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⑷家出少女

「家出少女やねん」




 ミナの額に湿布を貼りながら、桜田は溜息を吐いた。

 交番の奥の座敷で、翔太は借りられて来た猫みたいに大人しいミナの横顔を眺めていた。神様の依怙贔屓えこひいきみたいに綺麗な顔は、眉間に貼った湿布のせいで台無しだ。しかし、それを見ていると何だかおかしくて、翔太は指差して笑いたいような気分だった。


 桜田の同僚らしい若い警官がお茶を出してくれた。翔太が会釈すると、白い歯を見せて笑う。新人みたいなさわやかな笑顔だった。


 ミナは湿布が剥がれないように片手で押さえながら、湯呑みに手を伸ばした。警察犬みたいに匂いを嗅ぐ。失礼な態度だが、スマイルマンの一件ではこの交番に毒物が持ち込まれていたので、咎めるのも難しかった。


 ミナは茶を一口飲み下し、翔太に耳打ちした。

 イエデって何だっけ。

 翔太は肩を落とした。




「事情があって、家に帰れない未成年だよ」

「I see. It's about running away」

「日本語にしろ」




 ミナは笑った。

 桜田は、象やキリンのような優しい眼差しをしていた。翔太は居住まいを正し、頭を下げた。




「手当てしてくれて、ありがとうございました」

「ええんやで。こっちこそ、悪かったな」




 桜田には世話になりっぱなしだ。

 警官は公僕であるけれど、まともに税金も治めず、法律も守れていない自分たちが彼等の世話になるのは心苦しかった。

 ミナは湯呑みを卓袱台ちゃぶだいに置き、腕を組んだ。




「家出少女は、俺の国でも社会問題になってる。家庭内不和とか、虐待とか、学校でのイジメとか、色んな事情で居場所を失くした子供が、外の世界にそれを求めるんだ。でも、そういう子供は人身売買や児童買春とか犯罪に巻き込まれるリスクがとても高い」




 お前だって似たようなもんだろ。

 翔太はそう思ったが、黙っていた。桜田という警官の前で敢えて口にする必要は無い。


 俺の国とミナは言ったが、その情報は出して良かったのか気になった。英語を話している時点で外国人であることは明白だが、この子供は存在自体がとても胡散臭いのだ。


 桜田は苦い顔で頷いた。




「社会的な受け皿が足りないんや」

「そう感じている人が多いということが、この社会の抱える問題だよ」




 ミナは言った。




「本当に救済すべき弱者もいるけど、自己肯定感の低い人があまりにも多いんだ。幾ら法整備が進んでも、福祉事業が発展しても、個人が変わっていかないと本当の意味での受け皿は効果を発揮しない」

「せやけど、個人の抱える問題は多様化してる。考え方を変えるなんて簡単なこっちゃあらへん。特に、この国には明確な宗教があらへんさかいな」

「……桜田さんは、変わってるね」




 ミナは感心するように言った。

 個人の考え方に宗教が関係してしまうのは、何となく恐ろしいことに思える。しかし、桜田は宗教が無いことが損失みたいに言う。


 桜田は笑った。




「この国も、外国人が増えたさかいな。無宗教や言うて、刺されそうになったことある」




 これは桜田なりの外国人のミナに対する配慮なのだろう。

 本来、宗教とはデリケートな話らしい。身近な外人であるミナが至ってフラットなのでピンと来ないが、返答によっては流血沙汰にもなるのだそうだ。




「個人の抱える困難を測る指標があらへんのやろうな。自分の困難がどのくらいのものなのか判断出来へんさかい、他人と比較して堂々巡りや」

「そうだね。今の人は指先一つで凡ゆる情報をリアルタイムで獲得出来るから、情報の真偽を確かめる間も無く流されてしまう」

「自分は頭でっかちやなァ」

「I'm often told that」




 ミナが笑って、その場はお開きとなった。


 翔太は、ミア・ハミルトンの言葉を思い出していた。

 人間の本質は悪で、自然界のバグ。翔太にはそれを否定するだけの根拠が無かった。


 交番を出てから、ラーメン屋に寄った。

 ミナは三日間の雲隠れなんて無かったみたいに呑気に笑っていた。翔太が憮然としていると、ミナは焼豚を箸で摘んで寄越した。謝罪のつもりらしい。夕飯が食べられなくなると言って、おかわりはしなかった。


