⑻王手
夜の街に銃声が響き渡る。
何処の誰が通報したのかサイレンが聞こえる。今夜は警察も大忙しだ。翔太は擦れ違うパトカーを横目に街灯の照らすアスファルトの道を走った。
野次馬が人集りを作る。打ち寄せる波を掻き分けるようにして翔太は走り続けた。白いタートルネックの青年が波間に見える。人混みに紛れて見失う訳にはいかなかった。
ゲルニカは蛇行しながら、通行人を押し退けて走っている。不健康そうなモヤシみたいな青年だった。追い付くのは時間の問題だった。
駅前の大型モニターが連続猟奇殺人を大々的に報道している。深刻そうな顔で語るアナウンサー、神妙な顔で頷くタレント、誰もかも不安そうで、他人事だった。元刑事という老人が犯人像のプロファイルを語る。
犯人は愛情不足の子供、性的倒錯者。
無意味なレッテルを貼って、犯人の逮捕に乗り出そうとはせず、警察の無能を責める。
こんな世界で、こんな時代で、こんな人々で。
犯人の非道を責め、教育の質の低下を嘆き、警察組織の限界を謳い、己は火の粉の届かない場所で眺めている。
人熱で逆上せそうな雑踏の中、翔太は自分がどうして走っているのかすら分からなくなりそうだった。
ゲルニカを止めなければならない。
どうやって?
逮捕したって、奴はまたコネクションを使って、檻の外で犯行を繰り返す。こんな最低最悪の殺人鬼をどうやって裁けば良い。
ゲルニカを守る親はもういない。
今度は司法で裁けるのか。被害者の無念を晴らせるのか。犯行を止められるか。もう誰も殺されずに済むのか。
その時、花火の音に似た爆音が轟いた。
辺りがぱっと照らされる。地響きが眠る街を起こし、彼方此方で悲鳴が上がった。ゲルニカが姿勢を崩す。翔太はアスファルトを蹴った。
右手が白いカシミアのセーターを掴む。振り向いたゲルニカは声も上げられず、まるで無抵抗な草食動物みたいな顔で怯えていた。
タートルネックの襟首を引っ掴み、遠心力を加えて地面に叩き付けた。ゲルニカは四肢を投げ出して倒れ込み、真っ青な顔で激しく抵抗した。
その痩躯からは想像も出来ない程の凄まじい力だった。翔太は関節を押さえて地面に縫い付けた。抵抗するゲルニカが翔太のダウンコートの袖口を掴む。その爪は穴でも掘ったみたいに黒く染まっていた。
それが何か分かった瞬間、翔太は頭の芯が焼けるような怒りを覚えた。ゲルニカの爪に詰まっているのは、血だ。出血ではない。労働したこともないような白い手の平に、夥しい程の血が詰まっているのだ。
この男の手が人を殺し、解体し、遺体を辱め、故人の尊厳を踏み躙った。私利私欲を満たす為に幼い子供すら手に掛け、己は親のコネクションに守られ、司法の裁きも受けない。
生きて償わせろ。
立花の声がする。
司法で裁く。
ミナが言った。
分かってる。秘密裏に私刑に処するのでは、何の解決にもならない。遺族は浮かばれない。――だけど!!
こんなクソみたいな人間を生かして、一体何になる!!
