⑴道端の花
銅色の鐘が鳴る。
古びた喫茶店の扉を押し開けた瞬間、芳ばしいコーヒーの香りと煙草の臭いが鼻を突く。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから壮年の店主が言った。ミナは返事の代わりに会釈を返した。カウンター席に一人の青年が座っている。
白い襟付きのシャツにグレーのセーター、ビンテージのデニムに飴色の革靴。ニューヨークで見掛けそうな瀟洒な出で立ちは、ほっそりとした彼によく似合っていて、嫌味が無かった。
「よぉ、ミナ」
エメラルドの瞳が此方を見て、眩しそうに細められる。変わらない彼の姿に、ミナはほっと息を吐き出した。
煙草を燻らせながらコーヒーを飲む姿がやけに様になっている。ミナは隣に腰を下ろし、日替わりのコーヒーを頼んだ。
玩具みたいなコーヒーミルから小気味良い音がする。
エメラルドの瞳の青年――ノワールは、口角を釣り上げて笑っていた。
「誕生日だったんだってな。遅くなったけど、おめでとう」
カウンターに置かれたのは、真っ白いタンブラーだった。見覚えがあると思ったら、店頭で販売されている品だった。包装すらされていないというのがノワールらしくて、ミナは礼を言って受け取った。
滑らかな稜線を人差し指で撫でる。保温機能が付いているようだったので、ミナは店主に声を掛けてドリップコーヒーをタンブラーに淹れてもらうように頼んだ。
「いくつになったんだ?」
「Eighteen」
「思ったより大人だったな」
ミナは笑った。よく言われる。
どうやら自分は中性的で童顔らしい。初対面の翔も少女だと思い込んでいたようなので、ミナにとっては笑い話だ。
「Thank you for the other day」
「どういたしまして。……お前って、英語と日本語どっちが話し易いの?」
「Ah, 相手による」
隠し事をしても無駄だと、何となく思った。
ミナが素直に答えると、ノワールは曖昧に相槌を打った。
気を遣われたことは分かったので、ミナは日本語に切り替えた。
「ソーイングマンの動機について、ノワールの意見を訊きたい」
ノワールは笑った。
彼は、駆け出しの殺し屋らしい。ミナは彼の素性を尋ねたことも無かったし、どんな生活をしているのかも訊いたことも無かった。立花という存在を知らなければ、危険を感じて離れただろう。
ノワールは殺し屋で、人の命を奪う人間だ。
だけど、ミナにとっては、この国で初めて出来た友達だった。気を許すのにそれ以上の理由は必要無かった。
コーヒーカップを片手に、ノワールは少しだけ笑った。
「あいつ、楽しんでただろ?」
「楽しんでた?」
「あれはオナニーだよ。俺等が冷凍庫に追い詰めた時、あいつ勃起してただろ?」
ノワールの言っていることはよく分からない。横目で捉えた店主の顔が嫌そうにしていたので、此処で話すようなことではないのだろうと察した。
「ターゲットを、自分と同じ人間と考えてなかった。物扱いだ。……偶にいるんだよ、そういういかれた奴が」
ミナは頷いた。
人間に限らず、生命は種の存続の為に行動を起こす。その結果として何か別の命を犠牲にしてしまうこともある。だが、この社会には生存戦争に関わらず、他の命を搾取する為だけに生きる捕食者が存在する。
臨床心理士の祖父が論文に書いていた。
彼等――サイコパスとは、社会における捕食者であると。
そして、彼等の思考を理解することは難しい。
ミナは携帯電話を取り出した。ロックを掛けたフォルダの中から一枚の画像を表示し、ノワールに手渡した。彼は眉間にぎゅっと皺を寄せた。
「なんだァ、こりゃあ……」
ノワールの反応は、尤もだった。
ミナが見せたのは、所謂、スプラッタ画像である。人間ではないが、本物の惨殺死体だった。
