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⑼水底の昴

 武道とは、争わない為の手段なのだと言う。


 そう語ったのは、フルコンタクト空手の師範だった。幼い頃から通っていた道場は街の片隅にひっそりと建っていて、共働き世帯の多い地域では学童の代わりを担っていた。


 翔太はそれを聞いた時、変だなと首を傾げたのだ。争わないのに戦い方を教えるなんて矛盾しているし、稽古が兎に角厳しかったのだ。

 エネルギーを持て余したクソガキが挙って参加した稽古では、喧嘩みたいな殴り合いも多かった。そういう時に師範は般若はんにゃ形相ぎょうそうで双方を激しく叱ったし、殴ったこともあった。


 今にして思えば、師範は厳しかったけれど、優しかったのだろう。素手でも使い方を誤れば人を死なせてしまうことがある。師範は馬鹿な子供達に根気強く、武道とは何なのかを説いた。


 武と言う字の成り立ちは、ほこを止めるという意味があるらしい。心身共に強くなれば、争う必要は無く、他者に優しくなれる。人を傷付けることだけが強さではない。師範はそれを教えたかったのだ。


 砂月が小学校の飼育小屋でうさぎにわとりを殺したのは、翔太が六年生の時だった。夏だったと思う。せ返るような血の臭いの中で、照り付ける日差しが何処までも眩しかった。


 それから逃げるように引越しして、師範とも会わなくなった。学年に五人しかいない田舎の学校で、翔太は片道一時間掛けて別の道場に通った。武道とは何かなんて説いてくれる師範には出会えなかった。


 全国大会で入賞するようになると、知った顔も見かけるようになった。皆、腫れ物を扱うみたいに遠巻きに眺めて、声を殺して何かを囁いていた。


 あの事件が起きたのは、翔太が高校三年生の時だった。

 県外で行われた合宿から帰って来たら、血塗れの砂月が玄関で待っていた。


 人は死んだら何処へ行くの。

 あの時、俺はなんて答えるべきだったんだろう。包丁を振りかざす妹をどうしたら救えたのだろう。答えは今も分からないし、救われる日も来ないのだと思う。


 砂月を殺して、黒いセダンがやって来て、翔太は茫然自失のまま何処かへ運ばれた。よく覚えていない。白髪混じりの銀縁眼鏡ぎんぶちめがねの男が何か言っていた。

 何だっけ。アルファベットだった。DNA、NDA、GPS、SNS……。




「―― SLC?」




 発声と共に意識が浮上した。喉がからからに乾いていて、声が掠れていた。体が異様に怠く、関節が悲鳴を上げる。

 見覚えのある天井が見えた。

 身を起こした時、翔太は自分が何かを握っていることに気付いた。ホッカイロみたいに温かいそれは、力を入れたら壊れてしまいそうに小さな手の平だった。


 ベッドに突っ伏して、ミナが寝ていた。

 長い睫毛が呼吸の度に微かに揺れる。蛍光灯に照らされ、その横顔は陶器のように白く見えた。


 最後の記憶を振り返る。

 暗く淀んだ廃工場で、何かの薬品を注射されそうになった時、何処からか銀色の閃光が滑り込んだ。

 そして、奴等は全員射殺されて、ミナと立花が現れた。

 立花に肩を借りて、車に乗せられて、それから……。


 翔太の記憶は其処で途切れていた。

 腹部に疼くような痛みを感じ、見覚えの無いスウェットを捲ると、厚いガーゼが貼られていた。手の平や腕には包帯が巻かれていて、自分が拉致されて助けられたという事実が急に現実感を伴って頭の中に流れ込んで来た。


 ベッドのサイドテーブルに、黒い携帯電話が置かれていた。ミナに貰った首輪は、彼の言った通り命綱の役割を果たしてくれたらしい。


 時計を見上げると、真夜中だった。あれからどのくらいの時間が経ったのか分からない。ミナが唸るような声を漏らして、瞼を開けた。濃褐色の瞳が驚いたように見開かれ、静かに細められた。




