⑶予防線
開花を待ち侘びた桜の木々に、薄桃の蕾が膨らみ始める。
駅前の往来は、薄着にマスクを装着した奇妙な人が増えた。春は花粉症の季節でもある。翔太は鈍色の空の下、デニムのポケットに手を入れて当て所なく歩いていた。
SLCの話をしてから、ミナと会わなくなった。
同じ建物に暮らしているのに、まるでコインの裏と表みたいに生活が擦れ違うのだ。事務所は立花が常駐し、食卓は別。彼等の居住区である三階は事実上出入り禁止の状態である。
避けられていると気付いたのは、そんな生活が三日程続いてからだった。立花に問うても適当に遇らわれ、翔太には打つ手が無かった。強行突破する程の差し迫った事情も無いし、立花に聞く限りでは元気なようだった。
翔太は、ミナがそういう方法を選べる人間であることに驚いた。陰湿と思わなかったのは、彼の人柄を知っているからだ。彼が会わないと決めたなら、翔太には何も出来ないし、立花が話さないのなら追及も出来ない。
SLC――サイエントリバティー教会は、ミナにとっての敵である。翔太が其処に関与していると分かれば避けるのも当然だ。むしろ、立花によって処分されていない現状の方が謎だった。
今の自分はどんな立ち位置なのだろう。
ミナの敵なのか。それとも、切り札になり得ているのだろうか。
表通りをぐるりと一周して、元の場所に戻る。
無駄な時間を過ごしている実感が湧き出して、翔太は溜息でも吐きたかった。何の情報も与えられないということが、翔太に対する評価なのだろう。近頃は信頼されて来たと思っていたが、逆戻りである。
しかし、だ。
春は、寒い日と暖かい日を繰り返しながらやって来る。信頼もそうなんだろう。一朝一夕で築かれるものではない。
近江の所にでも行くか。
腰に手を当て、携帯電話を取り出す。当然、ミナからのメッセージは無い。電話帳から近江の番号を探していると、階段の上から足音が聞こえた。
薄闇の中、濃褐色の瞳が鋭利に光る。それはまるで獲物を探す狩人のようだった。三日ぶりに見るミナは、感情を削ぎ落としたかのような冷たい無表情だった。
「……よォ、三日ぶりだな」
踵を返すものかと思ったが、ミナは眉根を寄せて立ち止まっていた。深刻そうな表情であるが、何かあったのだろうか。もしも自分が力になれるのなら、幾らだって手を貸してやりたい。
そんなことを思っていると、ミナの強張った肩は風船のように萎んだ。へにゃりと笑ったミナは、安心したようにも、諦めたようにも見えた。
「……美味しいクッキーを貰ったから、幸村さんにお裾分けするんだ。一緒に来るかい?」
ミナは柔らかな微笑みに、諦念のような侘しさを乗せて言った。社交辞令のようにも聞こえた。ミナの手には白い紙袋が下げられていた。
翔太が答えられずにいると、ミナは苦笑した。
一緒に行こう、と。
脇を通り抜けたミナからは、石鹸の匂いがした。風呂にでも入っていたのだろうか。
尋ねたいことはあったが、そんな時間は無かった。
幸村法律事務所は隣のビルにあり、移動には五分も掛からない。沈黙を貫くミナに導かれるように、エレベーターに乗り、幸村法律事務所の扉を叩いた。
事前に連絡を入れていたらしく、待たされることも無くすんなりと応接室に通された。受付嬢も従業員も、ミナや翔太に親切だった。それは、ミナと言う少年が積み上げて来た信頼であり、誠実な人柄の為であり、その姿がとても美しかったからだろう。
応接室のソファに並んで座る。ミナは正面を見詰めたまま振り返らない。避けられていると言うより、距離を置かれている。そんな印象だった。
「お前、今まで何してたの」
「いつもと同じだよ。トレーニングして、FXをして、リハビリして……」
「何か隠してるだろ」
「考え過ぎじゃない?」
ミナは肩を竦めて笑った。
丁度その時、扉が開いた。幸村は黒いスーツ姿で、頭痛を堪えるみたいに眉間に皺を寄せていた。ミナの顔を見ると、張り詰めた糸が弛緩するみたいに口元が綻んだ。この子供のことを本当に可愛がってくれているということが分かる。
ミナが紙袋を差し出すと、幸村は礼を言った。そのまま扉の外にいる事務員に声を掛け、皿に出すよう頼んでいた。
幸村はミナの顔を見て、開口一番に「何かあった?」と尋ねた。女の勘というものは侮れないものだ。
「幸村さんは、警察に顔が利く?」
まるで他愛無い世間話をするみたいに、ミナは机に肘を突いた。表情からは何も読み取れない。幸村は怪訝に顔を顰めた。
「どうして?」
「Can you keep a secret?」
ミナは口元に指を立て、辺りを見渡した。室内は翔太と幸村、ミナの三人きりである。天井には監視カメラがあるが、スピーカーは付いていないようだった。
その時、ノックの音が聞こえて、事務員の女性が三人分のお茶と皿に取り分けたクッキーを持って来た。幸村が礼を言い、翔太が会釈するとミナは「Thanks」とキザったらしく笑った。
彼女が出て行くと、幸村はミナを見据えて言った。
「……検事だった頃の知り合いが警察庁にいるわ」
「I have something to look up」
「どんなこと?」
「Investigator of ZERO. He wears silver-rimmed glasses」
「どうして?」
「There is darkness in ZERO. I want to help my friend」