原型を留めていないので厳密には分からないが、恐らく小型犬だろう。鈍器のような物で頭部を潰し、抵抗が出来なくなったところで腹部を鋭利な刃で切り裂き、内臓を引き摺り出している。血液の飛び散った量から判断出来るのは、それは生きながらに内臓を抉られ、四肢を切り落とされたのだということだった。
ノワールは顔を顰めつつ画面を見詰めていた。こんな唐突な話にも真面目に考えてくれる彼の誠実さが嬉しかった。一人で抱え込むと誤った答えを出してしまいそうだったから、相談出来る第三者の存在は有りがたい。
「これ、生きたままやってるだろ」
「多分」
「……」
ノワールは嫌なものを見てしまったと言わんばかりに携帯電話を伏せ、煙草に火を点けた。ミナは携帯電話の画像を閉じ、ポケットに戻す。ノワールは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「変態だな」
「ヘンタイ?」
「関わるべきじゃねぇ。それをやった奴は、頭がおかしい。異常者だ。生きたまま内臓引き摺り出してんのも気持ち悪ィけどよ、その犬、首輪付いてんだろ?」
どろりとした不快感が胸の中に流れ込む。
ノワールは苛立ったように灰皿を煙草で叩いた。
「首輪付けてるってことは、飼い主がいるんだろ。そういう小型犬は家の中で飼うんだよ。誰がやったか知らねぇが、飼い主なら薄情者だし、そうじゃないのなら……」
ノワールは口を噤んだ。エメラルドの瞳はカウンターの向こうを見ている。
こんなところで話すような内容ではない。ミナは視線の意図を察し、話題を変えた。誕生祝いに立花が用意してくれた手巻き寿司の話をしていると、ノワールが蕩けそうな優しい眼差しをした。
「お前はそうやってるのが、似合うよ」
「どういうこと?」
ノワールが笑うと、口元から尖った犬歯が覗く。その笑顔を見ていると、肩の力が抜ける。
話せて良かった。聞いてもらえて良かった。例え、それが自分の望んだ答えではなくても、誤った道を突き進むよりはずっと良い。
「お前は平和な世界で笑ってろ」
それがノワールの優しさで、誠実さだと知っている。
自分が逆の立場なら、同じことを言った。パンドラの箱をあえて開ける必要は無いのだ。
「その時は、ノワールも一緒だ」
ミナが言うと、ノワールは微笑んだ。
自分達は、互いの本名も素性も知らない。
いつか彼が役目を終えて立ち止まる時、肩を並べられたら良い。互いの健闘を称えて、笑い合えたら良いなと、切に思った。
8.地獄巡り
⑴道端の花
クリスマスを終えると、年末の空気が一気に強くなる。街中に設置されたイルミネーションにも正月飾りが見掛けられるようになり、和洋折衷の風景は吐瀉物のように無秩序だった。
寒風の吹き荒ぶ昼下がり、ミナが紙袋を下げて帰宅した。
散々な誕生日を終えた後もニュートラルな態度は変わらない。誰の入れ知恵なのか「年齢制限が解禁された」と下衆なことを言っていたが、厚手のダッフルコートを纏うミナは中学生くらいに見えたので放っておいた。
紙袋の中身はコーヒー豆らしかった。何処で買って来たのか見たことのない店のロゴが入っている。雪みたいに真っ白なタンブラーを片手にする姿が小癪だ。
ミナは幸村法律事務所に行くと言った。コーヒー豆は手土産らしい。先日の箱詰めプリンといい、ミナのセンスは育ちの良さを感じさせる。弟のワタルは如何にもやんちゃ小僧だったが、どんな家族なのだろう。
事務所を襲撃された事件以来、幸村には会っていない。あの後、どんな遣り取りがあったのか分からないが、この事務所に警察の手入れが無いということは通報しなかったのだろう。
特にやるべきことも無かったので、翔は付いて行くことにした。