「お帰り、ショータ」




 ただいまと返せば、ミナは眩しそうに笑った。

 鎮痛剤のせいなのか、時間のせいなのかは分からないけれど、ミナは眠そうだった。見れば、翔太はミナのベッドを占領してしまっていた。


 退くべきか迷っている内に、ミナの方から寝袋があるから大丈夫だと言われた。言葉の先を攫われて、翔太は何も言えなくなってしまった。


 輸血と縫合手術をしたのだと聞いた。どうやら、以前のように記憶が途切れてから数日経っているなんてことも無かったらしかった。


 ミナはGPSを頼りに翔太の居場所を見付け、立花に助けを求め、あの場所まで来てくれたのだそうだ。立花はミナの松葉杖を真っ二つに折るくらい厳しく外出禁止を言い付けていた。置いて行くよりも連れて行った方がリスクが低かったのだろうけれど、翔太から見ると立花はミナにペースを乱されっぱなしだ。


 翔太を拉致した奴等は、ストリートファイトの賭博場の元締めだったらしい。新参者が洗礼を受けるのはよくあることだ。副次的に翔太が荒稼ぎしていたことも面白くなかったのだろう。


 脅威に対して詳細に調べ上げ、復讐の余地が無い程に潰す。それは彼等にとっては当たり前の自己防衛だった。けれど、彼等はただの記号ではなく、血の通った人間であった。それを語るミナは、傷付いて見えた。


 翔太を助ける為に、ミナは人殺しに加担した。ずぶずぶと泥沼に沈み込むみたいに、ミナが手を汚さなければならなかった状況が歯痒く、遣る瀬無かった。




「ごめんな……」




 ミナは床に座ったままベッドに肘を突いていた。

 丁度、見上げるような形だ。ミナは透き通るような濃褐色の瞳で、滔々と言った。




「君が此処に来たばかりの頃、レンジが女の人を殺したことがあっただろ?」




 返事を求めないそれは、まるで独り言みたいだった。

 ミナは包帯に覆われた翔太の手の平を握ったまま、ゆっくりと、労るみたいに語り掛ける。




「ショータはすごく怒っていただろ。……俺はあの時、決めたんだ。君の味方になるって」




 あの時、ミナが何か言っていた。確か、あの頃はまだ英語ばかりで、翔太には彼が何を言ったのか分からなかった。

 少女のような容姿で、天使のような微笑みで、火の点いた目で言ったのだ。


 君の覚悟は無駄にしない、と。




「君は出会った時から、誰かの為に怒って、泣ける人だった」




 それだけで?

 言葉は綺麗だけど、そんなことは誰にでも出来ることだった。大衆が映画を見て感動したり、偉い人の言葉に感銘を受けたり、他人だからこそ勝手な感情を押し付ける。

 殺された女の人――高梁は、同情なんて望んでいなかった。自分の信念を貫いて、殺された。


 翔太が黙っていると、ミナが言った。




「俺が君の味方でいるのに、他に理由は無いよ。必要なら、君が好きに考えてくれたら良い」




 打算とか、契約とか、関係無かったのだ。

 切り札が欲しいなんて言っておきながら、ミナが翔太を認めたのはそんな人間臭い感情論だった。だけど、ケチを付ける余地も無い誠実な言葉だと思った。











 10.暴力の世界

 ⑼水底みなそこすばる










 規則正しい寝息と上下する布団。泥のように眠る翔太の腕を布団に戻し、ミナはぎゅっと奥歯を噛み締めた。


 時刻は午前二時。眠気が瞼を重くする。ミナは眉間を揉み、ノートパソコンを閉じた。


 足音を立てないように注意しながら、脈拍と眼球運動を調べる。容態は安定している。完璧な睡眠状態であることを確認し、ミナはパソコンを抱えて息を殺して部屋を出た。


 屋上に続く階段を上りながら、ミナは携帯電話を取り出した。通話履歴から立花の番号を呼び出し、耳に当てる。数コールと待たない間に不機嫌そうな声が返って来た。




「ネズミがいるよ」




 ノートパソコンを開き、ウィローの地図から座標を確認する。街中の監視カメラは支配下にあった。ターゲットの座標を伝えると、立花は短く返事をして通話を切った。ミナもそれ以上の用は無かったので、携帯電話はポケットに押し込んだ。