 帰り道、翔太は尋ねた。




「ミアが、人間の本質は悪だって言ってだろ」

「うん」

「俺は、全ての人間がそうだとは思わない。でも、この世には救いようの無いクソ野郎もいる。俺は、そういう奴等がのうのうと生きていることがむかつくし、許せないと思う。それは、その、どうなんだ」

「どう?」

「だから、その……」




 自分の物言いが稚拙なせいで、ミナに伝わらない。

 翔太は頭を掻き毟りながら、恥を捨てて一息に言った。




「復讐を考えるのは、悪いことなのか」




 眉間の湿布が剥がれ、ミナが左手で押さえる。

 とても愚かなことを問うている自覚はあった。だけど、訊いておかなければならないと思った。ミナは湿布が剥がれないようにそろそろと手を離すと、首を傾げた。




「……この国には、死刑というものがあるね?」




 ミナが言った。




存廃そんぱいについて今も議論されているみたいだね。犯罪抑止とか、コストとか、社会的正義とか色んな側面がある。俺は、社会が理性を保つ為に罰は必要だと思う」




 政治家みたいな、ずるい言い方だ。

 辺りは暗く、人気が無かった。駅前の喧騒は虫の声に似ている。頭の上でばちばちと電気のような音がするので見上げると、ドーム型の外灯の中で小さな影が暴れていた。黄金虫こがねむしだろうか。何処から入ったのか出口を無くし、逃げられないらしい。




「誰も死なずに済むなら、それが一番だと思う。だけど、俺は家族を奪われた人に対して犯人を許せとは言えないし、それが正しいとも思わない」

「否定もしないけど、肯定もしないってことか?」

「人の心は目に見えないし、死者の言葉を聞く術は無い。復讐も埋葬も生きている人間のエゴだ。其処に貴賎なんてものは無い」




 ミナらし過ぎる言葉だと思った。

 そのままミナはいつもの歌を口ずさみ、歩き出した。


 ハレルヤ――神様、万歳。


 郷愁の漂う静かな声は、繁華街の喧騒の中に溶けて行った。











 12.星に願いを

 ⑷家出少女












 運が悪かった。

 それ以外に今の自分達を形容する言葉は無かった。


 事務所の前でパトロール中の警官に見付かって、明らかに未成年のミナと、連れ歩く翔太は職務質問の対象となった。

 ミナは帰宅途中だとか、塾に行ってたとかそれらしい嘘を並べていたけれど、連れ立っていた翔太が身分証の類を全く持ち合わせていなかったことが最悪だった。


 帰宅目前だったのに、警官に連れられて交番へ蜻蛉帰とんぼがえりだ。何をしているんだろうと、自分が情けない。

 交番には桜田がいた。しかし、同僚の手前、何も訊かず返す訳にも行かなかったらしく、結局、保護者である立花が呼び出される羽目になった。


 立花は呼び出しに応じてくれたらしいが、機嫌は地の底だったと言う。此処に現れるだろう死神みたいな男をどうやって宥めようかと言い訳の一つでも考えていたら、黒板を引っ掻くような金切り声がした。


 警官に連れられ、一人の少女がやって来る。見覚えのある顔だ。駅前の人が避け、まるで汚いものを見るみたいに、嘲笑うみたいに白い目を向ける。


 少女は、桜田の顔を見るといよいよ顔を歪め、破裂するように怒鳴った。――しかし、正直、翔太にもミナにも、何を言ったのか理解出来なかった。

 兎に角、凄い剣幕だったのだ。罵声、罵倒、怒号、金切り声。少女の声は不協和音となって交番に木霊こだまする。火が付いたみたいに叫び散らす少女に、最早、誰もどうしようも無かった。

