⑵遠くの花火
通話が繋がった時、立花はとても不機嫌そうな声をしていた。
それはまるで、癇癪持ちの妻の買い物に長時間連れ回されたような、理不尽な上司の高圧的な命令に従わされて来たような、積年の鬱憤で今も押し潰されそうな、歯の根から染み出した呻き声に似た声だった。
翔太が現状報告をすると立花は背筋が寒くなるような舌打ちをしてから、深い溜息を吐き、ミナの容態を尋ねた。其処までの反応は想定していたので、翔太は予め用意していた言葉をつらつらと答えた。
笹森が医者を呼んでくれると言った時に、立花は待てと言った。保険が適用されないから費用が高額になるとのことだった。
一日待って、ミナが目を覚さなかったら医者に見せる。意識を取り戻したら本人に決めさせろ。立花はそう言った。
以前の翔太ならば、高熱を出した子供を医者に掛からせないというのは虐待だと憤慨したが、今はそれが表向きの理由だと分かる。自分達は社会の深淵に棲まう透明人間だ。凡ゆる事態を想定し、慎重に行動しなければならない。
笹森一家の屋敷に迎えに行くと、目立つし、顔を覚えられると今後の仕事がやり難くなる。翔太もその理屈は納得出来たし、予想もしていたので殆ど確認だけのやり取りだった。
笹森自身は信頼出来る人間なのか、と尋ねられ、翔太は迷った。ミナが言っていたことをそのまま伝えると、立花は曖昧に返事をして、結局この場に待機するように言った。
ミナが目を覚ましたら連絡すると伝え、翔太は電話を切った。通話を終えた携帯電話をポケットに押し込み、翔太は一仕事を終えたような疲労を呑み込んで部屋に戻った。
七畳程の和室の中央、布団が敷かれている。天使は相変わらず赤い顔で魘されて目を覚まさず、側で胡座を掻いた笹森がどうするかと尋ねた。
「……ミナが起きるまで、寝かせておけってさ。医者は呼ばなくていい。ミナが起きた時に自分で決めさせるって」
「酷い男やな。子供が熱出してるっちゅうのに」
「色々事情があるんだよ。そんな訳だから、こいつが目を覚ますまで此処にいても良い?」
「ええで、そのくらい」
笹森は、汗で湿ったミナの前髪を端に避けると、腰を上げた。
「俺がずっと此処におるのも嫌やろ。必要なもんあったら、近くの奴に声掛けてや」
「ああ、ありがとう」
笹森は肩を竦めて笑うと、そのまま襖を開けた。
何か訊いておきたいことがあったような気もしたけれど、翔太は思い出せなかった。糸が抜けるような音と共に襖が閉じる。
床の軋む音が遠去かる。笹森が完全に去ったことを確認し、翔太は布団の側に座った。
ミナは目を覚さない。悪い夢でも見ているのか、表情が歪むのが可哀想だった。幼い頃、砂月もよく熱を出した。その時もこうして側にいた。汗を拭いたり、手を握ったり、出来ることをやった。
自分は今、そうするべきなのだろうか?
18歳の少年の手を握り、もう大丈夫だよと声を掛けて励ますべきなのか?
馬鹿馬鹿しい。
翔太は自嘲し、固く目を閉じたミナを静かに見詰めていた。
14.正義の所在
⑵遠くの花火
翔太が15歳の頃、妹の砂月が真夏に高熱を出した。
氷枕が見る見る内に溶けて、寝息のように繰り返される喘鳴が可哀想だった。翔太は布団の側に胡座を掻いて、濡れ布巾で何度も汗を拭ってやった。
昨夕、砂月は全身ずぶ濡れで帰宅したのだ。雨なんか降ってなかった。何があったのかなんてすぐに分かった。
砂月は虐められていた。人は理解出来ないものに対して恐怖し、疎外し、攻撃する。子供は残酷だ。砂月は、兄の翔太から見ても少し変わった子だった。
砂月は命というものに興味があるようだった。
虫を焼いたり、小鳥を絞め殺したり、子猫を解剖したり、そうして命の所在を知りたがった。初めの頃、翔太はそれを注意していたと思う。それは駄目なんだよ、いけないことなんだと。
そうすると、砂月はその時は止めた。そして、翔太の見ていない所で行うようになった。砂月の特異性というのは、知的好奇心を満たす為に倫理観や道徳心というものを容易く飛び越えてしまうことにあった。また、砂月は翔太の言葉の真意を汲み取ることが難しかった。
そんな砂月が学校で孤立し、迫害されるのは当然の成り行きだった。友達なんていなかったし、砂月自身、そういうものを欲しがっていなかった。だからといって、砂月が物を投げ付けられたり、閉じ込められたり、叩かれたり、頭から水を掛けられて我慢していなければならない理由にはならないと思った。
放課後、小学校の校門の前で待った。翔太は中学生だった。
男子生徒達に揶揄われながら、無表情で真っ直ぐに校庭を抜けて来る妹を見た時、翔太は怒りとも悲しみとも付かない感情で胸が一杯になった。
校門から翔太が顔を出すと、男子生徒達は驚いた顔をしてあっという間にいなくなってしまった。文句の一つ、拳骨の一つでもくれてやろうと思っていたのに、肩透かしだった。
言い返せ、やり返せ。黙っているから、やられたい放題なんだ。お前に難しいなら、俺がやってやる。俺が守る。翔太がそんなことを言うと、砂月は不思議そうに見詰め返した。
どうして?
