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⑷誰かの地獄

「ノワール! この煙を吸うな!!」




 怒声とも悲鳴とも付かないミナの叫び声が響き渡る。

 銀色の拳銃を構えたノワールが、心得たとばかりに頷いて口元を覆う。彼等の関係性はよく知らないが、其処には確かな信頼があった。


 銀色の銃が火を噴いた。その銃弾はスマイルマンの頬を掠め、すすけたコンクリートの壁を穿った。

 スマイルマンは頬から血を流しながら、妖しく微笑んでいる。翔太はその姿に、口裂け女を連想した。


 名前も国籍も年齢も分からない。

 毒殺専門の殺し屋、スマイルマン。目の前にしていても目を疑う希薄な存在感は、幽霊や妖怪の類に見えた。




「そいつに手ェ出すな」




 テナーの声が恫喝する。

 スマイルマンはただ笑っていた。唯一の凶器とも言うべき注射器を失って、それでもなお、余裕の態度を崩さない。

 この女は、砂月と同じだ。死ぬことを恐れていない。




「My mother has killed me……」




 突然、スマイルマンはあの歌を口ずさんだ。

 銃口を突き付けるノワール、身動き出来ない翔太とミナ。コンクリートの壁に囲まれた薄暗い路地裏には何かの毒と思われる白煙が充満している。マスク越しにも聞こえるその声は、ぞっとする程に美しかった。




「ノワール!」




 ミナが叫んだと同時に、砕けた注射器から鼻を突くような異臭が漂った。余りの臭気に目が焼けるように痛み、翔太は体中の力を振り絞ってミナの首根っこを掴んだ。


 ノワールの体は傾いていた。

 注射器から溢れ出したのも、毒だった。しかもそれは、密閉容器から出ると気化して粘膜を刺激する。

 ミナはせ返りながら、声を張り上げた。




「毒ガスだ!」




 ノワールの顔が歪むのが、微かに見えた。

 毒だけでも対応出来ないのに――!

 ガスということは、引火するのだ。ペリドットを遠去ける為にミナは下水道のメタンガスに引火させた。つまり、銃は導火線に火を着ける可能性がある。


 この場面でノワールが発砲すれば、路地裏は大爆発だ。スマイルマンは死を恐れていない。撤退はしない。逃げるくらいなら、道連れにする。


 ノワールが激しく咳き込む。ガスマスクを着けたスマイルマンはヒールを鳴らして颯爽と白煙の中を突き進み、そして、うずくまる翔太の眼前に立った。


 黒曜石のような双眸は、ミナを見ていた。

 白魚しらうおのような手がミナの胸倉を掴んで引き上げる。くぐもった呻き声がして、翔太は手を伸ばした。

 黒いパンプスの爪先が翔太の手を踏みにじる。突き刺すような鋭い痛みと共に皮膚が裂け、真っ赤な血液が流れた。


 スマイルマンは恍惚の笑みを浮かべ、ミナに言った。




「貴方の生首は、ハヤブサに届けてあげる」




 ミナを連れて行くつもりだ――!

 手足は痺れていた。意識も朦朧もうろうとしている。それでも、翔太は手を伸ばし続けた。


 ミナを引き摺って、スマイルマンは歩き出した。

 翔太も、ノワールも動けない。何か、何か無いのか。この状況を引っ繰り返すことの出来る起死回生の一手は無いのか。


 翔太は知らず、此処にいない最速のヒットマンの名を叫んだ。しかし、それは喉の奥で霧散し、声にはならなかった。


 誰か、誰か助けてくれよ!

 ミナを!


 空気を切り裂く音がした。スマイルマン目掛けて上空から金色の閃光が駆け抜ける。それはまるで、一筋の流れ星のように。


 ダークグレーのスーツを纏ったその男は、一瞬でスマイルマンの肩口を引っ掴むと遠心力を加えて思い切り、無重力空間のように投げ飛ばした。暗いワンピースが風をはらんで膨らみ、しぼんで行く。

 ヒールがアスファルトを叩く。男の拳がその腹を狙って振り抜かれる。骨の折れる嫌な音がした。




「探したぜ、スマイルマン」




 白煙に包まれる路地裏、日の届かぬ暗がり。

 糊の効いたスーツを纏ったその男は、金髪に弱い日差しを反射させながら、緑柱玉の瞳を輝かせて不敵に笑っていた。









 9.毒と血

 ⑷誰かの地獄









 銀色のピアスが音を立てて揺れる。

 国家公認の殺し屋、ペリドット。

 翔太はその姿を愕然がくぜんと見上げていた。


 白煙が晴れて行くと同時に、スマイルマンから笑顔が消える。人形みたいな凍り付いた無表情に寒気がした。けれど、ペリドットは余裕の態度を崩さなかった。




「さあ、延長戦だぜ」




 路地裏から転がり出たスマイルマンは、ミナを引き立たせると、その首を掴んだ。ポケットから取り出されたのはあの注射器だった。それをミナの首筋に添えると、人質だとばかりに此方へ向き直った。