 聞くにえない戯言ざれごと、挑発。桜田は眉を寄せ、嵐が過ぎ去るのをじっと待っている。少女を連れて来た警官は、買春の現場を取り押さえたのだと耳打ちしていた。




「お巡りさんだか何だか知らないけどねぇ! 駄目だって言うなら、アンタがお金をくれるの? 養ってくれるの?」




 少女の叫びに、翔太は自分の過去を重ね見た。

 自分は男だった。だから、土木現場でボロボロになるまで働いたり、犯罪行為に関わっているだろう運び屋をしたり、平気で公園で寝泊りしたりした。だけど、女の子にとってそれがどんなに辛いことだろうか。


 買春と言っていた。

 この子は、そういう体を切り売りするような方法でしか生きられなかった。家に戻れと言うのは簡単だが、翔太はこの子の抱える事情を何一つ知らない。


 ミナが、一歩進み出た。

 一般人とは思えない美しいおもてで、血管が浮かんでいるのが分かるくらい白い肌で、万人に愛されるような容姿で、望みを叶えるだけの才能を持ち、当たり前に努力出来る。目の前の少女とは、正反対の人種だ。


 そんな彼に何が出来ると言うのか。

 ミナは少女の足元に膝を突き、顔を覗き込んだ。




「でも、嫌なんだろ」




 少女が膝の上で拳を握る。

 ミナはしゃがみ込んだまま、丁寧に言った。




「大丈夫だよ。桜田さんは、良い人だ」




 ミナの濃褐色の瞳が見遣ると、桜田は頷いた。

 猛獣使いみたいだ。けれど、少女は鞭で叩かれた馬のように勢いよく立ち上がった。




「アンタに何が分かるってのよ!」

「分からないから、出来ることを一緒に探そう?」




 まるで、カウンセリングみたいだ。

 そういえば、ミナの祖父はカウンセラーで、父親は精神科医だ。話を聞くエキスパートである。


 君の力になるよ、と。

 何のてらいも無くミナは言ってのける。




「Please call me Mina」

「外人……?」

「Yeah. I'm from New York. 日本語も、喋れるよ」




 幼さの残る顔でミナは笑った。




「君のことを教えてよ」




 御伽噺おとぎばなしの王子様みたいだった。交番の中は生温かい雰囲気に包まれ、まるで春の日差しの下にいるみたいだ。邪気の無いミナの言葉に気圧され、少女は俯いた。


 そして、その小さな口が開く、刹那。

 交番の入り口に一人の男が現れた。




「何してんだ、クソガキ共」




 金色の眼光が頭の上から鋭く射抜く。

 苛立ちを隠しもせず、立花は扉に手を掛けて舌を打った。警戒する警官達を桜田が制し、ミナが嬉しそうに呼び掛ける。その時だった。

 椅子に座っていた少女が立ち上がり、開かれた扉に向かって一直線に走る。ミナの指先を掠め、翔太の目の前を横切り、そして、立花が咄嗟に腕を押さえた。




「離せ! この変態!」

「はあ?」




 立花は、まるでゴキブリでも見たかのように眉をひそめた。少女が腕を振り払おうとするが、びくともしない。立花は一瞬で関節を押さえると、片手で拘束してしまった。

 少女が必死になって抵抗する程、その拘束はきつくなる。立花は少女の顔を覗き込み、嫌そうに顔をゆがめた。




「粋がってんじゃねぇぞ、ガキ」

「うるさい! 離せ!」

「……人に物を頼む時は」




 ミナが制止を叫び、立花が身をひるがえす。既に少女の体は宙に浮き、鈍い音と共に地面へ叩き付けられていた。




「頭を下げろって、教わらなかったか?」




 怒りを押し潰したかのような低い声は、無関係であるにも関わらず身震いする程の凄みを持っていた。

 交番の中で、少女を地面に叩き付けて、これでは傷害罪じゃないか。ミナが泡食って駆け寄るのを横に、翔太は立花に詰め寄った。




「おい、やり過ぎだ」

「正当防衛だ。ナイフを持ってる」

「ナイフ?」




 立花の言葉通り、少女のパーカーのポケットからは果物ナイフみたいなちゃちい刃物が出て来た。警官達の顔色が変わる。ミナがナイフを蹴って遠去けると、少女はダンゴムシみたいに背中を丸めた。


 細い背中が小刻みに震える。押し殺したような嗚咽おえつが聞こえ、翔太は自分が何をしたら良いのかさっぱり分からなかった。

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