濁流の中にいるみたいに、人々はパニックを起こして逃げ惑う。ゲルニカは抵抗を止めない。何処かで火事でも起きたのか、夜空は夕焼けみたいに赤く染まっていた。
人は死んだら何処へ行くの。
砂月の声が聞こえる。
俺は罪には罰が必要だと考える。
ペリドットが言う。
突然、ゲルニカは抵抗を止めた。濁った瞳が愉悦に歪む。戦慄が背筋を駆け抜ける。がつんと鈍い音がして、視界が弾けた。
翔太はガードレールに衝突した。動転した人々が蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。焼鏝でも当てられたみたいに後頭部が熱かった。視界が霞み、立ち上がれない。
ゲルニカが逃げる。翔太は手を伸ばした。
白く滲む視界に、誰かが立っている。
褐色の肌、青い瞳。彫りの深い異国の顔立ち。翔太は散らばった記憶を掻き集めた。
那賀川議員の運転手。後部座席で人が殺されても振り向きもしなかったあの男が翔太の前に立ち塞がる。
「彼は僕等に必要なカードです」
その男は、慈悲深く微笑んでいた。
殺意は無い。害意も、敵意も。けれど、彼は間違いなく翔太の敵だった。
男の手には銃が握られていた。周囲は人で溢れているのに、誰も気付かない。目の前で命を脅かされていても、自分のことで精一杯で振り返る余裕すら無い。
子供の泣き声が、サイレンが、怒号が、地響きが。
「貴方は邪魔だ」
撃鉄が起きる。引き金が絞られる。
周囲から音が消えて、視界がモノクロになる。
不意に、立花の声が聞こえた気がした。
的を絞らせるな。軌道は直線なんだ。
撃鉄が跳ね、銃弾が一筋の閃光となって駆け抜ける。翔太にはそれがコマ送りに見えた。
現実感の無い奇妙な感覚だった。放たれた銃弾がガードレールを穿つ。コンマ数秒遅れて人々が悲鳴を上げる。青い目が見開かれる。翔太は肉食獣が獲物に飛び掛かるように手を伸ばした。
男は人形めいた無表情で、翔太の手首を掴んだ。
筋肉の動きが見える。叩き付けるつもりだ。男の体重移動から次の動作を予測し、翔太は裏を取った。足元に強烈な痛みが走り、翔太は体勢を崩した。死角から足払いを掛けられたのだ。
銃口が再び突き付けられる、刹那。
それは彗星のように尾を引いて流れ落ち、アスファルトを鋭く貫いた。篭ったような呻き声がして、男の体が傾く。翔太は背筋を使って姿勢を戻し、正体不明の男と対峙する。
「流石」
其処で初めて、男は表情を変えた。
焦りや緊張、恐怖ではない。嬉しそうな、そして何処か悔しそうな子供染みた顔付きだった。
「僕等は、ハヤブサを敵に回すつもりはありません」
青い瞳の男はそう呟くと、蜃気楼のように人混みの中に溶けてしまった。
息が上がっていた。頭が痛い。
見上げた大型モニターの横、誰かが立っている。
広告を照らすライトの側、煤だらけのスーツが見える。
立花が、銃口を向けていた。
パニックを起こして逃げ惑う人々の中、揉み合う翔太を避け、立花は青い瞳の男を正確に撃ち抜いたのだ。相変わらず、フィクションみたいな男である。
立花は翔太の無事を確かめると、すぐに背中を向けてしまった。闇の向こうにエメラルドの瞳が光る。ペリドットだ。
何が起きているのか分からない。だが、やるべきことは分かる。自分はゲルニカを捕まえなくてはならない。
大型モニターに緊急速報が流れる。都市部にて爆破事件が発生。近隣住民の避難警告、緊急記者会見。
ゲルニカは何処だ。翔太が視線を巡らせた時、携帯電話が鳴った。メッセージが届いている。
玉――ゲルニカの現在地を知らせる暗号である。
送信者は、ミナだ。詳細な情報ではない。今の状況はミナにとっても想定外なのだ。ゲルニカの逃走経路は子供の落書きみたいにぐちゃぐちゃで無軌道だった。
誰も彼も混乱し、自分のことで手一杯なのだ。翔太は携帯電話を握り、走り出した。
11.ゲルニカ
⑻王手
ミナは携帯電話をポケットに入れた。
夜の街は騒がしかった。活気とは違う息苦しい緊張感の中で、子供の泣き声がする。ミナはパーカーのフードを深く被り、声を頼りに歩き出す。
那賀川議員の別宅が爆破された。
其処でゲルニカを押さえたかったが、ペリドットが動く以上、失敗した時のことも想定していた。まだ詰みではない。玉の囲いは立花が崩してくれた。
公安の動きが忙しないのは、政治家の派閥争いのせいだろう。
