも彼女が好きです。」
あの外のアジサイのあたりに幽霊になっちゃった翔子さんが遊びに来ていて、僕たちのことを見ていてくれると信じる。そして、僕が今つぶやいた言葉が彼女の耳に届いたと。そう、信じる。
彼女は笑ってくれるだろうか。喜んでくれただろうか。
喜んでくれたと思いたい。
人って何かにがんじがらめになりながら生きていると思っています。大半の人が。何にがんじがらめになっているかは人それぞれなんですが。修平さんの場合はそれは自分は研究者じゃなければならないという思い込みでしょうか。
人生がいつも順風満帆はわけじゃないです。
うまくいかないとき、人は他人と自分を比べますよね。
そういう傾向は年をとるともっと強くなるかな?仕事とかに関しては。
でも、簡単に言えば100人の人がいて100人の社長がいるわけじゃない。なりたい自分になれない自分を抱えながら、人は自分で乗り越えていくしかないんだと思います。
以前も書いた言葉ですが、人をきちんと愛したいときには、まず、自分が好きでなければならない。人を好きである努力と同時に、自分を好きになる努力が必要だと思っています。言うと簡単ですけど、実際は非常に難しい。自分を嫌いな人は、自分を愛してくれる人を傷つけます。
例えば失恋をしても、失恋した人がその後どういうふうになるかはその人次第だと思う。裏切られた経験を乗り越えて、笑える翔子さんは素敵な人だと思いました。なかなかいないですよね。こういう人。今回直子さんが出てきて、この人についてもたぶんこういう人なんだろうな、というのが分かったんですけど、普通の女の人で、普通にやっぱり修平さんのことが好きで、悲しい思いをしたりして、と。同情の余地あるなと。だけど、この人を中心にして小説を書きたいなとは思わない。やっぱり脇役だなと。顔かたちの美醜にも興味はありますが、生き様の美しい人が好きです。
樹君の登場とともに常にその存在のあった翔子さん。今回の小説のラストで、とうとう最後に出会うことができたと思いました。辛い思いをしても明るく子供を育てた人だったんだなと。いや、幸せになってほしかったんですけどね。ほんとは。
悲しい話だけで進めると、わたしの精神がもたないというのもあって、息子の樹君の幸せなシーンをサンドイッチみたいに挟みながら書いていたんですが、コントラストができて、これはこれで不思議な構成になったかなと思ってます。樹君の知らないところで、お父さんの修平さんの気持ちがあって。心配したり心を痛めたりしている本人が、その次の行でけろっと幸せそうにしていたりして。こういうのが結構普通の人生なのかもしれません。自分の知らないところで、自分を想ってくれている人がいる。自分に対しての人の思いを全て受け止め認識しているわけではないですね。人は。
現在、頭の中にいくつかの話が用意されていて、三つくらいかな?次は前々から言っていた太一君。塔子さんの話から太一君につながる話を予定しています。塔子さんの部分ではまた、清一さんが出てくるので、これまた重い話になりそうで、書けるんだろうか?と不安もあり、太一君は相変わらずキャラ設定が完成していないですし。
といいつつ、その上の話にかかる前に、寄り道します。
実験的に二つ、今まで書いてきたのと成り立ちの異なるものを。
今回書いたくものうえといつも空を見ているのAnotherStoryと僕の幸せな結末のAnotherStoryです。簡単に言うとパラレルワールドというか、もし、あのときああならなかったらどうなったのかという話です。挫折しなければいいなと思います。
次作もまたお読みいただけましたら幸いです。
2020年3月31日
汪海妹