⑴蛹
開かれた本に火が放たれ、蛾のように死に絶える様を覚えている。
焼け落ちる頁が灰となって粉雪のように舞い、蒼穹に吸い込まれて行く。紙の焼ける臭い、薪の爆ぜる音、燻る炎。何処かで聞こえる子供の泣き声、肉を打つ音、男の罵声。対岸の火事を眺めているみたいだった。
先人の知恵や祈りが、脆く死に行く。それはまるで街並みに沈む夕焼けを眺めているみたいだった。炎から放出される熱の塊に当てられ、両目は自然と潤んでいた。
野の百合は如何にして育つかを思え。
頭の中に焼き付いた聖書の一節が、毒のように思考を汚して行く。それは何度洗い流しても、切り取っても、焼き払っても、永遠と其処に有り続ける。
幼い立花には、それがとても悍しいことに思えた。
両親の死後に引き取られた先は、キリスト系の児童養護施設だった。朝は金切り声で追い立てられ、家畜のように朝食を食らい、何も無い庭に投げ出されては鬱屈した子供の陰湿な喧嘩。馬車馬の如く雑務をこなし、手順を誤れば折檻され、日が落ちると礼拝堂に押し込まれて神に祈るように強要された。
傷だらけの子供の群れの中、立花は俯いていた。
そして、幼心に理解した。信仰は人を救わないのだ、と。
気味の悪い薬を飲まされて、何の副作用なのか肺が潰れそうに痛かった。凍った空気が臓腑を切り刻んで行くみたいだ。
薄い布団の中で、いつも願っていた。
力が欲しい。大人に立ち向かい、仲間を守り、この下らなくて退屈な世界を引っ繰り返せるだけの力が欲しい。
隣の布団から啜り泣く声がした。自分より少し幼い少女が、奴隷のように体を丸めて泣いている。彼女は先日、施設の職員に犯されて妊娠し、堕胎手術の末に二度と子供を孕れなくなった。確か、十五歳。
布団から手を伸ばす。細かな傷の散った腕、赤切れの指。立花は彼女の手を握った。小さくて、冷たい手だった。力を込めたら壊れてしまいそうだ。
野の百合は如何にして育つかを思え。
よく知らない海の向こうの神様が言う。意味は知らない。誰も教えてくれなかった。此処にいる子供たちは頭がおかしくなる程にその本を読み聞かせられて来た。
何処かの布団から咳き込みが聞こえる。風邪を拗らせて肺炎になっても病院に行けず、咳のし過ぎで喉を潰し、小部屋とは名ばかりの懲罰房で隔離されていた少年だ。ろくに食事も治療も与えられない環境だった。症状が軽くなって小部屋から出されたが、明日には薬の投薬実験が再開する。自分も彼も、長くは無いだろう。
こんな時代で、こんな世界で。
塀の向こうでは何も知らない人々が呑気に笑っているのに、此処には救いの手は差し伸べられない。
力が欲しい。
せめて、この腕の届く範囲くらいは。
この手が掴んだものくらいは。
では、一体、この手に何が残っていると言うのだろう?
