⑵探知機
「スマイルマンだろ」
洗濯物を脇に抱えた立花が、退屈そうに言った。
正月だと言うのに立花の生活は何一つ変わることが無い。洗濯物の中にスウェットが見えたので、翔太は受け取った。
立花の事務所は三階建てのビルの二階にある。
一階はテナントで、三階は立花とミナの居住区である。洗濯場は屋上にあり、時々翔太が彼等に代わって洗濯物を干していた。
洗濯や掃除は翔太の仕事だった。大雑把なミナがやると立花はストレスが溜まるらしい。
ミナは猫みたいな欠伸をして、事務所のパソコンの前に座った。恐らく、警察署の事件を調べるのだろう。
立花が定位置で煙草に火を点けたので、翔太はソファに座って洗濯物を畳んだ。翔太のグレーのスウェット、ミナのパーカー、立花のシャツを順に畳みながら、翔太は尋ねた。
「殺し屋なのか?」
「本人はそのつもりらしいが、俺に言わせりゃただの殺人鬼だ」
立花が煙を吐き出した。
彼が言うには、殺し屋とは依頼を受けて人を殺す職業の人間を指し、依頼が無いのに殺人を犯す人間は殺人鬼らしい。そして、立花は前者で、スマイルマンは後者なのだそうだ。
「頭がおかしいんだよな。自分が正義の味方だと思い込んでるんだ」
「何でそんな奴が野放しなんだ」
立花はハヤブサと呼ばれる殺し屋で、暴走しがちな同業者の抑止力でもあると言う。スマイルマンは粛清対象ではないのだろうか。
そんなことを思っていたら、立花が言った。
「スマイルマンはいかれてるが、別に暴走してる訳じゃねぇ。考え方が独特過ぎて、俺には全く理解出来ねぇけどな」
立花はスマイルマンに会ったことは無いらしい。
仕事上で敵対したことも無ければ、無差別に人を殺している訳でもないそうだ。スマイルマンには独自の正義があり、其処から逸脱した者は毒殺すると言う。
「ストリキニーネかな」
パソコンに向き合っていたミナが椅子を回転させた。
ミナの話はいつも唐突なのでよく分からない。翔太が見遣ると、ミナは言った。
「毒殺専門の殺し屋で、名前がスマイルマンなんだろ? じゃあ、使う毒はストリキニーネだと思うんだ」
「知るかよ。俺は毒を使わないからな」
立花が突き放すように言った。
翔太はアイロン掛けが必要なものとそうでないものを仕分け、脈絡の無いミナの話を追求した。
「ストリキニーネって何だ?」
「植物性の毒物だよ。強壮剤とか薬にも使われるけど、毒物としては人体に致命的な影響を与えるんだ。中毒症状として全身の激しい痛みと痙攣が出る。成人の致死量は30mgと言われているけど、個人差がある。化学式はC21H22N2O2」
もう、何を言っているのか全く分からない。
パソコンだけでなく薬物まで精通しているなんて、変な子供である。翔太にはミナという少年の方が理解し難く、不思議だった。
「ストリキニーネの痙攣は特徴があってね、顔面の痙攣で笑ってるように見えるんだ」
ミナは人差し指で口角を釣り上げる。
笑う死体――それで、スマイルマンか。
真相は分からないが、筋は通っている。答え合わせを求めて立花に目を向けた。相変わらず、新聞を片手に煙草を吹かしていた。
「知らねぇ。会ったこともねぇし、その予定も無い。毒物なんて興味も無い」
「最も身近な毒は空気だって聞いたことがあるよ。他人事じゃない」
「俺には関係の無いことだ」
立花はそれ以上、何も言わなかった。
最も身近な毒は空気。恐ろしい話だ。界隈では違法なドラッグがばら撒かれているし、明日は我が身である。
寒気を感じて体を震わせると、目も向けずに立花が言った。
「スマイルマンがそんなに怖ぇなら、そのガキを連れて行け。其処等辺の警察犬より鼻が利くからな」
ミナが犬の真似をして吠えた。
緊張感の無い奴等だ。翔太は溜息を吐いた。
9.毒と血
⑵探知機
落とし物をした、と何の前触れも無くミナが言った。
だから、警察署に行きたい。そう言われた時、翔太はその言葉が嘘だと分かった。
「何を落としたって? 言ってみろよ?」
「Ah, この国の歌であるじゃないか。探し物は何ですか〜って」
「……もういい」
大体、ミナは落とし物をする程、普段物を持ち歩かないじゃないか。
無駄な問答はさっさと切り捨てて、翔太はミナと共に警察署へ向かった。
