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⑼罪と罰

 コンクリートで囲まれた路地裏は、息苦しい程の閉塞感を伴っていた。道は複雑に絡み合い、自分の現在地すら把握出来ない。


 息は弾んでいた。いつ何処で誰が敵に回るか分からない。緊張感が胃を締め付け、そのまま千切れてしまいそうだった。足音を頼りに汚れた街路を踏み付ける。散乱した生ゴミと下水道の腐臭が目に染みる。


 着衣水泳でもしたみたいに、体が重かった。気持ちは前進しているつもりなのに、まるでその場を跳ねているだけみたいだ。


 足音が聞こえる。片足を引き摺っているみたいに無様で不格好で歪。まだ姿は見えないけれど、この汚れた路地裏の先にゲルニカがいることは分かっていた。


 脳の芯が揺れているみたいに平衡へいこう感覚が狂って、時間経過も曖昧。それでも、立ち止まる訳にはいかない。どんなに汚れて狂った世界でも、理不尽や不条理がまかり通る時代だとしても、――此処はまだ地獄じゃない。


 角を曲がった時、争うような物々しい声が耳を劈いた。

 不特定多数の人間が怯えて立ちすくみ、目を背け、顔を歪め、異口同音に悲鳴を上げる。


 路地裏の先は広い通りに繋がっていた。逃げ惑っていた通行人が足を止め、残酷なその光景を見詰めている。


 痩せた不健康そうな男がコンクリートの壁に向かって立っていた。白いカシミヤのセーター、色褪いろあせせたデニム、ピカピカのローファー、月光が鋭く反射する。

 白く細い手には鈍色の刃が握られていた。そして、その凶器の矛先で、小さな子供が影のようにうずくまっていた。


 乾いた男の声が制止を叫ぶ。ゲルニカは止まらない。止まる理由が無い。ゲルニカは無抵抗の無垢な獲物を引っ掴むと、刃を突き付け恫喝した。




「来るな!!」




 ゲルニカの声を、初めて聞いた。

 それは、古い蝶番ちょうつがいが軋むような悲鳴だった。無抵抗の子供を人質に、ゲルニカは刃を向ける。首筋を拘束された子供は深くフードを被り、生白い面に眼鏡を掛けていた。


 男が叫ぶ。悲鳴が上がる。

 足を止める通行人、集まる野次馬。けれど、誰も助けようとはしない。




「来たら、こいつを殺す!!」




 小さな手の平が助けを求めて伸ばされる。

 だけど、その手は誰にも届かない。


 ゲルニカは焦ったように金切り声を上げて野次馬を威嚇いかくし、制止を叫んだ男は蒼白な顔で立ち竦む。人が集まり、壁を作る。追い詰められたゲルニカは、子供を見ると三日月のように口角を釣り上げて笑った。嗜虐的で陰湿な歪んだ笑みだった。


 顳顬こめかみが抉られるように痛む。記憶が交錯する。

 夏の日、夕暮れ、影法師。降り注ぐ蝉時雨、他人の白い目、非難の声。乾いたアスファルトの路上、車のクラクション、繋いだ手。

 小さな手の平だった。冷たくて、細くて、力を入れたら壊れてしまいそうな、硝子細工みたいな手の平。翔太はいつもその手を引いて歩いた。


 砂月は泣いていた。

 同級生から孤立し、友達も出来ず、大人からは腫れ物扱い。

 鬼、悪魔、お化け。子供の無邪気な悪意が槍のように突き刺さる。

 陰気で、集団に属さず、他人の気持ちが分からない。翔太は手を繋いでいた。離さなかった。


 大切だった。

 家族だった。

 妹だった。

 自分が守るべき存在だった。


 俺が守る。ずっと守る。

 何度だって、兄ちゃんが何とかしてやるから。


 無重力空間にいるみたいだった。

 体は勝手に動き出した。振り下ろされる、刹那。真っ赤な血液が花のように散った。


 濁った罵声が押し出される。翔太の手の平は刃を掴んでいた。

 手の平の皮膚が切れて、肉が裂ける。痛みは無かった。翔太は素手でナイフを掴んだまま、右足を振り切った。


 骨の砕けるような鈍い音がして、ゲルニカの体はスーパーボールみたいに吹っ飛んだ。コンクリートの壁に衝突したゲルニカは動かない。翔太は血塗れの手の平をポケットに押し込み、子供の前にひざまずいた。


 深く被られたフードを覗き込んだ瞬間、翔太は息を呑んだ。透き通るような眼差しは、まるで泥の中に咲き誇るはすの花のようだった。


 眼鏡を掛けた両目は大きく見開かれ、そのまま眼球が落ちてしまいそうだ。




「――ミナ?」




 人質の子供――ミナは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


 どうして、ミナが此処に――?

