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⑵不確定要素

 事務所はねっとりとした油の臭いが立ち込めていた。

 給湯室からは揚げ物をする小気味良い音が聞こえ、昼下がりの穏やかな時間を醸し出している。


 幸村法律事務所から帰宅すると、事務所には立花がいた。彼が普段何をしているのかよく知らないが、どうやらミナも全てを把握している訳ではないらしい。事務員のミナを仲介しないハヤブサとしての仕事が舞い込むこともあるらしく、其処は互いに干渉し合わないそうだ。


 昼食はチキン南蛮なんばんだった。

 胃もたれしそうな程に大きな唐揚げに、こってりとしたソースが掛かっている。ミナが粉物以外の料理を作るのは珍しい。


 昔話に出て来るような山盛りの白米を茶碗に装って、三人で手を合わせた。時刻は午後三時、遅い昼食だった。

 味が濃いと立花が文句を言っていたが、ミナは笑っていた。翔も苦笑する。立花は文句を言うが、残したことは無い。


 ミナに代わって食器を洗い、全て済ませた頃には午後四時になっていた。昼食の量が余りにも多かったので、このまま何もせずにいたら夕食は腹に入らないのではないかと思った。散歩でもしようかと壁掛け時計を見上げた時、ソファでミナが呼んだ。


 座るように促され、素直に従うとミナが真正面に立った。

 性別が男であることが気の毒に思える程の美少女である。

 ミナは覗き込むように見詰めて、唐突に言った。




「これから、退行催眠を掛けるよ」

「はあ?」




 思わず出てしまった声を、手の平で押さえる。

 ミナも立花も突拍子が無くて説明が不親切なのだ。




「君の記憶を取り戻す為に、一番手っ取り早いと思うんだ」

「手っ取り早いも何も、お前、ちゃんと俺に調査報告してねぇだろ!」




 経緯をはぶくから訳が分からないのだ。

 頭の良い人間は相手に合わせた言葉を選ぶというから、自分勝手に話し続けるミナは中々に馬鹿なのかも知れない。




「俺の中では答えは出てる。でも、確証が無いと話せないから、君に催眠を掛けるんだ」

「めちゃくちゃだろ! なあ、立花!」




 助けを求めて声を上げるが、立花は悠々と煙草を吸っている。他人事と割り切っているのか見向きもしない。




「確証が無いのに答えが出てんのもおかしいだろ!」

「凡ゆる可能性を考えて、完全に有り得ないものを消去して行けば、最後に残ったものが如何に信じられなくても真実である。シャーロック・ホームズもそう言ってる」

「お前が既に有り得ねぇんだけど!」




 わあわあと騒いでいたら、流石に立花も耳障みみざわりに感じたのかミナを叱った。それが飼い犬にするような叱り方だったので苛立ちがつのった。自分の時は鉄拳制裁どころか拳銃を突き付けて来たのに、何なんだろう、この格差は。




「ミナ。順を追って話してやれ」

「Yeah. レンジがショウを押さえていてくれるなら」

「俺が暴れ出すとでも思ってんのか?」




 頭が痛い。自分が正しいことを言っているはずなのに、ミナが開き直っているからまるで此方に非があるみたいだ。

 ミナの双子の弟は常識的で真面まともな青年だった。兄弟でも上がぶっ飛んでいると、下はしっかりするのだろう。今頃ニューヨークにいるだろうワタルにこっそりと同情した。


 暴れないでよ、とまるで暴れたことがあるみたいな物言いでミナは催眠術を諦めたらしかった。そのまま愛用のノートパソコンを取りに行き、犬に待てをするみたいに手の平で制する。これはミナじゃなければ殴っていたと思う。


 ミナのノートパソコンは持ち運びに便利な小型で、メタリックなデザインが格好良い。CMで見るような画素数や薄型を売りにしていないそれは、昔ながらの職人みたいに見えるのだ。


