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⑴隣の荊棘

 綿のような雪がちらつく春先の空は、鈍色の雲に覆われていた。深い竹藪の中は薄らと白く染まり、凡ゆる音が吸い込まれる無音の世界だった。


 目が眩むような白銀に、黒尽くめの男が立っている。

 糊の効いたダブルスーツは喪服のようでありながら、まるでハリウッド映画から抜け出して来たかのような洗練された雰囲気をかもし出す。毛足の長い猫みたいな黒髪に雪の結晶が降り積もる。無音の世界でその男は凍り付いたように動かない。彫刻のような耳が寒さの為に赤く染まり、それだけが生命の存在を証明していた。


 男の手には黒光りする鉄の塊があった。

 拳銃である。夜の闇をり貫いたみたいな銃身に、金色の鳥が羽搏いているのが見えた。


 見てろ、と近江が言った。

 その瞬間、空気の抜けるような音が数発聞こえ、頭上高くにあった竹の葉がはらはらと舞い落ちた。

 一枚の竹の葉が足元に落ちて来る。枝の先は黒く焦げていた。その男が、雪と風に揺れる竹の葉の、爪の先程の枝先を撃ち抜いたということが克明に刻まれていた。


 舞い落ちた笹の葉全てが同じ状態にあり、彼の放った銃弾の数とそれは一致している。

 人間業じゃない。翔太は目の前の男に底知れない恐ろしさを抱いた。


 以前、交通事故の被害者遺族を殺して欲しいという最低最悪な依頼があった。狙撃される被害者を庇ってミナが飛び出したが、彼は予期していたのか対応したのか、跳弾を使って一発で撃ち殺してしまったのである。


 三代目ハヤブサ――立花蓮治は、特に銃器において人間離れした技巧を持つ。それは翔太と立花の生きる世界の違いであり、別の次元を生きているという純然たる事実であった。


 あのストリートファイトが閉鎖されたと聞いた。

 立花の運転する車で港の倉庫街に行ってみたが、其処はもぬけの殻になっていた。翔太の拉致事件に関わった元締達は立花に始末され、全ては闇の中に消えた。


 撃たれた脇腹が鈍く痛む。貫通した銃創とは肉が抉れた状態にあり、簡単には完治しない。普段鍛えていたお蔭で深刻なダメージには至らなかった。そして、合併症や後遺症が無いのは、救出に来てくれた立花と、適切な応急処置を施してくれたミナのお蔭だった。


 治療の為、暫く安静にするように言付けられていた。痛みは体力を消耗するが、活力は余っている。ランニングや筋トレが禁止されているので、翔太は暇を持て余していた。


 立花が車を出してくれたのは、二時間程、前のことだった。

 銃の扱い方を教えてやると尊大な物言いで山奥まで連れて来て、素人には到底実現不可能な腕前を披露した。その場に居合わせた近江が反対しないのが意外なくらいだ。翔太は間抜けな息を漏らし、子供のような拍手をした。




「俺には無理だ」




 率直な感想を零すと、立花は眉を寄せ、近江は笑った。

 的外れな感想だったのだろう。彼等の意図が何処にあるのか翔太には分からなかった。




「お前に真似出来るとは思ってない」




 突き放すような口調で、立花が言った。

 じゃあ、どうして連れて来たんだ。

 翔太が内心で憤慨していると、近江は口角を釣り上げた。




「一般的に人の反応速度は凡そ0.2秒と言われている。近接距離で撃たれたら人間には避けられねぇ」




 映画ではよく見掛ける光景であるが、銃弾を避けるというのは現実では不可能なのだ。銃口を前にした人間は、成す術も無く射殺される。指先一つで人の命を奪う凶器は、翔太が思っていたよりも遥かに残酷だった。




「裏社会では銃器が蔓延している。実際に、お前もミナも撃たれたんだろ?」




 苦い後悔が込み上げて来て、翔太は拳を握った。

 強くなりたいと思う。だけど、単純な戦闘力では規格外の敵に対応出来ない。




「どうしたら対応出来る」




 近江は指を立てた。

 それは丁度、ピースサインに似ている。




「方法は二つ。物理的に制圧するか、予測を立てて回避するか。撃たれる前にどうにかするんだ」




 撃たれる前にどうにかするなんて、可能なのだろうか。

 頭の中でシミュレーションする。銃をぶら下げて歩いている人間はいない。それが取り出される前に相手を制圧するのは、可能かも知れない。




「相手が銃を持っているかどうかは歩き方で分かる」




 立花は平然と言うが、軍人でも無い限り不可能である。

 普通に生きていたら、銃撃されるということ自体が有り得ないのだ。


 具体的にどうしたら良いのか立花は説明してくれない。彼は物事を感覚で捉える節があり、誰かに教えるという行為が不得手らしかった。


 立花を責めても望む答えは得られないだろう。

 翔太は早々に諦めた。立花のように感覚で対応するには場数が少ないし、ミナのような予測を立てるには理論が足りない。足りないものは補うしかない。


 下水道で対峙したペリドット、高架下での背後からの狙撃、竹林に佇む立花。自分の経験を振り返り、シミュレーションする。何度も、何度でも。不測の事態に遭遇した時に狼狽するばかりでは何も変わらない。