「貴方は毒? それとも薬?」




 ペリドットは眉一つ動かさなかった。

 スマイルマンが何を言っているのか一つも理解出来ない。翔太は会話が成り立っているように、一度も感じられなかった。


 ペリドットが言った。




「俺はヒーローじゃねぇし、お前も正義の味方じゃねぇ。俺もお前も、ただの人殺しだ」




 破裂音が木霊こだまする。悲鳴染みた呻き声がして、真っ赤な血液がアスファルトに散った。


 予備動作の一つも無く、ペリドットは拳銃を取り出し、発砲したのだ。そして、その矛先は。




「ミナ!!」




 ミナが左足を押さえて崩れ落ちる。ペリドットは銃口を向けたまま微動だにしない。

 黒いスキニージーンズから血液が溢れて、スニーカーを赤く染め上げる。


 スマイルマンはうずくまったミナを苛立ったように睨み、注射器を地面に叩き付けた。途端、あの異臭が漂った。

 黒いワンピースをひるがえし、スマイルマンが走り出す。翔太もミナもノワールも、ペリドットすらも追い掛けはしなかった。翔太は芋虫いもむしのように這いながら、ミナの下に駆け寄った。




「ミナ! しっかりしろ!」




 ペリドットの銃弾は、ミナの左の大腿部だいたいぶを撃ち抜いていた。翔太は足の付け根を押さえて止血を試みるが、血は中々止まらなかった。


 緊張と焦燥がピークに達して、翔太はペリドットを睨んだ。




「なんで、ミナを撃った!!」




 分かってる。本当は、分かっている。

 スマイルマンはミナを人質に逃走しようとしていた。逃げられたらミナは確実に殺される。


 ペリドットが撃ったのは、ミナを助ける為だ。負傷した人質は足手纏あしでまといである。最悪の状況を想定して、ペリドットは最善を尽くした。――だけど。


 歯を食い縛って痛みにえるミナが、止まらない血が、もっと違う方法があったのではないかと後悔を抱かせるのだ。


 希望的観測に囚われて、選択肢を見失うのはもう嫌だ。

 それは他でも無いミナの言葉だった。


 極限の状況でどんな選択をしたとしても、それは誰にも責められない。その度に痛感する。ミナやペリドットの生きる社会の暗部とは、こういうことがまかり通る世界なのだ。そして、翔太はまだその上澄みを揺蕩たゆたっているだけなのだと。


 ミナは汗をにじませながら、ポケットから真っ白のハンカチを取り出した。ふうふうと息をしながら自身に応急処置を施す様は手慣れていて、翔太に出来ることは殆ど無かった。


 ペリドットは静かだった。その時には既に拳銃を持っておらず、両手はポケットの中にあった。だが、ペリドットは予備動作無くそれを取り出し、躊躇ちゅうちょせずに発砲出来る人間だと知っている。


 ミナは止血処理を終えると、血の気の失せた顔でペリドットを見上げた。

 アスファルトは血に染まっている。その中で、ミナは泣き出しそうな顔で笑った。




「助けてくれて……、ありがとう」




 ペリドットの顔が苦く歪む。

 ポケットの中が僅かに膨らみ、拳を握ったのだと分かった。




「お前、SLCと遣り合ったガキだな?」




 表情の無い顔は仮面のように冷たかった。


 何のことだ。スマイルマンも、ペリドットも、翔太の知らない世界の言語で話している。そう感じられるくらい、彼等との意思疎通は困難だった。




「家族の為なら何でも出来るって、言ってたな」




 革靴がアスファルトを叩き、そして、流れた血を踏み付ける。汚れた路地裏にありながら、彼の緑柱玉の瞳は美しかった。ミナが見詰め返すと、ペリドットがまなじりを釣り上げた。




「自分の尻もぬぐえないクソガキが、偉そうな口を利くんじゃねぇ!!」




 空気を震わす程の怒声が響き渡り、ミナが肩を跳ねさせる。




「テメェの地獄に他人を巻き込むな!!」




 翔太はミナの前に身を滑り込ませ、ペリドットの前に立ち塞がった。


 彼等が何の話をしているのかは知らない。ペリドットの怒りも、ミナが何も言い返さない訳も、翔太には分からない。けれど、銃弾を受けて失血している今のミナに言うべきではない。


 翔太は身構えた。

 ペリドットが一歩進み出る、刹那。テナーの声が路地裏に響いた。




「兄貴!!」




 薄暗い路地裏で、エメラルドグリーンの瞳が光る。

 ノワールは、血を吐くような声でそう言った。




「俺だよ! あらただ! 俺、兄貴に会う為に――!」




 しかし、ペリドットは一瞥いちべつもせず、絶対零度の声で吐き捨てた。




「俺に弟はいねぇ」




 ノワールの顔が強張った。それは闇の底に投げ込まれた一本のロープを断ち切られたかのような、絶望の表情だった。


 ペリドットは一度舌を打つと、そのまま身を翻した。ノワールが咳き込みながら何度も何度も兄を呼ぶ。けれど、ついにペリドットは振り返らないまま、街の喧騒へと消えてしまった。


 息を吸うもの苦しいような沈黙だった。

 絶望に、無力さに打ち拉がれる。冷たい風が胸の中に吹き込んで、喜びも希望も尽くを凍り付かせて行くみたいだった。




「ノワール」




 片足を引き摺りながら、ミナがノワールに手を伸ばす。翔太ははっとして肩を貸してやった。

 スマイルマンは一時撤退したが、窮地を脱したとは思えない。この場所に留まってはならない。自分も、ミナも、ノワールも。




「行くぞ」




 ミナはノワールの元まで行くと、手を差し伸べた。

 小さな手の平は真っ赤だった。ノワールは胡乱うろんな眼差しでそれを眺め、苦笑した。そして、汚れることもいとわずにその手を取ると、立ち上がった。

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