 屋上に繋がる扉は赤く錆び付いて、針金はりがねの入ったモザイク硝子がめ込まれていた。氷のように冷え切ったドアノブを捻り、気圧で重くなった扉を押し開ける。冷たい北風が正面から吹き付け、厚着をして来なかったことを後悔した。


 室外機しつがいき貯水槽ちょすいそう、錆びた欄干に物干し竿。屋上は洗濯場だった。ミナは暗視スコープを装着し、欄干に手を添えて、体重を掛けないようにして下を覗いた。人気の無い街の中、うごめく影が一つ。距離を調整して人物を特定しようとしたが、見覚えが無かった。


 枯れ木みたいな痩せぎすの男である。気配を消すことや周囲への警戒の仕方が稚拙ちせつなので、立花やペリドット程の玄人くろうとではないと分かる。


 暗視スコープを外すと、冷たい夜風が容赦無く吹き付けた。ミナはセーターの首元に顎先を埋め、貯水槽を見上げた。

 空には白い満月が浮かんでいた。都会の夜空は星が見え難いから嫌いだ。


 風の音がうるさい。ミナは両手を擦り合わせた。

 二十分程して、携帯電話が鳴った。此方の応答を受け付けず、三回のコールで勝手に途切れたそれは、立花の任務達成の合図だった。


 通話の切れた携帯電話を見下ろして、深呼吸をする。

 後頭部の辺りが燃えるように熱い。腹の底がそわそわして、手当たり次第に怒鳴り付けたいような、拳を振り上げたいような凶暴な衝動が湧き上がる。


 腹が立つ。

 ままならない現実も、無関心な他人も、非力な自分も腹立たしかった。口を開けば無意味な罵声が溢れ落ちそうで、呑み込めば思考回路が焼き切れそうだった。


 扉が軋みながら開かれる。ミナはパソコンを閉じて振り向いた。下衆な繁華街の夜景を背中に、金色の瞳が光っていた。




「レンジ」




 ミナが呼ぶと、立花は返事もせずにポケットから眼帯を取り出した。慣れた手付きで右目に装着し、立花は乾いた声で尋ねた。




「あれは何だったんだ?」




 立花の仕事は監視カメラには映らなかった。当然、その男の死体も見えない。カメラの死角になる場所はあらかじめ伝えてあった。今頃、あの痩せぎすの男は路上で冷たくなっている。事件は報道されない。