 頭に上っていた血が下がるのが自分で分かる。

 ミナは翔太の耳元でささやいた。逃げろ、と。


 小さな手の平が翔太の胸を押す。何が何だか分からないまま、翔太は立ち上がった。ミナは擦れ違い様に何かを言った。英語だったし、混乱していて聞き取れない。翔太は慌てて走り出した。


 背中に澄んだボーイソプラノが聞こえる。

 怖かった、助かった、ありがとう、と。

 今度は日本語だった。逃げる刹那に振り向けば、ミナはあの時に制止を叫んだ男に駆け寄っていた。何なんだ、何が起こっているんだ。


 何も分からない。深いきりの中を走っているような感覚だった。翔太は痛み出した手の平を握り、只管ひたすらに闇の中を走った。











 11.ゲルニカ

 ⑼罪と罰










「馬鹿だな」




 路地裏の奥、風の吹き溜りで立花は煙草を吹かせていた。久々に見る彼の喫煙姿は何処か晴れやかで、まるで悪戯が成功したみたいだった。


 きつねつままれたような心地で、翔太はその側に駆け寄った。ポケットに突っ込んでいた手の平が痺れるように痛かった。後ろを振り返れば歓声が聞こえる。それは対岸の火事を眺めているような奇妙な感覚である。




「何がどうなってんだ……」




 ごちるように呟けば、立花は顎をしゃくって後ろを示した。

 小さな足音が聞こえる。闇の向こう、夜の闇から朝日が顔を出したみたいな存在感を放ちながら子供が走って来る。


 ミナ。

 黒いパーカーに黒縁の眼鏡。変装と呼ぶにはお粗末だが、普段の天使みたいな容姿は陰気なオタクの風態に見えた。ミナは自分達の姿を見ると、ふにゃりと笑った。




「馬鹿だねぇ、ショータ」




 手を出して。

 促されるまま、翔太は手を差し出した。血塗れだった。嫌な記憶が湧き上がりそうになる。顳顬こめかみの辺りに鈍痛を覚えて顔を顰めると、ミナは柔らかに微笑み、ポケットからハンカチを取り出した。

 ミナは慣れた手付きで止血し、傷口を覆ってくれた。俯いた頭はフードのせいか髪が跳ねている。




「でも、ありがとう」




 花が綻ぶように、ミナは微笑んだ。

 その時にはもう、翔太はこれまでの全てがミナの計画通りだったことも分かっていた。今回の依頼を受けることになった段階で、ミア・ハミルトンが裏切ることも、ペリドットが襲って来ることも、ゲルニカが逃げることもミナは想定していたのだ。


 手の平にハンカチを巻きながら、ミナが教えてくれた。




「ショータの役割は那賀川修哉なかがわ しゅうやを誘導することだった」

「誰だ?」

「ゲルニカさ」




 ゲルニカ――那賀川修哉は、那賀川議員の実の息子である。

 ミナは目を伏せ、ばつが悪そうに言った。




「俺を助けるのは、八田冬至やた とうじのはずだった」

「八田?」

「あの時、那賀川修哉を止めようとした男の人」




 人混みの中で制止を叫んだ男がいた。八田冬至は、五年前に那賀川修哉が惨殺した少女の父親だったと言う。


 今回の依頼の背景には政治家の派閥争いがあった。その根底には法改正を巡る権力抗争があり、那賀川議員の失脚を目論む革新派は、八田冬至の存在を利用しようとした。




「法改正って何のことだ?」

「法的措置の一つとして、殺し屋の存在を公に認めることだよ」

「何だそりゃ」




 殺し屋なんて裏稼業の代表格だ。それが世間に認められたら、法治国家は崩壊する。

 つまり、八田冬至を擁護ようごする革新派は国家破壊工作を目論もくろんでいたことになる。




「テロじゃねぇか」

「そうだよ」




 ミナはあっさりと肯定した。

 知らぬ間にテロに巻き込まれていたらしい。ミナの話は荒唐無稽で余りにも現実感が無かった。




「革新派の筋書きでは、ゲルニカが八田冬至を殺し、ペリドットに始末されるはずだった。国家権力が裁けない凶悪犯を打ち倒す殺し屋の図式は、民衆にはヒーローに見えただろう」




 八田冬至がどうしてあの場所にいたのか。

 翔太はその意味を考えると、虚しくて遣り切れなくなる。

 実の娘を殺されて、犯人は捕まっても裁かれない。絶望のどん底にいた八田に手を差し伸べたのは、彼を利用しようとする薄汚い権力者だった。


 八田はその手を取った。

 そして、あの時、あの場所にやって来た。――ゲルニカに殺される為に。


 彼等はペリドットをヒーローにする為の舞台装置だった。いや、ペリドットが八田の復讐の為に利用されたのか。




「法改正を目論む革新派こそが、公安の闇だ。ミアやペリドットもそのカードなんだ。私刑を肯定しては法治国家は崩壊する。大勢の人が苦しみ、国外に流れ、戦争の火種になる」




 戦争。

 とんでもない話が出て来た。ミナの考えが正しいかどうかは兎も角として、確かにそれは、有り得た可能性の一つだった。


 翔太は処置の施された手の平をポケットに戻した。

 ダウンジャケットは血で濡れていた。中綿も草臥くたびれているし、もう着られないかも知れない。


 では、ミナの策略は?

