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⑴一等星

 体をちぢめて眠るのが癖だった。

 そうすれば身を守れると知っていた。


 寒さや空腹、暴力から逃れる為には部屋の隅で膝を抱えているのが一番だった。目を閉じて耳を塞ぎ、息を殺して嵐が過ぎ去るのを待つ。


 両親は薬物におぼれていた。それを服用している時には興奮していて、目の前で性行為にふけったり、自分を殴ったり、意味も無く叫んだりしていた。時々、赤い回転灯を点けた車がやって来て、両親を連れて行った。


 薬が抜けると両親は抜け殻みたいになった。伽藍堂がらんどうの瞳には誰も映らない。自分が眠ると決まって呪いの言葉を吐き捨てた。


 子供というものは不思議で、寝ていても大人が何を話しているのか聞こえるのだ。夢現ゆめうつつに聞いた罵詈雑言ばりぞうごんは子守唄だった。憎まれ、殴られている間、自分はこの世界に存在しているのだと実感出来た。




「レンジはいつも窮屈きゅうくつそうだね」




 ミナが言った。

 街には木枯こがらしが吹いていた。二月の空は透き通るように青く、雲一つ無い。居住区である事務所の三階で、ミナは机に向かって何か工作をしていた。


 針金で作った骨組ほねぐみに新聞紙を巻いて、くしゃくしゃのアルミホイルで包んで行く。何を作っているのかは全く分からないが、夢中で取り組む姿は見ていて面白かった。


 この子供が立花の元にやって来て、もうすぐ一年経つ。

 月日の流れは早く、目が眩むようだった。出会った頃から姿形は何も変わらないのに、この子供は少しずつ大人になろうとしている。


 うなされていたよ、とミナが言った。

 立花は、自分が転寝うたたねをしていたことに驚いた。時刻は午前九時半。二時間前に起床して朝食の下拵したごしらえをしたことは覚えているのに、ソファに座ってからの記憶が曖昧だった。


 睡魔が思考を鈍らせる。脳がニコチンを求めている。

 立花は懐のポケットに手を伸ばした。




「何を作ってるんだ?」




 問い掛けると、ミナは手を止めた。




「プラネタリウム」




 振り返った瞳は、春の日差しのようにきらきらと輝いていた。


 出来た、とミナが言って、アルミホイルで出来たヘルメットみたいな物を掲げた。


 朝食を作ろうとキッチンに行くと、爪楊枝つまようじが欲しいと言われた。ミナがとことこと歩いて来て、持って行った。

 二人掛けのカフェテーブルで、ミナは工作の続きをした。

 豆腐の味噌汁をコンロに掛ける。温まると味噌の香りがした。ミナが英語の歌を口ずさんでいる。


 翔太はまだ寝ているだろう。起きる頃にミナが勝手に朝食を持って行くので、立花は二人分の味噌汁をよそった。テーブルの上がはさみやら紙やらで散らかっていたので、肘ではしに寄せた。ミナが慌てて工作物を抱き寄せる。


 二人で朝食を取った。

 部屋の中は静かだった。ミナはよく喋る子供であるが、普段は意外に感じるくらい静かで、立花の生活の邪魔にならなかった。


 彼の天才的な集中状態の下に凡ゆる音が吸い込まれ、まるで雪夜のような静寂が作られるのが好きだった。食べ物の好き嫌いが無く、美しい所作で何でも美味そうに食べるのを見ているのも面白かった。




「レンジにとって価値のあるものって何なの」




 朝食の皿を片付けながら、ミナが言った。

 室内には焼鮭の臭いが充満している。立花は机の上の灰皿を引き寄せた。昨晩は吸殻の山だった。いつの間に、捨てられたのだろう。


 立花はストックしていた煙草を取り出して、テーブルの端に置いた。ライターが見付からない。たまにミナはよく分からない悪戯をするので、もしかしたら隠されたのかも知れない。