幸村法律事務所の玄関には、テンプレートみたいな正月飾りがあった。スタイリッシュな事務所に見合わない、微妙にダサいところが翔には好印象だった。
ミナが受付で体育会系みたいな挨拶をした。受付嬢はおかしさを堪えたような顔で、促してくれた。恐らく彼女も、目の前の子供が18歳の男子とは思わなかっただろう。
以前通された応対室で待っていると、何処となく覇気のない幸村がやって来た。年末年始は忙しいのだと言っていた。真実は翔にも分からない。
「お正月はどうするの?」
他愛のない世間話だった。
幸村に話を振られて、翔は隣のミナを見遣った。
この頃は英語が抜けて来て、日本語での会話が増えた。幸村に対しても、最早隠す気が無くなったらしく、英語混じりの日本語で会話していた。
「幸村さんは?」
ミナは答えずに聞き返した。
質問されたことすら忘れそうな上手いタイミングだった。その少年は会話術に優れている。
幸村は答えた。
「実家に帰ろうと思ってるの」
「ご実家はどちらに?」
「秋田よ。分かるかしら。日本列島の上の方」
東北の生まれだったのか。
確かに幸村は色白の美人だ。そんなことを考えていると、ミナがソファの上で跳ねた。
「アキタ! 行ったことあるよ! 湖の上に花火が上がるんだ! それが水面に映って、夢みたいに綺麗だったよ!」
急にスイッチが入ったみたいに、ミナがはしゃいだ。
田沢湖の龍神祭だと、幸村が教えてくれた。それなりにメジャーな祭りらしい。
花火大会に、誰と行ったのだろう。まさか立花がそんな人で溢れた場所に行って花火を眺めて喜ぶとは思えない。
翔の視線を察したミナが、にこにこと答えた。
「家族で行ったんだ。親父と弟と、山登りをしたよ。Ah, コマ……。何だっけ」
「駒ヶ岳かしら。有名だものね」
ミナの口から家族の話が聞かれるのが、何となく嬉しかった。秘密主義者なのか事情があるのか、ミナは余り自分の話をしない。
話しても良いと判断したのか、翔や幸村を信用したのかは分からない。だが、家族の話をするミナは年相応で、微笑ましい。
「ナイトハイキングをしたんだ。山の中はすごく静かで、登っている筈なのに、まるで潜水艦で海の底へ何処までも潜っているみたいで不思議な感覚だった」
ミナは意外と感受性が高い。夜の山なんて遭難しそうでぞっとするけれど、語られる内容は明るく、楽しげだった。
「弟と競って歩いていたら、どんどんペースが早くなるんだ。でも、先を歩いている親父の背中を見ると、自分のリズムを思い出す」
山頂で飲んだ紅茶、草原に寝転んで見上げた満天の星。
ミナの口から語られる家族の思い出は、温かくて、優しくて、綺麗だった。ミナが家族をどれだけ大切に思っているのか伝わって来るようだった。
愛されて来た子なのだろう。望まれ、慈しまれ、大切にされて来た。だから、同じように出会う人に親切にする。こんな世界でなければ、たくさんの友人を得て、充実した人生を送っていたのだろう。
「親父は格好良いよ。俺のヒーローだ」
父親も誇らしいだろうな。親の手を離れた息子が変わらず慕ってくれているのだから、嬉しくて堪らないだろうし、可愛いだろう。
ミナの父はニューヨークの大学病院に勤める精神科医だと聞いたことがある。医者は貧弱なイメージがあったが、そうではないのかも知れない。
幸村は目を細め、ミナの話に聞き入っていた。
彼女はミナが心配なのだ。事務所が襲撃された時も、銃声を聞き付けて危険も顧みず駆け付けてくれた。
一頻り話し終えると、ミナは照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
生温い空気が漂ったところで、翔はずっと気に掛かっていたことを尋ねた。
「あの時、襲撃して来たのは、アンタの知り合いだったんだろ?」