ミナは柔和に微笑んでいるが、幸村の表情を見る限り、とても穏やかな会話をしているとは思えない。日本語も堪能な癖に英語で話し始めたのは、自分に聞かれたくないからだろう。
嘗められたものだ。
だったら、初めから連れて来なければ良かっただろう。
腐った気分のまま湯呑みに手を伸ばすと、中には萎びた桜が浮いていた。啜ってみると塩辛さの中、微かに桜の風味がした。御茶菓子に出されたのは棒状の焼き菓子で、クッキーとパイがあった。特にパイはチョコレートやらナッツやらに彩られ、品がある。ブランド物なのかも知れないが、このタイミングでは訊けない。
不穏な緊張感の中、幸村は翔太を見た。
「その子のこと?」
「Who knows」
ミナは肩を竦めて笑った。
幸村は深い溜息を溢した。
「私に出来ることなら、力になってあげたいと思うわ。でも、それが危険なことなら、協力は出来ない」
「How can you tell your children the real things, diverting your eyes from the truth?」
「……段々、貴方が何者なのか分からなくなって来るわね」
苦い表情で、幸村は翔太を見た。彼等のやり取りは何のことか分からない。ミナは意図的に話題を伏せている。だが、物騒な話をしているということだけは、確かだった。
幸村は肩を落とした。
「いいわ。取引をしましょう」
幸村は湯呑みに手を伸ばした。桜の匂いが部屋を包み込む。まるで部屋の中に春が来たみたいだ。ミナは両手を顔の前で組み合わせ、まるで祈るみたいに幸村を見詰めていた。
「貴方の欲しい情報を私が調べてあげる。でも、それに見合うだけの対価を払ってちょうだい。それが出来ないのなら、私は口を噤むわ」
「……」
「子供が傷付くのは、見たくないの」
ミナは食い下がらなかった。それも、分かっていた。
彼は等価交換を理念として掲げている。他人にそれを求める以上、ミナも従う。
「Well noted, and thank you」
ミナは桜茶を一気に飲み干すと、席を立った。
湯呑みの底に萎れた桜の花が張り付いている。翔太は飲み干すべきか残していくべきか迷ったが、ミナに倣った。
「Nice talking to you」
扉を出る直前、ミナが言った。
天使の微笑みだった。幸村は何かを言おうとしたように見えたが、扉は無慈悲に閉じる。ミナは振り返ること無く、事務所を出て行った。
12.星に願いを
⑶予防線
「ラーメン屋さんに行こうか」
幸村法律事務所のビルを出た時、ミナが言った。
先程まで流暢な英語を話していたせいか、言葉の抑揚が少し不自然だった。
炒飯と餃子が食べたいと、ミナは独り言みたいに言った。
チビで痩せっぽちの癖に大飯食らいである。翔太が頷くと、ミナは綺麗に微笑んで歩き出した。
先導するミナを斜め後ろから眺めていると、その歩き方が不自然なことに気付く。傷は癒えていると聞いているが、まだ万全ではないことは明白だった。
「ミナ」
呼び掛けると、ミナは足を止めた。
街の雑踏、満開の桜。春風の中、彼は消えてしまいそうに見えた。
「俺は、お前の敵か?」
翔太は拳を握った。
疎外感は今更、仕方が無い。彼等の期待に応えられていないのだろうと思う。だから、翔太はそれだけが知りたかった。
ミナは余裕の態度を崩さなかった。
そして、試すような挑発的な笑みで答えた。
「君が決めろ」
春の日差しを背中に浴びながら、ミナは凛と背筋を伸ばしている。人々は、急流の川を二つに分ける岩のように通り過ぎて行く。
ミナはそれ以上は何も語らなかった。くるりと踵を返す様は舞台役者のように洗練され、観客の野次も届かない。翔太は黙って後を追った。
駅前は人で賑わっていた。
非生産的な話題の海を、ミナは急き立てられるような早足で横切って行く。駅前の交番に桜田の姿が見えた。此方に気付きもせず、誰かと話している。その時、若い女の金切り声が響いて、何かが弾丸のように飛び出して来た。
翔太は反射的に受け身を取り、それを捕まえた。
枯れ木みたいな細い腕だった。胡桃色の髪が風に揺れる。振り向いたのは、まるで下着にパーカーを羽織ったかのような薄着の少女だった。
釣り上がった大きな両眼は猫に似ている。顰められた眉と歪んだ口元に気性の荒さが滲み出ているようだった。
「離せ!!」
許容量を超えた風船が破裂するみたいに少女が叫んだ。嫌悪と侮蔑に染まった怒声だった。翔太は静電気のような痛みに、咄嗟に手を離した。ゲルニカのナイフを素手で掴んだ時の傷だった。
パーカーの首元を握り、少女は身を守るみたいに距離を取った。交番から桜田が顔を出し、大阪弁で制止を叫ぶ。少女は小馬鹿にするみたいに舌を出すと、雑踏の中へ走り出そうとした。――その時、少女は勢いよく転倒した。
タイル張りの地面に少女が尻餅を突く。鏡で映したみたいに、ミナもまた倒れ込んだ。互いに額を押さえて呻いているので、コメディでも見ているみたいだった。
「Are you ok?」
赤くなった額を撫でながら、ミナが手を差し出す。見た目は美少女だが、紳士的な少年である。しかも、東洋系の顔立ちをしている癖に英語を話す。
猫に似た少女はミナを見詰めるとばつが悪そうに目を伏せて、その手を振り払った。珍しい光景だ。
慌てて立ち上がった少女が街の雑踏へ駆けて行く。
桜田の制止は届かない。翔太はミナを助け起こし、トラブルの予感に肩を竦めた。
 