 ライターの所在を訊こうとしたら、プラネタリウムの下から出て来た。立花はほっとして煙草に火を点けた。




「何が訊きたいのか分からねぇ」




 煙を吐き出す。

 ニコチンが肺に染み込んで、体が安堵に痺れるようだった。吸い口を眺めていると、ミナは喉の調子を整えるみたいに咳払いをした。




「レンジは何が大切?」

「俺の弱味を探してるのか?」

「違うだろ」




 食器を洗い終えたミナが、シャツのすそで手を拭った。しつけがしっかりとしている癖に、時々妙に行儀が悪い。




「俺は家族が大切だ。家族に笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。その為なら、俺は何でも出来る」




 大切なものがあるのは素晴らしいことだ。ミナという子供は家族が大切で、例え自分が側にいられなくても、彼等の為なら幾らでも手を汚せる。裏を返せば、それを盾にされてしまえば何も出来ないということだ。


 立花には理解出来ないことだった。

 どうしてわざわざ自分の弱味を知らせる必要があるのだろう。




「レンジにとって大切なものは何?」




 立花は煙草を灰皿のふちで叩く。燃えかすとなったフィルターがぼろぼろと崩れて行くのが小気味良かった。

 ミナが時々口にする概念の話は、嫌いだった。元々は脳科学を研究していたらしいから、目に見えない思想や摂理は関心が深いのだろう。


 テーブルの端にプラネタリウムがあった。

 ドーム状に貼られたアルミホイルに穴が空いている。どうやら内部に光源を仕込むことで、夜空を再現するらしい。




「完成したのか?」




 質問を無視して問い掛けると、ミナはプラネタリウムを手に取った。




「今、夏の大三角を作ってる。……Deneb, Altair, Vega」




 小さな指先が星を辿る。

 不思議な子供である。此方が無視しても突き離しても、この子は必ず答えようとする。この子がいる時、立花は自分が存在していると信じられる。睨みもせず、殴りもせず、武器も握らせず、息を溢すように温かくて綺麗なものを分けてくれる。


 スマイルマンがミナを連れ去ろうとした時、打算はあった。

 距離が離れていてもスマイルマンを殺す自信があったし、いつでも助けられた。だが、立花は静観していた。ミナが何を選び、何を捨てるのか知りたかった。


 死んでも良かったのか。

 エメラルドの瞳が問い掛ける。




「この世が等価交換ならば、清算の時にレンジは何を払うの?」




 ミナが言った。

 自分達の会話はいつも脈絡も纏まりも無い。ミナの投げたボールを立花は無視するのに、ミナは何処からか新しいボールを拾って来て投げる。それは未完成の変化球の時もあるし、斜め上に飛んで行く大暴投の時もあった。




「ノワールと宮沢賢治の話をして、思い出したんだ。銀河鉄道の夜を読んだことがある?」




 そもそも、宮沢賢治が何処の誰なのか知らなかった。

 日本の有名な小説家らしい。死後も作品は愛されて、多くの人に読まれていると言う。




さそりのエピソードが印象的で、今も覚えてる。……蠍は今まで沢山の命を奪って来たのに、イタチに食べられそうになって井戸に逃げ込んで、溺れてしまうんだ。その時になって、こんな風に命を捨てるくらいなら、イタチに食べられてしまえば良かったと後悔するんだよ」




 死の間際に、人は走馬灯そうまとうを見ると言う。

 蠍もイタチも頭の弱い獣だった。立花はその程度の感想しか抱けなかった。だけど、ミナは違うのだろう。




「利己主義の限界を書きたかったんだと思う」

「それは、俺への皮肉か?」

「いや、訊いてみたかっただけさ。レンジは、俺とは違う考え方をするから」




 ごめんね、とミナは笑って、それきり黙ってしまった。

 紫煙が室内に漂う。立花は薄く散って行く煙を眺め、何処かの遠い星空を夢想した。









 10.暴力の世界

 ⑴一等星










 公的機関というものは、どうしていつも形式張って堅苦しく見えるのだろう。


 その役割については理解しているつもりだが、民間人と馴れ合おうとしない様は傲慢な独裁者のように見えた。その中で人懐こく笑う桜田ばかりが異質に映り、境界線の存在を曖昧に掻き混ぜる。