 翔太がぶつぶつと考え込んでいると、近江が言った。




「悪い癖が出てるぞ」




 指摘されて、はっとする。

 考え過ぎるのは、自分の悪い癖だった。同じようなことをミナにも言われたことがある。


 一人の頭で考え過ぎると、時々、道を間違える。

 その為に彼等はこうして山奥の竹林に来てくれているのだから、考えは共有するべきだ。


 ふと思い出して、翔太は携帯電話を取り出した。着信も、新着メッセージも無い。

 事務所でミナが留守番しているのだ。大人しくしていると言っていたが、怪我をしているし、何かあったら大変だ。




「ミナに電話しても良いか?」

「何かあったら連絡するように言ってある」




 立花は銃を懐に戻し、ポケットの中を探っていた。

 煙草を探しているのだろうが、見付からなかったのか苦々しく顔を歪めた。最近、彼が煙草を吸う姿を見ていないような気がする。




「連絡も取れないような事態になっていたら困るだろ」

「そんなタマじゃねぇよ」




 立花が笑った。

 これは信頼なのだろうか。彼等のことはよく分からない。

 許可も得ず電話を掛けようとすると、近江が言った。




「ミナトに伝えとけ。プレゼント、弟に届いたってよ」




 翔太は頷いた。

 ミナには双子の弟がいる。クリスマスに来日した弟から誕生日プレゼントで腕時計を貰ったのだ。そのお返しに猫の形をしたスマホスタンドを買って、立花に預けたのである。

 立花から近江の手に渡り、どうやらそれは弟の元に届いたらしい。誕生日プレゼント一つ渡す為に大変な手間である。




「検品したんだろうな……」

「してねぇよ。巻き込みたくなくて弟に会わなかったのに、何か仕込むメリットが無ぇだろ」




 まるで誘拐犯だ。

 立花と近江の会話を聞きながら、翔太は履歴からミナの番号を呼び出した。










 11.ゲルニカ

 ⑴隣の荊棘けいきょく










 日常生活とはタスクの消化である。

 ルーティンに従って家事をこなし、筋トレとリハビリを繰り返す。休息とサボりは違う。体を休めている間は本を読んで日本語を学び、インターネットでFXに没頭した。


 携帯電話のアラームが鳴ったので、思考を切り替える。インナーマッスルを鍛える為のトレーニングをする時間だった。トレーニングをしている時は何処の筋肉を鍛えているのか意識し、他のことは考えない。雑念は非効率的だ。


 午後四時を回った頃、携帯電話が鳴った。アラームではなく、翔太からの着信だった。ミナは滴り落ちる汗をタオルで拭い、それに応えた。


 翔太と立花が特訓をすると言って朝早く事務所を出てから、ミナは一人きりだった。立花には事務所から出るなときつく言付けられているし、それを破る理由も無かった。


 翔太からの電話は、これから帰宅するという内容だった。

 帰宅前に連絡をくれる律儀な友人に苦笑し、脇腹が引きるように痛んだ。鎮痛剤を辞めたせいで、笑うと傷口が染みるように痛むのだ。


 一人で留守番をする自分を気遣ってくれたらしい。

 何事も無いことを伝えると、翔太はあからさまにほっとした声で返事をした。


 俺のことより、自分のことを心配しろよ。

 御人好しの友達に内心呆れて、ミナは礼を言った。


 誕生日プレゼント、ワタルに届いたって近江さんが言ってたよ。

 翔太が言った。ミナは母国に残して来た弟の顔を思い浮かべ、自然と口元が緩むのを押さえられなかった。

 あのプレゼントは、立花に頼んだのだ。それが近江を経由したということは、立花自身には海外に通じるパイプが無いということだ。


 ワタルへの誕生日プレゼントはカモフラージュだった。

 本命は、父に送った違法薬物と、二つの血の付いたガーゼである。大阪から中国を経由して、ニューヨークにいる父の元に届ける。返事はまだ無い。中国マフィアの一大勢力である青龍会に所属する友人がいる。ミナが持つ唯一の海外へ通じるパイプである。


 中国の社会情勢は悪化している。

 友人は心配だが、頻繁に連絡を取れば目立つし、互いに身動き出来なくなる。


 翔太の通話は数分とせずに終わった。途端、携帯電話のアラームが鳴ったので驚いた。トレーニング終了、休息の時間である。


 汗を掻いていたので、シャワーを浴びた。

 熱い湯を浴びていると、体の芯が痺れるような感覚がした。脇腹の銃創は醜いケロイドになっていた。風呂場から出て軟膏なんこうを塗る。大腿部は抜糸が済んでいるが、完治には程遠い。


