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⑹紬

 人混みを歩いていると、急に心臓が凍り付くような瞬間がある。腹の奥が冷たくなって、幾ら空気を吸い込んでも息苦しく、指の先からすっと血の気が引いて行く。


 昼間の街の喧騒で、夜のイルミネーションの下で、粘着質な視線が頭の天辺てっぺんから足の爪先つまさきを品定めする。ただ眺めている人間もいるし、声を掛けて来る者もいる。ソーセージみたいな指先を擦り合わせている者も、ズボンの股間を膨らませている者も。そして。


 ミナには、それがヘドロのように汚く、醜悪なものに感じられるのだ。視線に晒されていると、体の末端から腐り落ちて行くような、自分がどうしようもなく無力な存在だと嘲笑われているような、そんな小さな絶望が心臓に穴を開ける。


 嫌な記憶がフラッシュバックする。

 教室、夕暮れ、遠去かる子供の声。スリッパを履いた男性教諭、爬虫類のような視線。伸ばされた指先、抵抗しなかった自分。そして、あの日、


 夕陽を遮った弟の姿が、今も目に焼き付いている。

 男性教諭を殴って怒鳴り声を上げた弟が、ミナにはとても、とても格好良く見えたのだ。助けられたからではない。自分に出来ないことを簡単にやって退けた弟が、ミナにはヒーローに見えた。


 自分の原点は何処かと問われたら、それは間違いなく両親であり、紛争地で医療を提供し続ける父だと答える。だけど、転換点と呼ぶならば、きっとそれは。




「――ミナ」




 まるで、頬を叩かれたみたいにミナの意識は現実へ回帰した。人で溢れる駅前の広場が視界に入った。噴水は氷の柱みたいに吹き出して、細かな水の粒子が風に流れて行く。


 翔太が隣に立っていた。コウテイペンギンの親が雛鳥ひなどりに餌を与えようとするみたいに覗き込む。その目は何処までも優しかった。ミナは何でもないと苦笑して、いつまでも過去を引き摺る自分に呆れた。


 昨日、交番から逃げ出した少女を探していた。

 交番で補導された後でも、この街に滞在していることは分かっていた。彼女には移動し、生活するだけの資金が無いのだ。当然、家もない。何処かの公園で野宿しているか、親切ごかした支援者に匿われているか。


 まあ、前者だろうな。

 ミナは思った。何しろ、自衛の為にナイフを持ち歩くくらい臆病な少女である。交番の前で立花に暴力を振るわれて、知らない男の所に逃げ込む余裕なんて無かっただろう。


 噴水広場に目的の少女は見当たらなかったので、近隣の地図から野宿出来そうな場所、或いは一泊出来そうな漫画喫茶を探す。昼間の内はねぐらから出て来ないだろうと踏んで、日が落ちるまで待った。


 家出少女を泊めてくれる男性を、その業界では神と呼ぶらしい。そして、そんな男性を待つことを神待ちと言う。宗教家が聞いたら憤慨するだろう。

 時間と共に人の流れが変わる。界隈をぐるりと一周し、商業ビルの下を通り掛かった時、あの少女がいた。


 肩口を大きく露出した衣服は、寒そうに見えた。

 石段の上でカモシカみたいな脚が組まれている。それは誘っているようにも、拒絶しているようにも見えた。携帯電話を片手に、寂しそうに俯くその姿がいつかの誰かに重なる。ミナは誤魔化すように首を振った。