目的地までは市営バスを使った。翔太の住んでいた地域は田舎だったので、料金を先に支払うことに戸惑った。目的地が違えば走行距離も違うのに、料金が一律なんておかしな話だ。
後方の窓際の席に並んで座っていたが、目的地が近付くに連れて乗客が増えた。自分の横に子供連れの若い妊婦が立ったので、翔太は席を譲った。
ミナが翔太に倣って席を立つ。妊婦は気の毒なくらい感謝して、連れられていた女の子は窓の向こうを楽しそうに眺めていた。
十歳くらいだろうか。艶やかな髪を頭皮に沿って編み込んでいた。キャップを被ったミナを興味深そうに見ている。
ミナが手を振ると、女の子はふいっと目を逸らした。母親が頭を下げる。ミナは苦笑した。
警察署の最寄りのバス停にやって来る。道は山を登るような急勾配の坂で、足腰の弱い年寄りには不便な場所だろうと思った。バスを降りた時、一人の男がバスから慌てて転がり出た。居眠りでもしていたのかも知れない。
男はミナの背中に衝突して行ったが、振り返りもしなかった。お蔭でミナが転びそうになったので、翔太はその腕を支えてやった。
「大丈夫か?」
「ありがとう」
ミナは日本語で答えた。
脇腹を押さえていた。ペリドットに撃たれた場所だ。翔太の視線に気付いたらしく、ミナが苦く笑った。
「鎮痛剤が切れて来ると、じくじく痛むんだ」
「鎮痛剤なんて呑んでるのか?」
「そりゃそうだろ。撃たれたんだぞ」
ミナはそう言って、笑った。
翔太はミナと違って撃たれたことは無い。あの事件の後にミナは輸血と手術をしたと聞いている。
「副作用で眠くなるんだ」
ミナはつまらなそうに言った。
よく寝てよく食べる子供だと知っていたが、まさか鎮痛剤のせいだとは知らなかった。言わなかったミナよりも、その可能性を考えもしなかった自分が情けなかった。
「困ったことがあったら、言えよ」
「うん。よろしく」
そう言って、ミナは腕を伸ばした。薄っぺらい手が何かを握っている。翔太は反射的に受け取っていた。
ミナが手渡して来たのは、真空パックに入った錠剤だった。墨を固めたみたいな丸い薬に既視感を抱き、翔太は眉を顰めた。
「何だよ、これ」
「さっきの人が落としたみたい」
掠め取ったのではなくて良かった。
翔太は薬を空に翳した。見ていると何故だか意識が遠退くような奇妙な感覚がした。気味が悪い。
落とし主の姿は既に見えなかった。
「警察署に届けよう。丁度良かったじゃない?」
「お前が渡せば」
「Nope. その薬は、とても嫌な感じがするんだ」
まあ、いいけどさ。
翔太は薬をポケットに入れた。警察署は目と鼻の先である。届けた後は警察に任せれば良い。
警察署の周りはとても静かだった。
隣接しているのが役所と駐車場だからだろう。近くには小学校もあったが、授業中なのかも知れない。
嫌な記憶が脳裏を過り、翔太は首を振った。嫌なことや苦手なことから逃げても、乗り越えることは出来ない。空手で学んだことだった。だったら、せめて、少しでも救いのある方を。
翔太が口を開こうとした時、後ろから声を掛けられた。
「お一つ、いかがですか?」
振り返ると、赤いエプロンをした綺麗な女の人がいた。
後ろには空色のワゴン車が停まっている。新作コーヒーを謳う幟旗が風に揺れていた。
コーヒーの芳ばしい匂いに嫌な記憶が遠去かって行く。エプロン姿の女性は小さな紙コップを二つ差し出している。
コーヒーの試飲か。
警察署の前で行うというのは中々大胆である。路上で行う以上、正式な許可が出ているのだろうし、もしかしたら警察関係の出店なのかも知れない。
翔太が手を伸ばした時、黒い腕時計を巻いた腕が伸びた。
ミナは人形めいた無表情で、女性をじっと見詰めている。
「ミナ?」
ミナの濃褐色の瞳は女性を捉えて離さない。
「やめろ」
「何だよ」
「飲んじゃいけない」
彼の言うことは大抵よく分からないが、いつもに増して理解不能だった。ミナは顔を歪めた。
「変な臭いがする」
ミナが言った、その瞬間だった。
紙コップを差し出していた女性の口元が、三日月みたいに弧を描いた。途端に息が出来ない程の恐怖が背中を襲い、翔太は脊髄反射でミナの腕を掴んだ。
「走れ!!」
エマージェンシーコールが頭の中で鳴り響く。
此処にいてはいけない。逃げなければならない。一歩、一秒でも早く!