突如として、世界は炎に包まれた。
黒煙が立ち昇り、赤い悪魔が空を舐める。
紅蓮の炎が燃え盛り、辺り一帯は昼間のように明るかった。
その時、澄んだボーイソプラノが笛のように響き渡った。
「大丈夫」
救い上げるみたいに、包み込むみたいに。
小さな手の平が差し出される。炎が遠去かり、夜の闇がやって来る。子供の悲鳴が、男の怒号が、骨を打つ鈍い音が。
「この世の終わりじゃない」
パチンと、シャボン玉が弾けるみたいに。
其処で漸く、立花は夢を見ていたことを自覚した。
12.星に願いを
⑴蛹
体が怠かったのは、眠りが浅かったからだ。
関節が痛むのは、姿勢が悪かったから。
立花は全身に泥のような倦怠感を抱きながら、そっと身を起こした。昔話に出て来る木樵の家みたいな小さな和室で、立花は自分の記憶を整理した。
ゲルニカの一件を終え、立花は再び近江の元へ通うようになった。翔太に稽古を付ける為ではなく、自分の訓練の為だった。
三和土には円筒形の鉄の塊が立て掛けられている。昔から世話になっている武器商人から仕入れたライフル銃である。
SVLK-14Sはロシアが開発した高性能のスナイパーライフルで、4km以上もの先にいるターゲットを高い精度で狙撃する。ボルトアクションと呼ばれる装弾を使用者が行う種類の銃だが、戦場でも無い限りは大きなデメリットにならない。手間が掛かる分、構造が単純でメンテナンスがし易い。
ライフルは使ったことがあるが、射撃後の反動が大きく、扱い難かったのを覚えている。結果として現在愛用しているベレッタM92に落ち着いたが、それだけでは足りないと感じるようになったのだ。
ゲルニカを翔太が追っていた時、何者かの横槍が入った。
あれが何だったのかは分からない。だが、奴は明確な殺意を持って翔太に銃を向けた。咄嗟に立花が狙撃し、着弾すると消えてしまったが、片手銃の威力なんて大したこと無いのだと悟った。
狙撃距離はせいぜい25m程度だ。そもそも片手銃は近接戦闘を想定しており、ベレッタM92は反動が少なく装弾数の多さが売りである。射撃精度も高いが、高速道路で狙われたように、相手がスナイパーであれば太刀打ち出来ない。
遠距離の敵に対応する術がいる。
そう思ってスナイパーライフルに手を出したが、慣れない銃は疲れるのだ。疲労に比例して精度が落ち、体勢も崩れる。今の状態では使い物にならないお荷物である。
訓練が必要だ。追い詰められた緊急時にも対象を正確に射撃し、致命傷を与えられるだけの力が必要だ。
立花が重い腰を上げようとした時、引き戸ががらがらと開いて、近江が現れた。山奥になんて居住するものだから、生活必需品を購入するにも山を越えなければならない。畑も持っているらしいが、店頭に並べられる程の品ではない。
山の天気は崩れ易く、外は粉雪が舞っていた。
通りで冷える訳だと、立花は囲炉裏に火を灯した。
「ライフルなんて持ち出して、どうした」
近江は土間に腰を下ろし、立て掛けられたSVLK-14Sを眺めた。まるで畑仕事から帰った年寄りみたいだった。
立花は囲炉裏を火箸で突きながら、独り言のつもりで答えた。
「敵が近くにいるとは限らねぇ」
立花が言うと、近江は何がおかしかったのか息を吐くようにして笑った。裏表の無い男である。立花にとっては、唯一、実力の上でも尊敬し、絶対に裏切らない味方だと断言出来る存在である。
「うちのクソガキが何かコソコソやってんだよ。コネクションを作ろうとしているらしいが、味方が増えれば敵も増える。あいつの価値が上がる程、狙われる危険が高まる」
立花が言えば、近江は目尻に皺を寄せて笑っていた。
「丸くなったねぇ」
どういう意味だ。
自分は変わったつもりは無いし、変えるつもりも無い。それは、損失なのだろうか?
なあ、蓮治。
近江は囲炉裏の炎に当たりながら、肩を窄めた。
「もっと肩の力を抜いて、楽に生きたらどうだ?」
立花はせせら笑った。
こんな時代で、こんな社会で、命の価値は不揃いで、弱者は常に搾取され、信じれば裏切られ、一つの誤ちが死に直結する。気楽に生きるなんて、今の立花からは最も遠い生き方だった。
「大切なものは出来たか?」
それは、遠い記憶だった。
或る組織の捨て石にされて、死の淵から救い出された立花に、近江が言ったのだ。何でも良いから、大切なものを作れと。
あの頃と変わらない真摯な眼差しで、近江は囲炉裏の炎を眺めている。医療用の眼帯にオレンジ色の炎が映り、まるで燃えているみたいだった。
「ハヤブサってのはな、自分自身の王様なんだぜ。もっと自分勝手に、思うまま生きても良いんじゃねぇか?」
何かを見透かされている。
立花は苦笑を返し、逃げるみたいに腰を上げた。
三和土に置き去りにしていたSVLK-14Sをケースに入れて、肩に担ぐ。愛車のBMWが工場送りになったせいで不便で仕方なかった。
公共機関を利用するのは久しぶりである。立花は溜息混じりに礼をして、古びた家屋を出て行った。