 翔太があっと声を上げそうになるのを抑え、ミナは自然に彼女の元へ歩み寄った。




「Hi again!」




 声を掛けると、少女は期待に口元を綻ばせ、顔を上げると同時に表情に諦念を浮かべた。それはまるで咲き誇った花々が寒風の中に枯れていくようだった。




「隣に座っても良い?」

「……何にし来たの」




 警戒を滲ませて、少女は言った。

 許可は貰えなかったが、ミナは一人分の空間を作って隣に座った。翔太が所在無さげに立ち尽くしていたので、隣に座るように促した。




「昨日は、レンジがごめんね。すぐ手が出るんだ」

「あいつとどういう関係なの?」

「従兄弟なんだ。悪い人じゃないんだけど」




 立花は殺し屋だから、一般的には悪人だ。翔太が何かを言いたげに見詰めて来るので、肘で突いて黙らせた。




「アンタ、男なのね。いくつ?」

「Eighteen」

「……18歳? 中学生くらいだと思ってた!」




 少女は目を丸めて、大袈裟にった。

 年齢以上に幼く見えるのは、何故なんだろう。自分が未熟なのか、単純に童顔なのか。「よく言われる」と返せば、少女は笑顔を見せた。頬に浮かぶ笑窪えくぼが可愛らしい。




「君の名前は?」

「……つむぎ

「ツムギ? どういう意味?」

「さあ、知らない!」




 翔太なら分かるかな。

 ミナが視線を向けると、翔太は溜息を吐いた。補足をしてくれる様子は無かった。まあ、名前なんてただの記号だ。会話の糸口になれば良いと思ったが、互いに広げられるだけの知識は無かった。




「いつからこの街にいるの?」

「二週間くらいかな。分かる? ニシュウカン」

「分かるよ。一週間が二つだ」




 間違ったことを言ったはずは無いけれど、紬はおかしそうに笑っていた。馬鹿にされているのかも知れないが、目の前のこの子が笑ってくれるなら、どうでも良かった。




「髪の毛、綺麗だね。染めたの?」

「そう。黒髪だと、怪しまれるからね。まあ、そういう子がタイプって奴もいるけど。アンタは?」

「染めてないけど、サーフィンとかバスケとか、外でやるから焼けちゃうんだ」




 前髪を一房ひとふさ掴み、ミナは肩を竦めた。

 紬は不思議そうに首を傾げた。子供みたいにあどけない仕草だった。




「バスケって室内でやるんじゃないの」

「そういうのもあるけど、俺はストリートバスケの方が好きだったから」

「ニューヨークって、言ってたもんね。……ねぇ、どんなとこ?」




 紬は身を乗り出して言った。

 まさか此方が詰問されるとは思っていなかった。ミナは顎に指を添え、和訳を考えながら答えた。




「都市部は栄えてたけど、俺の家は郊外の田舎だった。隣の家にオリーブオイルを借りるのにも十分くらい歩くんだ。夜は耳が痛くなるくらい静かで、殆ど真っ暗」

「へぇ」

「日本に来て、夜が明るいことに驚いたよ。ビルだらけだし、人も多い。あと、電車! 路線は何であんなにごちゃごちゃからまってるんだろう。どうして皆、迷わないの?」




 紬は笑っていた。何が面白いのかは分からない。

 翔太も少しだけ笑っていたので、もしかすると自分の感想は一般論から外れているのかも知れない。


 笑った顔が幼かった。もしかすると、この子は見た目以上に幼いのかも知れない。未成年、いや、ひょっとしたら自分よりも。


 そんな子供が、体を売らなければ生きていけない。

 それはとても、悲しいことだ。




「家に帰らないの?」




 諭すのでもなく、ただすのでもなく、この子の傷に優しく触れる。紬は一瞬表情を失くした。


 他人の過去を詮索するなんて悪趣味だと思う。立花が言うように、何でもかんでも救える訳じゃないのだろう。ミナとて、紬のような家出少女の全てを助け、救えるとは毛頭考えていない。


