⑶ゲーム
青年は、ワタルと名乗った。
ミナの兄弟で、ニューヨークに住んでいる大学生らしい。筋骨隆々とは言わないが鍛えられた体付きをしていたので尋ねてみたら、バスケットボールをしていると教えてくれた。日本語は苦手らしく、身振り手振りを添えて懸命に説明する様は、如何にも御人好しに見えた。
午後十時を過ぎてもミナは帰宅しなかった。
流石に心配になって、翔はワタルを連れて事務所を出た。途端に凍えるような風が吹き付けて、凡ゆる気力を削いで行く。
ミナの行先に心当たりが無かったので、とりあえず駅前へ向かうことにした。ウィローという名のドブネズミを追い掛けているか、桜田のいる交番か、隣のビルにある幸村法律事務所か。そのくらいしか、翔には思い付かなかった。
ダウンコートに顎を埋め、クリスマスイブに沸き立つ繁華街を歩いた。すれ違う人々の顔付きは明るく、まるで天国にいるかのように浮かれていた。
酩酊する人々が衝立みたいに突っ立っていて、思うように進めない。衝突すれば眉を寄せ、振り返れば惚ける。彼等の視線は隣の青年に吸い寄せられていた。
何しろ、端正な顔付きの青年である。
天使のような顔をしたミナと兄弟というのも頷ける。顔だけで一生食って行けそうだった。その上、背が高く筋肉質で、バスケットボールをしているらしい。神は二物を与えないというが、彼等に関しては依怙贔屓をしたのだろう。
黒いロングコートには皺一つ無く、細身のジーンズと柔らかな色合いのセーターがとても良く似合っていて、元々良いスタイルが更に引き立てられている。大学生らしいが、大人びた雰囲気は年齢以上に落ち着いて見えた。
ワタルは周囲の視線を煩わしそうにしていたが、蔑ろにはしなかった。声を掛けられると困惑したようにたじろいで、拙い日本語で応えていた。素性の知れない翔に対しても不審そうにしていたが、決して適当に遇らわなかった。真面目で誠実な人柄が見えるようだ。
ミナのことを訊いてみたかったが、英訳が出来ないので諦めた。ワタルは繁華街の下品なイルミネーションを興味深そうに眺めながら、器用に人の間を縫って歩いていた。
駅前の交番を覗くと、桜田が酔っ払いと怒鳴り合っていた。恫喝的な大阪弁は中々に迫力がある。ミナはいなかった。
次はどうしようか、と途方に暮れていたら、ワタルが言った。
「Where did you meet Minato?」
「あ?」
「Ah, 知り合いなんだろ?」
ワタルは翔を指差し、辿々しく言った。
他人を指差すことが失礼に当たるのは万国共通だとミナが言っていたけれど、別に翔は不快には感じなかった。
「夜の公園で焼き芋食ってて、分けてくれたんだ」
「コウエン? ヤキイモ?」
「あー、もう!」
出会った頃のミナみたいだ。
こんなことなら、あの時にもっとちゃんと勉強しておけば良かった。そんなことを思ったら、丁度、コンビニに焼き芋の幟旗が見えた。翔が指差しながら説明すると、ワタルは合点行ったらしく頷いた。
元々勘が良いのか、夜の公園も伝わったらしい。
ワタルは口角を釣り上げて、皮肉っぽく言った。
「大きい方、くれただろ?」
「ああ、うん」
ワタルは苦笑した。
昔からそうだったのだろうな、と翔は思った。献身なのか自己犠牲なのか分からないが、ミナは初めて会った時からそうだった。
ミナを怒らせてしまった自覚と罪悪感が暗雲のように胸の中に立ち込めて、遥々来日してくれた兄弟にも会わせてやれない自分が不甲斐なかった。
「ごめんな」
罪滅ぼしのつもりで謝罪すると、ワタルは猫のような目を瞬いた。懺悔なんてものは自己満足だ。だけど、この聖なる夜に血の繋がった兄弟が会えないなんて、余りにも不憫じゃないか。ましてや、それが自分のせいだなんて。
「実はさっき、ミナを怒らせたんだ。それで、出て行っちまった」
ワタルは笑っていた。
全然気にしてなさそうな、それどころかミナを怒らせた翔を褒めるような明るい笑い方だった。
常識的で、真面目そうで、物腰も穏やかな青年である。その上、誰もが振り返るような端正な相貌で、体躯にも恵まれている。非の打ち所がない完璧な美青年に、翔は自分が隣に並んでいることすら申し訳なく感じられた。