 半乾きの髪はそのままに、首からタオルを下げてパソコンに向かった。ミアからのメッセージが届いている。海外のサーバーを幾つか挟んで届けられたのは、と或る調査結果である。

 ミナは深呼吸をした。辺りの景色が一気に遠去かり、視界がモノクロになる。メッセージは暗号化されている。解読するには英語だけでなく、スペイン語の知識が必要だった。


 神谷翔太の父、神谷隆志は公安警察だった。

 公安とは国内の平和を守る為に海外からのテロに備えたり、危険を排除したりする国家のスパイみたいなものである。そんな男の娘が一家を惨殺して、それが世間には知らされず、密かに生き残った息子を探しているなんて、怪し過ぎる。まるで、疑ってくれと言っているようなものだ。


 警察組織は汚染されている。

 毒殺専門の殺し屋、スマイルマンが言っていた。ミナが彼女に連れ去られそうになった時、現れたのはペリドットである。国家公認の殺し屋を動かすのはリスクが高い。それ程、事態は困窮こんきゅうしていたのだろう。


 国家公認の殺し屋は、仕事内容から鑑みるに、恐らく公安警察の管轄である。彼の主人は国家であり、指揮系統は公安だ。


 この国で何が起きてる?

 ミナはパソコンの回転椅子に背を預け、深く息を吐き出した。集中状態が解けて、入水後のような倦怠感に包まれていた。そろそろ夕飯の支度をするかと腰を浮かせた時、予想外の声が背中から突き刺さった。




「調べ物は終わったかァ?」




 心臓が潰れるかと思った。

 勢いよく振り返った先、金髪の男が立っていた。


 ペリドット。

 ミナが名を呼ぶと、ペリドットは薄く笑った。




「俺が入って来ても、声掛けても振り返りもしなかったぞ。そんなに熱心に、何を調べてんだ?」




 咄嗟に退路を探した。

 ペリドットと二人きりの状況は良くない。近接戦闘になったら確実に負ける。彼が懐から銃を取り出し、どうにか回避出来たとしても、自分では彼に太刀打ち出来ない。


 逃走経路は二つ。一つはペリドットの後ろの扉で、もう一つは窓だ。地上三階のこの場所から飛び降りて逃げるのは現実的じゃない。


 ミナは静かに息を吸い込み、携帯電話を握った。




「……レンジに用?」

「いいやァ? 用があるのは、お前だよ」




 後ろ手に携帯電話を操作する。

 立花に連絡を入れたとしても、到着には間に合わない。

 ペリドットは予備動作無く銃を取り出すと、それをミナに突き付けた。




「SLCと公安の情報を寄越せ」

「……何故」




 ミナは腰を浮かせ、身を低く構えた。

 ペリドットは自分を殺すつもりは無いだろう。殺す気ならもうやってる。情報が欲しいというペリドットは、それを手にするまで自分を殺せない。




「それをお前が知る必要は無い」

「……俺が情報を持っていたとして、アンタに話して俺に何のメリットがある?」




 ペリドットの一方的な物言いには、憤りすら感じた。

 銃口を突き付けて理由も話さず情報を寄越せだなんて、自分が従うとでも思うのか。


 言葉は慎重に選ばなければならない。

 自分は、ペリドットがどういう人間なのか知らない。




「取引したいなら、レンジを通してくれ。俺はレンジを裏切れない」

「裏切る? 何か弱味でも握られてんのか?」




 ミナは答えなかった。

 沈黙は肯定だと、父は言っていた。だが、ミナはそう思わない。語るべき時に話す以外は沈黙するべきである。

 敵か味方かも分からないペリドットに、何の情報も与えてやるつもりは無い。


 ペリドットは口の端に笑みを浮かべ、ひらめいたとばかりに言った。




「じゃあ、俺がハヤブサを殺せば良いな?」




 ミナは息を呑んだ。

 立花が簡単に殺されるとは思えないけれど、それをこの場所で答える必要は無い。

 息が詰まるような緊迫と沈黙の中、ペリドットだけが朗らかに笑っていた。




「それとも、お前の番犬を始末するか?」




 ミナは拳を握り、言葉を堪えた。

 ペリドットの言葉は毒のように胸の中に染み込んで、呼吸を追い詰めて行く。何も答えるべきじゃない。動揺も焦燥も、ペリドットに情報を与えてはならない。




「お前が自分から口を割りたくなるようにしてやるよ」




 そう言って、ペリドットは何事も無かったみたいにきびすを返した。白いスーツには皺一つ無い。鮮やかな金髪が蛍光灯に照らされきらきらと光る。

 扉が閉じる音が響いた。――その瞬間、両足の力が抜けた。


 尻餅を付いた拍子に後頭部が回転椅子に衝突し、間抜けにくるくると回る。

 シャワーを浴びたばかりだと言うのに、どっと汗を掻いていた。


 携帯電話が鳴っている。

 ディスプレイには親しんだ名前が表示されていた。体の強張りが解けて行くような安心感に包まれ、ミナは深く息を吐き出した。

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