⑶不遜な芸術家
「先週、起業したんだ」
ミナがそう言った時、翔太と立花は殆ど同時に頭を抱えた。
室内はコーヒーの匂いに満たされている。蛍光灯の白い光の下、ミナは萎れた草みたいに項垂れていた。
どんな爆弾発言が飛び出して来ても驚かないつもりでいたのに、ミナの投げたとんでもない変化球に翔太は返す言葉が何も出て来なかった。
事前に相談されても何も変わらなかっただろうし、時間も無かっただろうけれど、行動が意味不明で予測出来ない。起業自体は悪いことではないけれど、突拍子が無さ過ぎて援護しようが無い。
「エンジェル・リードって言う投資会社で、若い芸術家に資金援助してる」
もう大匙も小匙も投げ出したい気持ちだった。
大阪の極道、笹森一家から借りた金でFXをしていたことは聞いていたけれど、起業する程に儲かっていたとは思わなかった。
しかも、投資分野が芸術というのも謎である。
フィクサーの孫で精神科医の息子で、脳科学の研究者で、若い芸術家に資金援助する実業家。肩書きも経歴もぐちゃぐちゃで何がしたいのか全く分からない。
「無軌道な人間性は血筋だって近江さんが言ってたぞ」
苦言を呈するみたいに、眉間を揉みながら立花が言った。
彼の家系は無軌道な癖にどの分野でも大成するバグみたいな才能を持っているらしい。
どうして芸術の分野なのか訊いてみたかったが、話が逸れてややこしくなることは分かっていたので黙っていた。
11.ゲルニカ
⑶不遜な芸術家
「エンジェル同士のネット上のコミュニティで情報交換するんだけど、その中で気になる話があって」
「エンジェル同士って何だよ」
確かに、ミナの容姿だけは天使のようだけど。
我慢し切れずに翔太が口を挟むと、ミナは流暢に説明した。
ミナの言うエンジェルとは天使のことではなくて、若い企業に資金援助する裕福な個人のことをエンジェル投資家と言うらしい。大阪の笹森がミナに資金を供給したように、投資する見返りとして株式や転換社債を受け取る。
エンジェル投資家同士はコミュニティを形成し、情報交換したり、共同出資をしたりするそうだ。ミナは元々コネクションが作りたくて活動している訳だから、行動自体は理に適っている。
話の腰を折ったついでにどうして芸術なのかも訊いてみたら、ミナはあっさりと答えた。
「これからは凡ゆる分野にAIが導入される。人間が機械より優位に立つ為には感性を磨く必要がある」
先見の明があり過ぎて、翔太には理解不能だった。
母国では脳科学の研究をしていたらしいから、彼なりの動機も経緯もあるのだろう。行動力が凄まじい上に事前の相談をしないので、周囲の人間にとっては彼が何をしたいのか分からないのだ。
しかし、世界を回して行くのは、こういう人間なんだろう。
才能とか知識とかそういう次元ではない。超人的な能力と誠実な人柄に行動力を搭載したこの少年に、付いて行きたいと願う人間はごまんといるだろう。これでまだ18歳だと言うのだから、恐ろしい話である。
「五年前に地方のショッピングモールで、ベビーカーに乗った赤ちゃんの頭を金槌で割った未成年がいただろ。母親の目の前で」
「知らねぇ。なんだそのいかれた事件は」
世も末だ。
翔太は知らなかった――と言うより覚えていなかったが、立花は知っているようだった。当時、子供を持つ親を恐怖の渦に叩き込んだ残酷な事件だったと言う。
相当世間を騒がせたらしいが、犯人が未成年で精神耗弱状態だったと言うことから実刑判決は出なかったらしい。精神病患者が槍玉に挙げられて激しい弾圧運動も起きたそうだが、現状は何も変わっていない。
遺族は浮かばれなかっただろう。
その上、目の前で我が子を殺された母親は自殺していると言う。この国の司法の限界を感じさせるには充分過ぎる程に残酷な事件である。
「事件が起きた時に写真を撮っていた馬鹿がいてね、それがコミュニティに流れて来たんだ」
「……腐ってるな」
「同感だよ。しかも、写真にタイトルを付けて自分の作品だって言ってる」
不謹慎も此処まで極まると滑稽である。
ミナはコーヒーの入ったマグカップを啜り、苦味に顔を歪めるみたいに吐き捨てた。
「タイトルは、泣く女」
「ゴミクズだな」
嫌悪感が込み上げて来て、翔太は唾を吐き捨てたい気分だった。
悍しい事件を写真に撮って、芸術家気取りなのだろうか。