 ミナは松葉杖まつばづえを突いていた。ペリドットに撃たれた脇腹と大腿部が痛むのだろう。器用な彼にしては覚束無おぼつかない足取りで、いつも以上に眠そうだった。


 駅前の交番、翔太はミナに連れられて桜田に会いに来た。


 翔太が過去のトラウマをフラッシュバックした時や、スマイルマンの一件では多大な迷惑を掛けておきながら、自分達は何の説明も報告もしなかった。立花の提示した身分証がどのような扱いになったのかも知らないし、自分達をどんな位置付けにしているのかも分からない。


 桜田は松葉杖を突くミナを見て目を真ん丸にした。ミナが平素と変わらぬ態度で挨拶をすると、桜田は何かを言いたげに口元を歪ませ、結局、黙った。


 丁度休憩だと桜田が言うので、交番の奥にある座敷に入れてもらった。翔太はミナの持った松葉杖を代わりに壁へ立て掛け、肩を貸してやった。


 鬼は外、福は内。

 郷愁きょうしゅうを誘う童謡が何処かで聞こえた。

 桜田が三人分の湯呑みを持って来た。深緑の渋い色合いの湯呑みは年季が入り、飲み口の辺りが少し欠けている。




「その怪我、どないしてん?」

「転んだんだ。机を避けたら、床が濡れてることに気付かなくて」

「あほ」




 桜田は苦い顔で言った。その声には心配が滲んでいる。

 ミナの怪我は見た目ではどんなものか分からない。まさか、殺し屋に撃たれただなんて想像も出来ないだろう。


 湯呑みを持つと、冷えた指先がじんと痺れた。

 翔太は指先を温めるように両手で包み込み、壁に掛けられた交通安全週間のポスターを眺めた。バラエティ番組で見掛ける頭の悪そうなアイドルが笑っている。


 二人は駅前に出来た喫茶店の話をしていた。

 ダージリンが値段の割に美味くなかったと桜田が言うと、ミナは怪我が治ったら自分が淹れてやると意気込んだ。


 そういえば、とミナが切り出した。




「大阪に友達がいるんだ」




 友達と呼べるかは分からないが、恐らく笹森のことだろう。翔太は緑茶を啜り、二人の会話に意識を戻した。




「桜田さんは、大阪の人なんだね」




 妙な言い回しだなと思った。

 確信を避けているようなミナの言葉は空気の中に溶け、桜田は静かに笑った。




「昔、大阪府警の刑事やったんや」

「転勤?」

「自分、知ってるやろ」




 そうだろうな、とは翔太も思った。

 ミナの言い回しは無邪気な子供の他愛無い質問にも聞こえるけれど、桜田は彼がただの子供ではないことを知っている。

 ミナは薄く笑った。




「上司を殴ったんだろ?」




 笹森とのパイプは、きちんと機能しているらしい。

 翔太が質問の答えを待っていると、桜田は緑茶を飲み下し、熱いと文句を言った。




「せや。クソみたいな上司がおってな、ムカついたさかい、しばいた」

「それで、こっちに来たの?」




 ミナは不思議そうに目を丸めていた。

 桜田の異動は左遷させんなのだろう。だが、地方に飛ばさずにえて首都圏に連れて来たのは何故なのだろう。




「見張られてる?」




 ミナが目配せして声を潜めると、桜田は大口を開けて笑った。




「そないな大層なこっちゃあらへんけどな」




 元々は大阪府警の刑事だったが、上司を殴って警視庁に左遷させられた。桜田という気の良い警官の本質が見えなくなって、翔太は急に居心地の悪さを感じた。




「先輩のクソ刑事が権力に物を言わして、未成年をレイプしてん。そやさかい、しばいた」




 刑事が未成年をレイプ。とんでもない不祥事じゃないか。どうしてマスコミは報道せず、世間は糾弾しなかったのだろう。そして、その刑事は今何処で何をしているのだろうか。