 翔太が見遣ると、ミナは答えた。




「ゲルニカを司法で裁く。その為には手順が要る」

「手順?」




 翔太が尋ねると、ミナは携帯電話を取り出した。

 世界的に有名なSNSは、今回の事件を騒ぎ立てている。ゲルニカと呼ばれる猟奇殺人犯、その素性や余罪。義憤に煽られた民衆がゲルニカや国家権力を叱責し、罪をただせと声を上げる。


 逮捕された那賀川修哉は社会的悪と見做みなされた。その逮捕に貢献こうけんしたのは、他ならぬ八田冬至であった。皮肉な話である。ゲルニカに殺されに来た八田は、子供を救ったヒーローになったのだ。彼の復讐は全く異なる形で完成された。


 ゲルニカに逃げ場は無い。

 彼を守る親もこの世にはもういないのだ。


 ミナがゲルニカに与えたかったのは、社会的制裁である。

 ゲルニカが子供を人質にするような悪者で、崇拝する価値も無いクソ野郎だと言う事実が欲しかったのだ。翔太も立花も、被害者遺族もその為のカードだった。


 その時、乾いた拍手の音が響き渡った。

 闇の向こうでエメラルドの双眸が光る。咄嗟に身構えた翔太に対し、ミナも立花も、至ってフラットな態度だった。




「お見事」




 ペリドットは、煤で汚れたスーツを纏い、悠々と拍手を送った。翔太はミナを背中に隠し、エメラルドの瞳を睨んだ。




「全部丸く収まって、満足か?」




 侮蔑するような口調で、ペリドットが吐き捨てる。その瞳には隠しようもない憎悪と憤怒が滲んでいる。


 ペリドットは、八田の依頼を受けてゲルニカを暗殺しようとしていた。ミナや立花が邪魔をしなければ、八田の復讐はゲルニカの死によって完結したのだろう。

 ミナは翔太を押し除けて前に進み出た。丸腰で無抵抗なのに、ミナはまるで何でもないことみたいに殺人鬼と対峙する。




「あんなクソ野郎を生かして、何の意味がある」




 エメラルドの瞳は残酷に澄んでいる。銃を取り出しそうにも、逃走しそうにも、穏やかに会話するようにも見えた。翔太にはペリドットが分からなかった。


 この男は、罪には罰が必要だと言っていた。

 家族には幸せでいて欲しいから、と。


 ミナは怯まなかった。立花も口を挟まない。

 ペリドットとハヤブサ、二人の殺し屋がこんな子供の答えを待っている。




「俺は、誰も死なせたくない」




 殺し屋を前にして、ミナは堂々と言った。

 闇がかすむ程の強烈な存在感、息を呑む程の威圧感。フィクサーと呼ばれる支配者の風格を漂わせ、ミナは言った。




「あんなクソ野郎の為に、これ以上誰かが犠牲になる必要なんて無い。……そう思わないかい?」




 八田冬至も、ペリドットも。ゲルニカなんて愚かな殺人鬼の為に犠牲になる必要は無い。司法によって裁かれるとは、そういうことなのだ。


 ミナの言葉は余りにも美しくて、眩しかった。

 それでも、その理想論やエゴが尊いものだと知っている。全能感とでも言うのか、不思議な感覚だ。ミナトと言う少年と一緒にいると、自分がマシな人間のように思える。


 ペリドットの顔が苦く歪む。

 皮膚がひり付くような緊張が走る。数瞬の沈黙。そして、ペリドットは笑った。




「――良いさ」




 そう呟いたペリドットは、肩の荷が下りたかのような穏やかな顔付きをしていた。翔太にはその柔和な笑みの理由が、自分のことのように分かった。




「そのエゴは、確かに人を救ったからな」




 ペリドットは無防備に背中を向けた。暗がりに消えて行く殺し屋を、ミナが呼び止める。




「ねぇ、ペリドット。――次は、公平フェアにいこう」




 彼は最後に一度だけ振り返った。

 口元には皮肉っぽい笑みが浮かんでいる。翔太には何となく、この男が悪い人間ではないのではないかと、感じられた。人の命を奪う薄汚い殺人鬼でも、ゲルニカとは何かが違う。そんな、確信めいた予感があった。


 彼は、本当に遺族を救いたかったのだ。その為に利用されても構わなかった。


 煤塗れの背中が闇に消える。

 まるで地平線に沈んで行く夕陽を見送っているかのような物悲しさを抱きながら、翔太はただ、その場に立ち尽くしていることしか出来なかった。

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