しかし、紛争地の凄惨な状況を撮影する写真家もいる。それが平和賞を受賞することもあるのだから、正常かどうかの線引きは難しい。
「そいつがね、新しい作品に着手したからって投資者を探してる。俺のコミュニティでは誰も取り合わなかったんだけど、作品を見て決めてくれって画像を送って来た」
そう言ってミナはパソコンを此方に向けた。映っていたのは、真っ赤に染まった現場写真だった。嫌な記憶が蘇り、頭の奥がずきりと痛む。ミナが窺うように此方を見ていたので、翔太は頭を振った。
映っていたのは、女性の遺体である。
ライターを握り、窓枠から上半身を乗り出し、息絶えている。首にはワイヤーが巻かれ、絞殺されたのだと分かる。
胴体も同様のワイヤーで固定されているようだった。死体の状況を見る限り、何かのメッセージがあるとしか思えない。
立花は顔色を変えず、パソコンを覗き込んだ。
「合成写真じゃねぇのか?」
「流石に見れば分かるよ」
ミナはからりと笑った。
彼等は、将来有望な芸術家に先物投資する人間の集まりである。合成写真を見抜くことは容易いだろうし、ミナ自身が他人の嘘を見破ることが出来るのだ。
芸術にはコラージュする技法もあるようだが、これは評価するに値しない残酷な殺人の現場写真でしかない。
「アンダーウェブに、同じような写真が流れてるんだ」
ミナはパソコンを操作した。
黒地の画面に蛍光緑の文字が浮かんでいる。アルファベットが羅列しているが、翔太には読めなかった。多分、英文ではなくコンピュータ独自の言語である。
白いマウスポインタがURLをクリックする。――途端、気味の悪い写真が現れて、翔太は目眩に苛まれた。
何処かの廃工場なのか、白熱灯が吊るされていた。
コンクリートの詰まったドラム缶に女性が下半身を埋められ、まるで助けを求めるみたいに天井に向かって手を伸ばしている。見開かれた両目は白濁し、死んでいることは明白である。そして、この被害者もまた、ポーズを維持することを強制され、ワイヤーでぐるぐる巻きにされていた。
次の写真は男性で、学生のように見えた。
仰向けで刺殺され、タイル張りの床に血が池のように広がっている。その手には折れたナイフがワイヤーによって固定されていた。
最後の写真は吐き気がする程、悍しいものだった。机に寄り掛かるようにして胡座を掻いた女性の足の上に、血の塊が溢れている。それが何なのか分からず身を乗り出し、翔太はその悍ましさに吐き気を催した。
血の塊――胎児である。女性は妊婦だったのだ。絞殺され、腹部を切り裂かれ、胎児を引き摺り出されて無理矢理抱かされている。
胎児は器物に分類される。
いつか、ミナが言っていた。だから、被害者は四人。
「本当に同一犯なのか? 秩序が無いように見えるが」
立花が訝しむように言うと、ミナは一度だけ頷いた。
「秩序型の複数犯だよ」
ミナは断言した。
FBIの捜査では殺人を秩序型と無秩序型に分類するらしい。前者は事前に計画を練って、自分の空想を現実にする為に殺人を犯すという。
ミナはパソコンを操作して、現場写真の一部を拡大して表示させた。
「犯行現場に、気になるものが残されている。一件目はライター、二件目は電球、三件目はタイルと折れた刃。四件目は机。……俺はこれを、見たことがある」
ミナはパソコンを操作しながら、沈んだ声で言った。
「スペインのマドリードにあるソフィア王妃芸術センターで、これを見た。巨大なキャンバスにモノトーンのペンキで描いた大作だった」
「……何の作品だったんだ」
芸術センターということは、何かしらの芸術的な作品なのだろう。けれど、翔太はその方面に明るくないし、抽象画を見て作者の意図を察せる程の感性も持ち合わせていない。
ミナはそっと息を吸い込んで、ビー玉を落とすみたいにぽとりと言った。
「Guernica」
Guernica ――ゲルニカ。
聞いたことがあるような、気がする。翔太が思い出すより早く、ミナが先を続けた。
「スペイン画家、パブロ・ピカソの作品で、ドイツ軍の都市無差別爆撃を主題とした作品だと言われている」
「ピカソ?」
流石にピカソは知っているが、絵画は思い出せなかった。
察していたのかミナはパソコンにモノクロの絵画を映した。モノクロのせいか冷たい印象を与えるその絵は横長で、見ていると何となく不安になるのに、目を逸らせないような引力を持っていた。