「ショータと関わりがありそうだったけど」




 ノートパソコンの稜線をなぞり、ミナは立花を見遣った。

 闇の中に浮かぶ金色の瞳は、まるで満月のようだった。ミナは宙ぶらりんの両手を組んだ。夜風に当たったせいか、冷たく、感覚が鈍かった。




「GPSで特定しただなんて、よく言うぜ」




 立花が皮肉っぽく言ったので、ミナは息を潜めて笑った。

 拉致された時、翔太は携帯電話を奪われていた。GPSなんてものは機能していない。けれど、そんなこと、翔太が知る必要無い。




「翔太の敵に、目星は付いているか?」




 ミナは頷いた。


 スマイルマンが言っていた。

 警察組織は汚染されている、と。

 殺す気だったなら致死性の高い毒を使えば済んだ。ノワールに追い詰められたあの場面で、わざわざ自分を殺さずに連れ去ろうとしたことには意味がある筈だ。


 スマイルマンは独自の正義を持っている。

 では、彼女の正義とは何だったのか。


 散らばった点を繋ぐ糸は一つしかないけれど、確証はまだ無い。情報を何処まで開示するべきだろう。木を隠すには森の中。嘘は真実にまぎれ込ませるべきである。




「ショータが生きていて困るのは、警察だよ」




 立花は驚かなかった。

 予想していたのか、確信があったのかは分からない。他人の心が読める訳じゃない。自分に分かるのは、相手が嘘を吐いているかどうかだけだ。




「俺には、あいつの過去がそんなに大層なものとは思えねぇけどな」




 殺し屋の立花から見れば、そうだろう。彼は人の醜さも命の軽さも熟知している。自分達の思想は相容れないし、譲り合う必要も無いと思っている。




「ショータの腕に注射の痕があった。薬物を持ち出すなんて普通じゃない」

「薬物なんて、其処等で蔓延してるぜ」

「ドラッグベビーみたいに?」




 ミナが言うと、立花は口元を歪めた。


 ドラッグベビーである立花が協力してくれるのなら打てる手もあるけれど、彼自身が把握しているようではないし、それを訊いて答えてくれるだけの信頼関係を築けているとも思えなかった。


 レンジが投与されて来た薬物は、何なの。

 ミナはその言葉を呑み込んだ。


 この国の地下深くに、何か気味の悪いものが巣食っている。それは幼虫が冬を耐え忍ぶように地中でうごめき、春が来れば一斉に飛び立つだろう。――そしてそれは、自分とはとても相性の悪いものだと思った。




「怪我の具合は?」




 唐突に立花が尋ねた。話題を変えたかったのだろう。

 自分の状態を立花が気に掛けるというのは、何だか不思議な感覚だった。ミナもそれ以上は追及せず、素直に答えた。




「経過は良好だよ」

「お前、何か薬呑んでるだろ」

「鎮痛剤だよ。でも、もう止める」




 無茶をした時の皺寄せが誰かに向かうのでは、何の意味も無かった。感覚を取り戻さなければいけないのに、麻痺をもたらす薬に頼ったのが間違いだった。

 怪我をしたのは自分が未熟だったからだ。ペリドットやスマイルマンと渡り合うだけの力が足りなかった。同じてつを踏まない為に、やるべきことは決まっている。


 豪雨の影響で屋上は其処此処に湖のような水溜りが出来ていた。欄干から水滴が落ちる。立花はいつもの顰めっ面で夜景を眺めていた。




「近江さんがよォ、よく言ってた。どんな崇高な信念があろうと、死んだら終わりだってよ。立ち向かうことだけが勇気じゃねぇ」




 ミナは頷いた。

 立花の言うことは、とても良く分かるのだ。獣道けものみち茨道いばらみちを選ばなくても、ゴールは出来る。逃げるが勝ちというのも定石じょうせきだ。


 だけど、それでは翔太を守れない。




「それなら、俺の代わりにショータを守ってやって」

「……それで俺に何の見返りがあるんだ?」




 顳顬こめかみの辺りに痺れるような熱を感じ、ミナは自分の手首を握った。脈拍が乱れている。未熟な証拠である。ミナは深く息を吸い込んだ。




さそりだよ」




 利己主義には限界がある。

 ミナが言うと、立花はのどを鳴らして笑った。


 雨上がりの空を見上げる。鈍色の雲の隙間に星が見えた。

 棍棒こんぼうを持ったオリオン座が、蠍座さそりざから逃げるように西に沈んで行く。

 深呼吸をすると、錆び付いた思考回路が明瞭になって、気持ちが穏やかになる。苛立ちは波が引くように消えて行き、ミナは自然と顔を上げていた。


 冬の澄んだ空気が肺を満たす。

 家族と眺めた満天の星を思い出し、胸が締め付けられるように痛む。けれど、今はまだ立ち止まる時じゃない。


 息をする度に肺が凍り付いて行くような気がする。ミナは拳を握り、口の端に笑みを浮かべた。




「朝ご飯は俺が作るよ」




 立花は何かを言おうとしたように見えた。だが、ミナはそれを遮るようにしてきびすを返し、屋上から退場した。

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