女性から迸ったのは、まるで牙を剥く猛獣のような殺意だった。翔太にはよく覚えのある感覚だ。猛禽類の目をした男、立花が漂わせる殺気にそれは良く似ていた。
警察署に駆け込もうとしたら、ミナが制止を訴えた。意味の無いことはしない子である。翔太は臍を噛む思いで進路を切り替え、坂道を駆け下りた。
追手の気配は無い。それでも、翔太は走り続けた。途中、ミナが呻き声を漏らしたので背負った。周囲の奇異な目は気にならなかった。
見慣れた風景が目に入って、翔太は漸く足を止めた。
肺が破裂しそうだった。大粒の汗が頬を伝い、身体中が重い。背中からミナを下ろし、翔太は膝に手を突いた。
「何だったんだ……」
顎から滴る汗を拭い、翔太は言った。
何の変哲も無いコーヒーの新作販売だったように思う。赤いエプロンの女も特段変わったことも無かった。だが、ミナが制止した時に見せたのは、獲物を甚振る嗜虐的な笑みだった。
ミナはポケットから携帯電話を取り出した。
「あれはただのコーヒーじゃない」
「なんで分かる」
「俺はあの人の嘘が分かる」
疑う訳ではないけれど、嘘が分かるからって真実が読み取れる訳ではないだろう。
携帯電話を相手に話し始めたミナの横顔を眺めていた。彼の目には世界がどのように見えているのだろう。通話を終えたミナが「事務所に帰る」と言ったので、翔太は頷いた。
「嘘が分かるって、どういうことなんだ」
「まだ解明出来ていないけど、俺は外したことが無い」
可哀想だな、と翔太は素直に思った。
善悪とは別に、人は誰しも嘘を吐くものだ。ミナは相手が嘘を吐いたり隠し事をしたりすると、違和感として知覚するらしい。つまり、100%の真実でなければ、嘘だと認識するのだ。
最も扱い難い点は、それが機械的に行われるということだった。本人の意思に関わらず、ミナは相手の嘘を知覚する。しかも、嘘は分かっても心の中が見透かせる訳ではなく、性質上、自覚の無いものは分からないそうだ。
この子は、友達がいたのだろうか。心を許し、認め合える対等な人間関係を築けるのだろうか。翔太はそんなことが気に掛かった。
家族が大切だと、ミナは幾度と無く言った。
他に心を許せる人間がいなかったのだろうか。
胸に薄雲が広がるような寂しさを抱き、翔太は奥歯を噛み締めた。今はそれを考える時ではない。
気持ちを切り替えるつもりで、翔太は軽く咳払いをした。
「何者だったんだ?」
翔太が訊くと、ミナは顎に指を添えた。
「少なくとも、味方ではないね。警察署の前で、あの人は誰か待っていたみたいだった」
「誰か?」
其処でミナはふと足を止めた。
「もしかして、それか?」
「はあ?」
「ショータのポケットに入ってる」
言われてすぐにポケットへ手を伸ばした。
真空パックに入った黒い錠剤。見ているだけで何となく気分が悪くなる。それはまるで深い谷底を覗いているような恐ろしさだった。
「調べてみる」
そう言いつつも、ミナは受け取ろうとしなかった。
その気持ちも分かる。翔太は子供の我儘を許すような心地で、それを再びポケットに戻した。