この国の不思議な所だ。組織を作ると必ず内部で分裂し、誰かが声を上げると反対派が現れる。アンダードッグ効果、バンドワゴン効果。人の持つ善性、自浄作用。呼び方は何でも良い。この国の人間は情に厚いようで、多数決に弱いのだ。
子供が泣いてる。
台風の後の川みたいに、人がごった返している。道の隅に捨て置かれた不用品みたいに小さな女の子が蹲って泣いている。人混みに押されて親と逸れたのか、膝を擦り剥いていた。
ミナはその側に膝を突き、手を差し出した。
「Are you ok?」
女の子は頬に大粒の涙を貼り付けて、肩を震わせていた。
ポケットから絆創膏を取り出し、血の滲む膝に貼ってやった。其処で漸く女の子は泣き止んで、頬の涙を拭った。
手を繋ぐ。小さな、冷たい手の平だった。
お母さん、と女の子が呟く。ミナはその手を引いて歩いた。
「Hallelujah……」
懐かしい母国の歌を口ずさむ。駆け回る人の群れの中を悠々と歩くのは、まるで波の上を滑っているみたいで心地良かった。その内に我が子を探す母親が現れて、女の子を抱き締めた。
親子の再会に水を差すつもりは無い。ミナは小さく手を振って、また人の波を歩き出した。
ゲルニカの居場所を探す。
逃げ場は塞いであった。一連の残酷な犯行は複数の人間によって行われた。ゲルニカの熱心なファンや同志、親のコネクション。一つひとつを念入りに探し、生贄のように警察に突き出した。
表向きは、エンジェル・リードを中心とした個人投資家による情報のリークである。エンジェル・リード自体は幾ら探られても構わないし、一介の警察官には容易く手出しの出来ない地位を築きつつある。
犯行が杜撰なのだ。指紋やアリバイ、逃走経路。証拠は幾らでも見付けられた。全て、他者承認欲求の暴走だ。その癖、彼等は口を揃えて言うのだ。自分のせいじゃない、ゲルニカに唆されたのだ、と。
仲間や居場所を失くしたゲルニカは、次に何をするだろう。親を殺され、唯一の逃げ道も無い。犯人の思考をトレースする。追い詰められたネズミは、一矢報いようとするだろう。人間の脳なんて、ドブネズミやカラスにも劣る。
ミナは大通りを外れて、路地裏に入った。同時に携帯電話が震えて、メッセージが届いた。ミア・ハミルトンだった。スペイン語でつらつらと書かれているが、端的に言うと悪口である。
ミア・ハミルトンがサイバー攻撃を仕掛けて来ることは、想定していた。彼女は好奇心を満たす為なら誰でも利用するし、平気で裏切る。獅子身中の虫を飼う程、御人好しじゃない。初めから、彼女のことは信用していなかった。
だから、自分のパソコンにウイルスを仕込んでいた。彼女が攻撃を仕掛けた時に作動するカウンターである。インターネット回線から侵入したウイルスは、彼女のパソコンのデータを手当たり次第に破壊する。足止め程度には効果を発揮したらしい。
馬鹿な子だ。
狭い箱庭に閉じ篭り、自分が強者であると錯覚している。コンピュータだけの世界ならば勝てなかっただろうが、彼女の土俵で勝負するつもりは無かった。裏切りや謀計は彼女の専売特許ではない。
ミア・ハミルトンが介入して来たということは、公安が絡んでいる。そして、攻撃して来たということは、誘き出したい誰かがいるのだろう。
ウィローの地図でゲルニカと翔太の位置を確かめ、SNSを流し見る。ゲルニカを持て囃すティーンエイジャーが目障りだ。マスコミの動き、世論の反応、警察の動向を把握し、先回りする。詰将棋は、得意だ。
ペリドットは立花が押さえてくれている。
ゲルニカは翔太が追い詰めている。
雑兵の中で何か蠢いているようだが、翔太と立花が退けたらしい。
ゲルニカを裁くには手順がいる。
こういう遣り方は余り好きではないけれど、とミナは内心で呟き、ポケットに携帯電話を押し込んで、眼鏡を取り出した。
さて、もう一人の役者は間に合うだろうか。
何でもかんでも救えるとは思わないけれど、手が届くのならば救ってやりたい。立花はエゴだと笑うけど、それで誰かが救われるのならば、何でも良い。
暗く狭い路地裏は、出口の無い洞窟みたいに底冷えする。生ゴミの散らかった路上をドブネズミが疾走し、何処かで水滴の落ちる音が聞こえる。大通りの喧騒は遠い。
誰かの足音が聞こえる。荒い息遣い、迫る緊張感。ミナはコンクリートの壁に背を預け、頭の中でカウントダウンする。
さあ、幕を引く時間だ。