あの人達は、私とは違う世界にいるのよ。
私が面白いと思うことと、あの人達が面白いと思うものは違うの。
砂月はそう言った。意味はよく分からなかった。
手を繋いで帰った。砂月の手は温かく、血が通っていることや、生きていることを実感させた。
君の妹はサイコパスだった。
異常者だった。だから、両親を解剖して殺した。
ミナと立花の声が頭の上が降って来る。
ああ、そうだったんだろうな。今なら、分かる。俺の妹は普通じゃなかった。砂月にとっては、虫も、小鳥も、子猫も、あの残酷な同級生たちも家族も、同じだったのだ。知的好奇心を満たす為の道具。ただ、それだけ。
だけど、翔太は覚えている。
砂月が生まれた時、翔太はまだ3歳だった。小さなふかふかの手の平が、翔太の指を握った。笑い掛けた。お兄ちゃんと呼んだ。砂月は俺の妹だったんだ。
サイコパスと呼ばれる異常者であったとしても、真っ当に生きられる未来があったのかも知れない。例えば研究者とか医者とか、砂月の興味を活かし、社会の中で適応して行ける道が。
人は死んだら何処へ行くの?
砂月が訊いた。ーーなあ、お前は何処に行ったの。
其処は天国? それとも、地獄?
俺はただ、お前を守ってやりたかったよ。
「……た、……しょ……た」
掠れた声が聞こえて、翔太は瞼を開けた。
部屋の中は暗かった。翔太はミナの布団に突っ伏す形で転寝していたことに気付いた。笹森が来たのか、紺色のブランケットが肩に掛けられていた。
布団の中、ミナが微睡んだ目で見ていた。薄闇の中で光る濃褐色の瞳はビー玉みたいに綺麗だった。
翔太が身を起こすと、幾らか顔色を戻したミナが手を差し出した。反射的に掴んだ時、その熱さに驚いた。発熱や、寝起きの為だけではなかった。翔太の手が、氷みたいに冷たかったのだ。
「大丈夫?」
弱々しい笑顔で、ミナが手を握った。
魘されていたよ、なんて病人に心配されていてはまだまだ未熟だ。翔太が大丈夫だよ、と答えると、ミナは天使のように微笑んだ。
ミナは熱い息を吐き出して、天井を眺めた。
携帯電話で時刻を確認すると、午後七時を過ぎていた。腹が減る訳だ。ミナが此方を見詰めて来たので、意識を失くしてからどうなったのか話してやった。
「医者は呼ばなくて平気。医療機関に掛かると、色々とやり難くなるから」
「……大丈夫なのか?」
「うん、平気。その代わり、パソコン取ってくれない?」
部屋の隅に追い遣っていた鞄を引き寄せて手渡すと、ミナはゆっくりと体を起こした。その時にはしゃっきりとしていて、殆ど普段と変わりなかった。
ミナは膝の上にパソコンを置くと、キーボードを操作して周辺の地図を出した。よく見ると並行してメールの遣り取りをしていたり、株価の変動を確認していたり、一人で何人分もの働きをしていることが分かった。
「港を見張ると良いよ。海上保安船の巡回が手薄になる深夜、闇に紛れて何かが来る」
「立花に伝えておくよ」
「うん。……ねえ、ショータ?」
パソコンを半分くらい閉じて、ミナが幼い動作で語り掛ける。
「俺の弟が言ってたんだけど……。良いことも嬉しいことも、嫌なことも悲しいことも、自分にとって価値があると思うなら、無理に忘れなくて良いんだって」
ミナの言わんとしていることが、分かる。
どうやら、転寝している間、自分は魘され妹の名を呼んだのだろう。ミナは心配してくれているらしいが、病人に気を遣わせるべきではなかった。翔太は苦く笑った。
「可愛い弟だな」
「うん。俺の誇りだ」
海の向こうにいる彼の弟を思い出す。今頃、寝ているだろうか。それとも、バスケをしているか。どちらにしても、彼が健やかで、幸せで、笑っていられたら良いと切に思った。それが、ミナにとっての幸せなのだから。
それからね、とミナは続けた。
