⑵不条理
「高梁世那、三十二歳」
机の上に残された写真を指して、ミナが言った。
取り憑かれたみたいにパソコンと向き合っていたが、三十分と掛からず、ターゲットについて調べ上げたらしい。
「七歳の時に交通事故で両親を亡くして、天涯孤独の身だ。施設を転々としながら勉強して、大学は奨学金で通ってた。それから霜山学館に就職して、今は企画開発部で活躍してるみたい」
スイッチが入ったみたいに、ミナが日本語で滔々と話し続ける。本当は話せるんじゃないかと勘繰りたくなるくらい流暢だ。
翔は机に置かれた写真を覗き込んだ。
社内で撮られた写真なのだろうか。何処と無く幸薄そうな美人だった。脇目も振らず、携帯電話を片手に歩いている。長い黒髪が後ろに流れていた。
立花は煙草に火を点け、問い掛けた。
「転々としていた理由は?」
「施設で問題を起こしてる。入所してすぐ同室の男の子を殴っているし、職員にも反抗的な態度だった。学校の成績は良かったみたいだけど。Uh……, What do you say in Japanese?」
問われても、ミナが彼女の経歴を見てどう感じたのかなんて分からない。立花は煙を吹かせて言った。
「真面目、不器用、損な性格」
「I see」
「施設なんてろくなところじゃねぇ。天涯孤独の子供なんざ、腐った大人達には奴隷くらいにしか見えねぇだろうさ。順応出来ない奴は、こうして落第者のレッテルを貼られて盥廻しだ」
やけに詳しいな、と思った。
立花の表情は至ってフラットだが、金色の瞳には、何か諦念のようなものが感じられる。
ミナが言った。
「自立してからは、アルバイトと学業に追われていたみたいだね。交友関係も狭いし、自宅は都内のアパート。警備員もオートロックも防犯カメラもない」
「楽な仕事だ」
立花が口角を釣り上げて言った。
被害者の近隣を見張っておけ、とミナに託けて、立花は立ち上がった。ハンガーに掛けられていたジャケットを羽織ると、そのまま玄関に向かった。
「Where are you going?」
「パチンコ」
「It's okay, Good luck」
立花は、ひらひらと手を振って出て行ってしまった。
未成年の少女に仕事を押し付けて、自分はパチンコに行くというのか。最低な大人だ。
翔が呆れていると、ミナが問い掛けた。
「Do you know Pachinko?」
パチンコが何なのか知らないらしい。
翔は溜息を吐いて、お前にはまだ早いと宥めた。ミナが子供扱いするなと憤慨したので、おかしかった。
「なあ」
翔が声を掛けると、ミナが目を瞬いた。
写真を眺める。高梁世那は、まるで前しか見えていないみたいに生き急いでいるように見えた。家族も無く、仕事に追われ、最期は殺し屋に暗殺されるなんてあんまりじゃないか。
この女性がどんな人間なのか知らない。
だが、翔はあの依頼人がクソ野郎だと知っている。
「何で、不器用だって言ったんだ?」
「キレイな人だから」
「なんだそりゃ」
ミナは息を漏らすようにして笑った。
「この人は多分、人並みの幸せも手に入れられたんじゃないかな。でも、それを選ばなかった。何か目標でもあるのかな」
「目標?」
「Uh, Something like a belief」
よく分からないが、ミナはターゲットに対して同情しているように感じられた。少なくとも、死んで欲しいとは思っていない。
翔は問い掛けた。
「なあ、依頼人のことも調べられるか?」
「Why?」
「あいつがまともな人間じゃないことは、分かってんだろ。依頼人から恐喝屋に転職するかも知れない」
「Haha! If that’s the case, he got a daredevil!」
ミナはおかしそうに言った。
「All right, I'll investigate for you!」
そう言って、ミナはパソコンの元へ向かった。
ターゲットを見張っておくように言い付けられていたが、いいのだろうか。そんなことを思ったが、集中状態に入ったミナには最早何も聞こえないらしいので、翔は黙っていた。
2.正義の矛
⑵不条理
やることが無くなってしまい、翔は事務所の掃除を始めた。一見すると整理整頓されているのだが、細かいところには手が行き届いておらず、ソファの下からまっくろくろすけみたいな綿埃が大量に出て来た。
お蔭で咳も鼻水も止まらない。
翔が大きくくしゃみをすると、ミナが呼んだ。
ディスプレイには何かの書類が映し出されている。
数字の羅列に気が遠くなった。
「これ何?」
「裏帳簿」
翔が復唱すると、ミナは書類データをスクロールしながら説明してくれた。
裏帳簿とは、所謂、脱税の証拠らしい。税務署に嘘の申告をして、差額を着服する。逋脱行為という歴とした犯罪行為に当たるらしい。
あの依頼人は、会計係と共謀して会社の金を着服していたのだ。その他にも、汚職に賄賂、恐喝と薄汚い調査結果が出て来て、流石のミナも幾らか疲れた顔をしていた。
「クソ野郎じゃねぇか!」
「そうだよ。クソ野郎さ」
ミナが言った。
しかし、その眼には怒りも悲しみも無い。まるで、全部、分かっていたみたいだった。
「この人に逆らって会社を辞めさせられた人も、家族を失った人もいる」
「じゃあ、警察に……」
証拠は此処にあるのだ。
あのクソ野郎を逮捕してもらおう。そうすれば、立花はターゲットの暗殺を止めるかも知れない。
ミナは静かに首を振った。
「このデータ、何処にあったと思う?」
「あ?」
「ターゲットの自宅のパソコンの中なんだ」
じゃあ、つまり、ターゲットは依頼人の汚職の証拠を掴んでいる?
だから、口封じの為に暗殺されるのか?
「どうにかならないのかよ!」
ミナは答えなかった。
黙ってパソコンにUSBを差し込んで、データの複製を始めた。依頼人が恐喝屋になった時、それを潰す為だ。
ミナは、翔の依頼に応えた。
だけど、翔の本心はそれじゃない。ただ、善人が不条理に殺されることが堪えられないだけだ。こんなワガママにミナが応える理由も義務も無い。だけど、こんなの!
「Come to her house. ……レンジに、頼まれていたから」
「俺も行く」
「No good. 君は邪魔だ」
突き放すように言って、ミナはフードを深く被った。
伏せられた目が何処か寂しげで、胸が痛かった。
何も言わず、ミナは事務所を出て行った。地獄に垂らされた蜘蛛の糸が、目の前で断ち切られたような絶望感だった。
どのくらい呆然としていたのか、気付くと立花が帰宅していた。
相変わらず幽霊みたいに不気味な奴だ。足音どころか気配すら無かった。
「……ちょっと、出掛けて来る」
翔は立ち上がり、玄関に向かった。
ターゲットの自宅が何処なのか分からないので、ミナを追うことは出来ない。それでも、何もしないではいられなかった。
立花が、言った。
「いってらっしゃい」
まるで、当たり前のことみたいに。
冷たいと怒るべきだったのだろうか。それとも、嘆くべきか。けれど、翔は嬉しかった。此処に帰って来て良いと言われているみたいで。
涙腺が緩みそうになるのを堪えて、翔は答えた。
「行ってきます」
吐き出した声は掠れていた。
構うものかと、翔は扉を押し開けた。
外は既に夜の闇が迫っている。