デリケートな話題に、空気が変わる。だが、訊くタイミングは此処しかないと思った。幸村は机の上で手を組んで、何かを見詰めるように天井を見上げた。しかし、其処には白く光る蛍光灯があるだけだ。
幸村は視線を戻すと、意を決したように口を開いた。
「……昔、検事をしていたことは話したわよね?」
翔は頷いた。
それももう随分と昔に思える。幸村は溜息を一つ零すと、言った。
「悪質な児童買春グループがいてね、それを摘発したのよ。家出少女とか、拉致された学生とか、被害者達はマンションの一室に閉じ込められて、客を取らされてた。……近所からの通報で犯人グループが捕まったんだけど、その中に議員の息子がいて、立証が難しかった」
幸村の声は暗く淀んでいた。
隣のビルに住む立花という謎の男と、学校に通っている様子も無いミナは、彼女の目にどのように見えただろう。
ミナを助けに行く時、翔は上手い言い訳が思い付かずに家出だと言った。その時、幸村はどんな心地だっただろう。
「立証する為には、被害者からの供述が欲しかった。だから、私は或る女の子に頼んで、被害の内容を告白してもらったの」
「……それは」
ミナが口を挟んだ。だが、その先は言わなかった。
分かってる。当時の検察側は、焦っていたのだ。一刻も早く犯人を捕まえなければ逃げられる。新たな被害者が出る。
その差し迫った状況で、正義や悪なんて言葉に意味は無かった。
「被害者の供述で、犯人グループは全員捕まえて、実刑判決を受けた。勝ったと、思ったの。これで皆、救われるって」
幸村は目を伏せた。
「それから半年くらいして、何処からか被害者の名前が漏れたの。出所は今も分からないわ。でも、ネットでも誹謗中傷を受けて、その子は自殺した。……あの日、襲撃して来たのは、その子の父親だった」
胸が痛かった。
遣り切れない話だ。
幸村が間違っていたとは思わない。それだけ、状況は追い詰められていたのだろう。被害者の名を流出させた何者かに悪意があったのかも分からないし、果たしてこの展開を何処まで想定すれば防げたのだろう。
父親は思っただろう。
被害者である娘が振り絞った勇気が、犯人を捕まえた。だが、警察は娘を守ってくれなかった。
自分を責めただろう。あの時、止めておけば良かったと。
後悔と悔恨の末、その矛先が幸村に向いたとしても、翔にはそれを責められなかった。
ミナの弟、ワタルが言っていた。
兄が殺されたら、俺は絶対に犯人を許さない。この世で一番残酷な方法で殺す、と。きっと、その父親もそうだった。
あの時、銃を握った父親の覚悟を思うと、もう誰を責めたら良いのか分からない。警察組織というものは強大で、敵に回すのは余りにも非現実的だった。強引な手段を選んだ幸村か、勇気を振り絞った被害者か、守り切れなかった父親か。誰を責めたら、誰を恨んだら、誰を憎んだら良い。
「被害者の女の子が自殺してから、検事を辞めたの。せめて、私は守れる人になりたかった」
あの日の自分を、被害者を、救ってやりたい。
幸村はきっと、その一心で弁護士になった。
湿っぽい空気を振り払うように、幸村は席を立った。
「ミナちゃんが持って来てくれたコーヒー、淹れてもらって来るわ。美味しいお茶菓子もあるの」
明るさを繕う彼女は痛々しかった。
どんな人間にも傷はあり、それを癒す万能薬は存在しない。ならば、せめて、その痛みを和らげてやれたら。
「どんな地獄にも花は咲くよ」
ミナが言った。
聞き覚えのある言葉だった。ミナは事あるごとにその言葉を口にする。希望と労りに満ちた優しい祈りだった。
扉が閉じる寸前、幸村が振り向いて笑った。
向日葵みたいな満面の笑みだった。だが、翔はその裏で傷を負って来た人間であることを知っている。
扉が閉じる。
二人きりの部屋の中、ミナは何かを考えているみたいにずっと無言だった。