「見たくないものは、見なくていいんだよ。嫌なことは思い出さなくても良い。ふとした時に思い出す悲しいことは、花火みたいに遠くから眺めて、また消えて行くのを待つだけで良いんだよ」
「誰の言葉?」
「俺の、爺ちゃん」
爺ちゃんということは、フィクサーその人か。
粋な喩えをするものだと、感心してしまった。会ったことは無いし、この先、会えるかも分からない。けれど、きっと温かい人なんだろう。ミナやワタルがそうであるように。
ミナの腹の虫が鳴く。
腹が減ったな、と二人で笑った時、するすると襖が開いた。
盆を持った笹森が立っていた。
「夕飯持って来たったで。食えるか?」
笹森が運んで来たのは、三人分の丼だった。
蓋を開けると、湯気の昇るきつねうどんが姿を現した。出汁の香りが部屋いっぱいに広がる。自然と口の中に涎が出て、翔太の目はうどんに釘付けだった。
三人で手を合わせ、うどんを啜った。
笹森が気を利かせてお代わりを提案してくれたので、翔太もミナもそれに甘えた。笹森は襖から半身乗り出して、使用人だか通り過がりのヤクザだかに声を掛けた。
そうしてお変わりのうどんを待っていた時、笹森がミナを検温した。先程よりは少し下がっているが、まだ平熱とは言い難い体温だった。
今日は泊まって行けと笹森が言った。目配せするとミナが肩を竦めた。良い提案だし、その厚意に甘えてしまいたい。外は暗いし、此処はまだ安全だ。ミナも心配だし、うどんのお代わりも食べたいし。
けれど、翔太は断った。
立花のことが気に掛かったのだ。何処で何をしているのか知らないが、電話の向こうの声は疲れ切っていた。それに、今回の一件が自分の不始末だと言う罪悪感があった。
うどんのお代わりは有り難く頂戴し、汁まで飲み干してから腰を上げた。ミナには寝ておくように言付けたが、それで正しいのかは分からない。
廊下で立花に電話をした。ミナが言っていたことを伝えると、立花は唸るような声で返事をして、港の方に行ってみると言った。
昼より疲れた声だった。それはまるで、捨てる寸前のボロ雑巾みたいだ。何だか放って置けなくて、翔太は合流すると伝えた。立花も断らず、待ち合わせ場所を教えてくれた。
笹森にミナを託し、翔太は屋敷を出た。玄関先まで二人は見送りに来てくれた。半纏を着て顔を赤くしたミナが、何だか迷子みたいな顔をしていたので、すぐに戻るよ、と伝えた。
不意に思い出して、翔太は靴を履きながら尋ねた。
「嫌なことや悲しいことがあったら、お前はどうするの?」
ミナは何のことと言わんばかりに首を捻っていたが、翔太の言葉の意味を察したらしく笑った。相変わらず、勘の良い子供である。
「俺は笑うことにしてる。其処で泣いたり落ち込んだりしたら、自分に負けたみたいで嫌だからね」
「流石」
賞賛してから、後悔した。泣いても落ち込んでも良いんじゃないかと励ますべきだった。だって、この子は子供だ。
笹森の手前、踏み込んだ話も出来ない。此処は自分の陣地ではないと言う不安が急に膨らんで来て、やっぱり背負ってでもミナを連れて行くべきなのではないかと迷った。
ミナは何かを見透かすような穏やかな眼差しで、続けた。
「弱音や泣き言が溢れそうな時はね、歌うんだ」
「歌?」
「そう。その時に誰かが一緒に歌ってくれたら、とても良いと思わない?」
思わず、翔太は笑った。
それは、良い。とても良いと思う。
前に立花が、ミナは音痴だと言っていたけれど、歌手でもあるまいし、本人が楽しんで、笑う為に歌っているのだから誰にも文句なんて言われる筋合いは無いだろう。
そういえば、ミナはよくハレルヤと口ずさんでいた。
今度、調べてみよう。そして、サビだけでも覚えて、一緒に歌えたら良いなと思った。
戸を閉める。
夜風が冷たかった。薄手のコートでも肌寒いくらいだった。翔太は顎を襟に埋めながら、夜の街を歩いた。歓楽街はあの眠らない街と同じように、騒がしく、賑やかで、まるで遠くの花火を眺めているみたいだった。