「パリがドイツ軍に占領された時、ピカソは検閲でゲルニカの写真を見られた。ナチスの将校に、これを描いたのはお前かと尋ねられて、ピカソは答えた。――違う、お前達だ、と」
犯人はマスコミに電話を掛けて来た。貴方が犯人かと尋ねるスタッフに、犯人は言ったのだ。
いいえ、貴方達がやったのです――と。
「泣く女も、ピカソの代表作の名前だ。ピカソは愛人の泣く姿を描いたらしいけどね」
犯人は絵画を模倣して殺人を犯している。
戦争の悲惨さを描いた絵画を模倣しながら、やっていることは非情な連続殺人である。しかも、それは自分の空想を現実にする為だと言う。
善悪なんてものに興味は無いが、この事件の犯人は間違いなく悪人であり、国家の敵だった。
「犯行の規模や期間を考えると、単独犯では無理だ。仲間がいる。やけに手慣れているようだし、もしかすると同じような事件を前にも犯しているのかも……」
ミナは其処で言葉を区切って、舌打ちをした。
珍しいことに、彼は怒っているらしい。
「こういう馬鹿がいるから、芸術文化は誤解される。コネクションで作品を売られてしまうと、若い芸術家は世に出られない」
なるほど、と翔太は頷いた。
ミナが邪魔だと言うのも、分かる。
「ペリドットは秘密裏に犯人を暗殺するだろう。だけど、俺はこいつを司法で裁きたい。同じような真似をする馬鹿を二度と出さない為に」
「でも、司法にコネクションがあるんだろ? どうやって裁くんだ」
「裁判のことは後回しで良い。こいつが逮捕されて、其処にエンジェル・リードが一役買ったという事実が欲しい」
翔太は唸った。
ミナはこの犯人を捕まえて、同じ馬鹿が現れないように見せしめにしたいのだ。個人投資家が逮捕の手助けをしたと分かれば、芸術と司法の繋がりは強くなる。
事業のことはよく分からないが、そんなに上手く行くだろうかと疑問に思った。
芸術なんて誰にでも理解出来るものじゃないし、結果もすぐに出ない。若い芸術家を育てたいのだろうけれど、現在の司法は腐敗しつつあるし、其処が犯罪の温床になってしまうのではないだろうか。それは結果として、若い才能を摘むことになるかも知れない。
最も疑問なのは、ミナの手の平返しである。
状況が変わったのだろうが、一度口にした自分の意見を翻すのは彼らしくない。何故だ。
深淵――。
自分の知らない何かが、蠢いている。
立花はミナをじっと見詰めながら、静かな声で言った。
「……依頼は受ける。だが、お前の為じゃねぇ」
復讐でなければ、立花は依頼を受ける。
ハヤブサ宛に依頼されている以上、ミナの事情や国家の問題は関係無くそれを遂行するだろう。
「お前等は大人しく留守番してろ」
立花は言い捨てて、席を立った。
翔太は喉の奥に小骨が引っ掛かったような違和感を抱いた。何故だろう。彼等は、翔太の知らない何かを共有している。そんな確信めいた予感があった。
立花はジャケットを羽織ると、洗面所に行った。鏡でも見ているのだろう。翔太は様子を窺いながら、声を潜めた。
「立花一人で大丈夫なのか?」
「……」
翔太が尋ねると、ミナは顎に指を添えた。
「レンジ! ショータを連れて行って!」
洗面所から立花が顔を覗かせる。驚いたみたいに金色の目を見開いた姿は、年齢以上に幼く見えた。
ミナは子供のように無邪気に笑っていた。
「レンジを信用してない訳じゃないけど、ペリドットが動くなら万全を期す必要がある。ショータがいることで、いざという時の選択肢が増える筈だ」
「……」
「俺は一人で大丈夫。事務所から出ないよ」
立花は納得したようではなかった。ミナの顔をじっと見詰めると、観念したみたいに溜息を吐いた。
「翔太、支度しろ」
翔太は迷った。
ミナを残して行くのは不安だった。しかし、連れて行く訳にもいかない。彼なりに立花を心配しての提案だろうし、自分に何が出来るかは分からないが、不安を取り除いてやりたいという気持ちもある。
翔太はソファに引っ掛けていたダウンコートを掴んだ。立花は既に扉の前で待っている。
「……何かあったら、連絡しろ。必ず助けに行くから」
翔太が言うと、ミナは天使のような微笑みを浮かべ、子供みたいに手を振っていた。後ろ髪を引かれるような心地で、翔太は扉を閉じた。その向こうでミナが何をしているのかなんて想像も出来ない。
ましてや、何を考えているのかなんて。
ミナは自分の味方だ。
それだけが、翔太が信じられる唯一の事実だった。