 ノートパソコンを抱えたミナが、ダース・ベイダーのテーマソングを口ずさむ。微妙にリズムが狂っているところが最高に腹立たしかった。




「Look at this!!」




 そう言って、ミナはコーヒーテーブルにノートパソコンを開いた。翔はソファから身を乗り出し、激しく後悔した。




「テメェ!!」




 拳骨を落としてやろうと思ってミナに手を伸ばしたが、予想していたのか躱された。ネズミみたいに立花の後ろに隠れたので、怒りのままに「卑怯者!」と怒鳴った。


 立花の後ろから顔を覗かせて、ミナが不満そうに口を尖らせる。




「やっぱり、暴れたじゃないか!」

「うるせぇ! 悪趣味だぞ!」




 翔はノートパソコンを指差した。出来ればもう見たくなかった。其処に映っていたのは、一見すると赤い写真である。画素数が低いせいでよく見ないと分からないのだが、それは何かの生き物の惨殺死体だった。


 昼食のチキン南蛮が出て来そうだ。翔は口を押さえ、ノートパソコンを立花に向けてやった。




「気持ち悪ィ写真だな」




 そう言いつつ、立花は眉一つ動かさない。

 職業柄、耐性があるのかも知れない。




「何の写真なんだ?」

「Think dog」




 ミナが犬の物真似をして吠えた。

 馬鹿にされているとしか思えない。


 悪趣味過ぎてミナらしくないということに気付いたのは、彼がノートパソコンの元に戻って来た時だった。そのままキーボードを叩くと、似たようなスプラッタ写真が現れて血の気が引いた。


 そういえば、以前も同じようなことがあった。そういう趣味もあるのだろうと思って指摘せずにいたのがあだになった。まさか、それを他人に強要するとは思わなかったのだ。




「……そういうの、好きなのか?」

「そんな訳無いだろ」




 恐る恐ると問い掛ければ、ミナが叩っ切るみたいに否定した。何なんだ。じゃあ、以前の自分の配慮は全くの無駄だったというのか。


 ミナはキーボードから手を離し、振り向いた。濃褐色の瞳は吸い込まれそうに透き通っている。




「思い出さない?」

「何を」




 ミナの瞳は、まるで自分を観察しているようだった。呼吸や瞬きの一つさえ見逃さないとばかりに見詰められ、翔は状況の意味不明さに目眩めまいがした。




「君のお父さんとお母さんは、こうなってた」




 その瞬間、肌一面が粟立あわだった。寒気が足元から立ち上り、脳天を突き抜ける。咄嗟に口を押さえ、トイレに向かって走った。扉を開ける直前に胃液の臭いが鼻を突き、便器を抱えた時には昼食を全て嘔吐おうとしていた。


 体は冷え切っているのに、冷や汗が止まらない。耳の裏で拍動が聞こえた。吐瀉物の上に黄色い胃液が溢れて、独特の異臭に生理的な涙が滲む。


 激しく咳き込んでいると、背中を撫でられた。

 涙で歪む視界に、コップを持ったミナが映った。翔はそれを受け取ると、一気に飲み干した。全力疾走した後みたいに体がだるかった。


 ミナに支えられながらソファに戻ると、立花が呆れた顔をしていた。




「お前、伝え方ってもんがあるだろ……」




 内心で強く同意しながら、翔はソファに倒れ込んだ。









 8.地獄巡り

 ⑵不確定要素










「チキン南蛮を作っている時から、嫌な予感がしてたよ」




 立花はそんなことを言って、煙草に火を点けた。翔も確かに珍しいとは思ったが、そんな訳の分からないサプライズが成されるなんて予想出来なかった。


 ノートパソコンは閉じられている。

 ミナはトイレの水を流してから、回転椅子に腰を下ろした。




「退行催眠の方が良かったでしょ」

「違ぇ。絶対にそこじゃねぇ」




 伝え方を迷ったのは分かるが、直前のギャグみたいな遣り取りが蛇足だそくだったのだ。それなら最初から深刻な顔で前置きをして欲しかった。




「お前の父親と母親、内臓引き摺られたのか?」




 立花も非道な訊き方をする。

 そんなの分からない。翔は頭を抱えた。家の中が血塗れだったことは覚えているが、どんな風に死んでいたかなんて。


 答えられない翔に代わり、ミナが言った。




「現場写真は真っ赤だった。家の中が血塗れになるような殺害方法は限られてる。奥さんは下腹部を切り裂かれて、食道まで露出してた。成人の腸は8mくらいあるのに、変じゃないか」