 ただ、翔太が。

 翔太が、悲しそうにするから。


 紬は大きく息を吐き出して、両足を伸ばした。通行人が避けて、何事も無かったみたいに通り過ぎて行く。




「ねえ、あたしと一緒に遊ばない?」




 紬は、未成熟な肉体に溢れるようななまめかしさを漂わせていた。引き寄せた両膝に顎を乗せ、男の肉欲を煽るような、――とても嫌な、笑い方をする。


 彼女の指す言葉の意味が分からない程、子供じゃなかった。翔太が何かを言おうとする。ミナは寸前で遮った。




「じゃあ、割り勘ね」




 割り勘は、この国に来て覚えた言葉だった。

 紬が目を見開く。ミナはにっこりと微笑む。




「ゲームセンターに行ってみたかったんだ」




 ミナは立ち上がり、周囲を見渡した。

 嫌な男の視線を感じる。纏わり付くような、粘着質な男の品定めする目。ミナは視線から逃れるように翔太の手を引き、路地裏で輝くゲームセンターを目指した。











 12.星に願いを

 ⑹つむぎ










 ドーム型のゲームセンターは煙草と香水の臭いに溢れていた。煌びやかなフィラメントに照らされ、ミナと紬は仲良さそうに歩き回っている。

 時折、若い男が声を掛けた。翔太が間に割って入ると、興醒めとばかりに散って行く。二人はまるで、餌に見えるのだろう。


 紬を見付けてから、ミナはとても自然に距離を詰めた。天性の人誑ひとたらしである。美しい容貌に対して幼い言動は、愛玩動物のように見えるのだろう。相手に警戒心を与えないのだ。立花のとんでもないファーストコンタクトは或る程度、払拭されたらしかった。


 だけど、ミナが彼女のことを訊くと、雲行きが怪しくなった。それまでは女友達みたいだったのに、途端に商売相手の男と見做したのだ。

 触れられたくなかったのだろう。だけど、素通りも出来なかった。ミナの躱し方が正解だったのかは分からない。しかし、最悪の状態にはまだ陥っていない。


 紬はゲームセンター奥にあるATMみたいな形のリズムゲームを指差した。画面の指示に従って、手前に設置された五つのボタンを曲に合わせて叩くらしい。紬がやってみせると言うので、翔太とミナは後ろで眺めていた。


 聞き覚えのあるイントロと共に、ブロック型の指示が流れ出す。マークが手前に来た瞬間にボタンを叩くと、白抜きされた『GREAT!!』の文字が踊った。

 リズムゲームというものを見るのは初めてだった。ゲームだと言っていたが、側から見るとまるで彼女が演奏しているようだった。


 道行く人が足を止め、何かを囁いては感嘆の息を漏らす。どうやら、紬は相当上手いらしい。画面上の指示は目が回る程に増えているが、紬は笑顔を浮かべ、未来を予知していたかのようにボタンを叩く。歌うように、踊るように、紬は目の前のゲームに夢中だった。


 一つのミスも無くゲームを終えた時、割れんばかりの拍手が包み込んだ。いつの間にか観客は群れを成し、完璧にゲームをこなした紬を褒めたたえている。


 やってみれば、と紬が指を差す。

 翔太が濁すと、ミナが進み出た。選んだ曲は、古い洋楽ロックだった。誰もが一度は耳にしたことがあるような曲を選択し、ミナは少し考えるような仕草で難しいステージにカーソルを当てた。


 ドラムの音が二つ響いて、ザクザクしたギターのリフが聞こえる。骨太のベースと、青年の高らかな歌声。ミナは画面を見詰めたまま、まるで獲物に飛び掛かる寸前の獣みたいに身構えている。


 結果だけを言うと、スコアは平均点だった。動体視力が良いのか凄まじい量の指示をきちんとこなしていたが、絶妙にずれるのだ。そういえば、たまに口ずさんでいる歌も音程を外しているから、どちらかと言えば音痴なのかも知れない。


 しかし、紬は初心者が難易度の高い曲を平均点で終えたことを、とても褒めていた。練習すればもっと上達するとも言った。ミナは答えなかった。


 リズムゲームの後、メダルゲームをした。所謂いわゆる、メダル落としである。マシンフィールドにメダルの山が形成され、指定された投入口からメダルを投入し、山を崩す。手元に落ちたメダルを獲得出来るという昔からよくあるゲームである。


 三人で二十枚ずつメダルを用意し、それぞれの選んだ席でゲームを始めた。翔太は山の崩れそうな場所を選んだのだが、獲得した時には手元のメダルは殆ど残っていなかったので、ギリギリの黒字だった。紬は早々にメダルを使い切り、翔太やミナの後ろから眺めていた。