 桜田はミナを見詰めて、泣き笑いみたいな中途半端な顔をした。




「君は、あの時の被害者によう似てる」




 そんなことあるかな、とは思った。

 ミナの神様の依怙贔屓えこひいきばりの顔面の良さは、現代医療でも到達出来ない域に達していると思う。


 だが、立花という正体不明の男と連れ立って歩くミナは、桜田にとっては無視出来ない存在だっただろう。翔太がこの交番に運び込まれた時も桜田は警戒していたし、それだけミナのことが心配だったのだろうと思う。


 思えば、幸村もそうだった。

 幸村は守り切れなかった被害者をミナと重ね見ていた。それは純粋にミナを心配していたのか、過去の自分を救いたかったのか。彼女の中にも答えは無いのだろう。だけど、自分とは関係無いはずのミナを見て守ろうと、助けようとしてくれる人がいる。独善であったとしても、翔太にはそれがとても立派なことに思えた。




「そやさかい、君が笑うてると俺は嬉しい。なんか色々訳ありみたいやけど、困った時は助けたるさかい、気軽に相談してみぃ。なんか力になれるかも分からへんやろ?」




 翔太はそっと、隣のミナを見遣った。

 相変わらず綺麗な顔で、何を考えているのか分からない完璧な笑顔を浮かべている。


 ミナが何を目的に行動しているのか、何となく察しは付いている。この子の敵はとても大きい。いずれは世界と闘わなければならない。その時の為の切り札――コネクションを、確立したいのだ。一人でも多くの味方を持つ必要がある。




「俺はその子じゃない」




 ミナは眉を寄せて、そんなことを言った。




「他人の贖罪しょくざいに付き合わされるのは御免だ」

「ややこしい言葉をよう知っとるなァ」




 桜田は呆れたようだった。

 ミナは頭の良い子供である。時々、大人でも使わないような難しい言葉を使うので、翔太はその度にぎょっとする。


 しかし、桜田の本質が贖罪であったとしても、他人の厚意を無下にして、こいつは何様なんだろう。コネクションの確立なんて一朝一夕では不可能だ。だからこそ、大阪の笹森の元には自分で赴いたのではなかったのだろうか。


 翔太が咎めようとした時、ミナは左手を差し出した。




「俺の友達になってよ、桜田さん。俺は友達の為なら頑張れるから」




 不思議な感覚だった。ミナの回りだけぽっとスポットライトが当たったみたいに明るくて、視線が強烈に惹き付けられる。容姿の為ではない。この子供の中にある何かがそうさせるのだ。


 桜田は怪訝な顔をしていた。

 ミナは僅かに身を乗り出し、輝くような目でじっと見詰めた。




「貴方が望むのなら、俺が道を切り開く」




 何のことだ。翔太は、同じ空間にいながら、硝子越しにそれを見ているかのような疎外感を味わった。自分の理解力の問題なのか、何かを聞き漏らしていたのか。


 桜田は肩を落とすと、溜息混じりに笑った。




「ええよ」




 桜田が応えることも、分かっていた。

 この子はそういう子なのだ。自力歩行も困難な状態でありながら、身も世も無く縋り付いて、何もかもを託してしまいたくなる。

 握手を交わす二人に、翔太は一抹いちまつの不安を抱いた。この子は自分の力で道を切り開き、一人でも歩いて行けるのだろう。だけど、もしも道を踏み外した時、誰がそれを止められるのだろうか。


 貴方は毒? それとも薬?

 スマイルマンの声が何処かで聞こえた気がして、翔太は自分の手の平を見詰めていた。

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