「……分かった、もういい」




 顔色悪く、立花が首を振った。

 ミナはどうしてそんなに可愛いのに、頭がいかれてるの?

 多分、感性が違うんだろう。翔はそう結論付けて、ミナに向き直った。




「なあ、それって、砂月も?」




 訊くのが怖い。だが、逃げてもいられなかった。

 両親は惨殺された。頭のおかしい猟奇殺人鬼が起こした事件なのだろう。ならば、妹はどうなったのか。そして、どうして自分は無事なのか。


 立花が尋ねると、ミナが「ショウの妹」と答えた。

 居心地の悪い沈黙の中、ミナは膝の上で手を組んだ。




「君の妹さんはね、心臓を刺されてる。凶器はご両親を殺害したのと同じ、刃渡りの長い包丁みたいなものだと思う」




 ミナは立ち上がると、パソコンを起動した。先程のスプラッタ写真はもう現れない。その代わりにデフォルメされた人体模型が映った。




「ドラマなんかでよく心臓を一突きって言うけど、人の心臓は24本の肋骨と胸骨に守られてるから実際は難しいんだ。それでも心臓を狙うなら、刃は地面に対して平行にするか、馬乗りになって肋骨の隙間から突き刺すしかない」




 生きている相手の心臓を狙うのは簡単なことじゃないのだ。妹は押さえ付けられて刺されたのだろうか。想像すると怒りが炎のように燃え広がって、居ても立っても居られなかった。




「俺が考える可能性は二つ。自分でやったか、やり返されたか」

「……どういうことだよ」




 ミナは困ったように唸ると、立花の机に向かった。抽斗ひきだしから引き抜いたのは、15cm程の古いプラスチックの定規だった。




「見てて」




 ミナはそれを逆手で握り、自分の右胸に向けて当てた。刃は確かに地面に対して平行で、肋骨には当たらない。


 次に、ミナは立花の手を借りた。ミナが定規を向けると、立花は赤子の手をひねるが如く片手でなした。定規の先はミナの心臓に狙いを定め、地面に平行に向けられている。


 それは、つまり。

 翔は震えを誤魔化すように手を握った。




「自殺したか、誰かを刺そうとして、返り討ちにされたってことか……?」




 声は掠れていた。


 ミナは人体模型の映像を消して、パソコンを閉じた。シルバーの外装は新品みたいにピカピカだった。室内灯の白い光を反射し、それは滑らかに輝いている。




「この事件は普通の事件じゃないよ。君の家族は異常な状態で殺害されているのに、捜査された形跡が無いんだ。当然、司法解剖もされていない。俺のデータはミアが警視庁からハッキングしたものだしね」

「……なんで」

「Ah, 警察組織ってスキャンダルを過剰に恐れるだろ? 君のお父さんは警察官だった。組織が揉み消しに動いても不自然じゃない」

「警察は何で捜査しなかったんだ? 今のこいつはどういう立場なんだ?」




 立花は煙草の先を翔に向け、訊ねた。

 ミナは顎に指を添え、俯いた。




「分からない。指名手配にはなっていないみたいだけど……」

「使えねぇな」

「Are you looking for a fight?」

「おー、やってみろや」




 立花が軽く笑って、煙草を消した。

 話題は唐突に切り替わり、二人は地元のスーパーの値上げについて熱く論議を始めた。話を逸らされたのだろう。追及するべきなのか分からず、翔はソファから立ち上がり、うがいをする為に給湯室へ向かった。

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