 何処から持って来たのか、ミナは透明な箱を抱えていた。箱の中はメダルで一杯である。翔太がぎょっとしていると、ミナは隣に座り、悪戯っぽく笑った。


 ミナはフィールドをじっくりと観察し、たった一枚のメダルを入れるにも時間をいた。そして、投入口から伸びる棒の上を転がったメダルは、まるで魔法みたいにいとも簡単にメダルの山を崩す。見当違いの場所に落としたと思っても、次の投入で綺麗に切り崩して行く。あまりにも上手いので経験があるのか訊いてみたら、初めてだと言う。この子は基本的に頭が良いのである。


 パチンコならば賞品と交換出来るが、そういう対応はしていないらしかったので、ミナはメダルの山をカウンターへ返した。




「なんか、勿体無いな」

「そう?」




 メダルの代わりに飴玉を三つ貰ったらしく、ミナが手渡して来た。小さな袋に入れられた苺味の飴だった。




「楽しかったから、それで良いんだよ。飴も貰ったし」




 欲の無い奴だ。

 パチンコやスロットみたいなギャンブルに連れて行ったら、大儲け出来そうだな、と翔太はぼんやり思った。


 紬の姿が見えなかったので辺りを見渡すと、クレーンゲーム機の前にいた。箱型の透明なケースの中に、カプセルが幾つも入れられている。




「綺麗だね」




 紬の隣に並び、ミナがケースを覗き込む。身長差が無いので、同い年の女友達みたいに見える。

 白い砂の敷かれたケースの上に、透明なカプセル。中には小さな女の子の好きそうなアクセサリーが収まっていた。




「どれが欲しいの?」




 ミナが問うと、紬はケースの奥の一角を指し示した。

 華奢な鎖に銀色の星が繋がったネックレスだった。クレーンゲームの点滅する原色の下、それは確かに、宝石のように綺麗に見えた。




「場所が良くないな。上のカプセルが邪魔だね」




 そう言って、ミナは小銭を投入した。

 ちゃちな音楽と共にクレーンが動き出す。ミナは真剣な顔でそれを端まで移動させると、今度はアームの角度を変えた。ネックレスの入ったカプセルからは少しずれている。だが、降下するクレーンのアームが開いた時、邪魔になっていたカプセルが弾かれた。クレーンは何も掴まなかったが、紬が見ていたカプセルは狙い易い位置に見えた。


 ミナは財布の小銭入れを覗き、口元を歪めた。




「百円玉がもう無いや。ショータはある?」

「やるよ」

「No thank you. 美味しいところはショータにあげる」

「ハードル上げんなよ」




 翔太は苦笑して、小銭を入れた。

 お膳立てされて失敗する訳にはいかない。翔太はカプセルの位置を念入りに確認し、クレーンを動かした。

 クレーンが降下し、アームが開く。狙い通りの位置に到着しても、油断は出来なかった。自動操縦になったクレーンがカプセルを掴み、開口部まで運んで行く。その途中に不都合が起きてカプセルが落ちるのではないかとドキドキした。


 カプセルが開口部の底に転がり落ちる。

 翔太は屈んでカプセルを拾った。


 カプセルを開け、中のネックレスを取り出す。遠目で見るよりも玩具みたいな安い作りだった。値段に相応しい品だな、と皮肉っぽく思いながら、翔太はネックレスを紬に手渡した。




「やるよ」

「いいの?」

「俺達が持ってたら、おかしいだろうが」




 翔太が言うと、紬は笑った。

 そのまま後ろを向いて、着けてと強請ねだるので戸惑った。染髪されたショートヘアを持ち上げ、白いうなじが晒される。翔太が躊躇ためらっていると、ミナが代わってくれた。


 ネックレスを着けた紬は、とても、とても嬉しそうだった。自然に顔の筋肉が弛緩したみたいに微笑むと、紬は礼を言った。


 顳顬こめかみに鈍い痛みが走る。埃が風に舞うように嫌な記憶が蘇り、目が回った。ミナが腕を引く。


 少し休もうか。

 喉が渇いたね。

 コーラが飲みたい。


 普段なら言わないようなことを言って、ミナが自動販売機の元へ導く。耳鳴りが酷い。熱中症みたいな目眩がした。ぐにゃぐにゃと歪む世界で、毒々しいフィラメントの光が踊る。翔太は呼吸に集中し、殆ど引き摺られるようにして歩き出した。

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