兄弟ということは、ワタルは兄なのだろう。苦労をして来たのだろうし、心配もしているだろう。一刻も早く、ミナに会わせてやりたい。
駅前の噴水広場、人気の無い公園、ビルに挟まれた裏路地。ミナとの思い出を辿るように行方を探したが、その姿は何処にも見付けられなかった。トラブルにでも巻き込まれているんじゃないかと思うと気が焦り、自然と早足になる。手の平に汗が滲み、翔は焦燥感と共に握り込んだ。
ワタルは暫く黙って歩いていたが、思い出したみたいに足を止めた。
「レンラク、出来ないの?」
言われて初めて思い至り、翔はポケットに押し込んだ携帯電話を取り出した。
互いの位置情報を表示するアプリがある。タップすると、地図上にミナの現在地が赤い点となって表示された。場所は立花の事務所である。すれ違ってしまったらしい。
体中から力が抜けて、翔はその場に蹲み込んだ。
安堵感に包まれて、頭の中が真っ白だった。無事で良かったが、これまでの自分が馬鹿みたいに思えて腹立たしかった。
「事務所に戻ってるらしい。すれ違ったんだ」
翔は立ち上がると、携帯電話をポケットに戻した。こんなことなら、もっと早く連絡すれば良かった。
ワタルは穏やかに、口元を綻ばせた。安心したようにも見えるけれど、何となく、彼はそれを予期していたみたいだった。
帰ろうか、と翔が言えば、ワタルは頷いた。
事務所に戻って、ミナがまだ怒っていたらどうしようか。兄貴に会ったらそれどころじゃないか。
はなればなれだった兄弟の再会を想像し、翔は早足で帰路を辿った。
7.ツナグ
⑶ゲーム
綿のような息が白く浮かび上がる。
ミナは悴む指先を擦り合わせた。繁華街の喧騒と車のクラクションが遠くに聞こえる。腐臭の漂う路地裏は薄暗かった。
事務所に戻ったら、まずは翔に謝ろう。
ミナとしては喧嘩をしたつもりも無いし、怒ってもいなかった。予想していないタイミングで翔が帰宅するものだから驚いて、誤魔化す為の上手い言い訳が思い付かなくて、怒ったふりをして離脱しただけのことだった。
こんなことなら、GPSにアラームを付けて、接近した時に気付けるようにするべきだった。自分の不注意と見通しの甘さだと思った。
見られただろうか?
すぐに画面を切り替えたが、不自然だっただろう。あの真っ赤な写真を、翔はどのように捉えた?
ミナはそれだけが気掛かりだった。
事務所の前に差し掛かった時、聞き覚えのある声がした。懐中電灯を片手に、制服を着込んだ警察官が二人歩いていた。ミナは咄嗟に建物の影に身を隠した。
独特の訛りが聞こえる。帽子のせいで顔はよく見えないが、その声は駅前の交番に勤務する桜田だった。界隈で起きた事件の為にパトロールが強化されたのだろう。
顔見知りであるからこそ、見付かる訳にはいかなかった。
時刻を考えると、この国では補導される。迎えに来てくれる保護者はいないし、調べられたら立花や翔のことまで怪しまれる。
息を潜めて、懐中電灯の明かりが遠去かるのを待った。
頭がぼんやりした。睡魔なのか疲労なのか判断も付かないけれど、早く帰って、寝たい。
「ミナ」
後ろから声を掛けられて、心臓が飛び出すかと思うくらい驚いた。振り返ると、眼帯を付けた立花がコンビニ袋を下げて立っていた。
ミナはほっと息を吐き出した。既に桜田達の姿は無い。
路地裏から通りの様子を伺っていると、立花が呆れたように息を吐いた。
「帰ろうぜ」
うん、とミナは頷いた。
事務所は明かりが消えていた。節電の為にエアコンは点いておらず、室内とは思えないくらい寒かった。立花は明かりを消したまま窓辺へ行き、ブラインドの隙間から外の様子を伺っていた。
ミナはポケットに入れていた携帯電話を取り出して、翔の現在地を確認した。どうやら駅前の方にいるらしい。
接近した時に分かるようアラームを設定する。ミナが携帯電話から顔を上げると、立花の金色の瞳が見詰めていた。
「仕事を頼みたい」
その声は無感情に低く、冷たい。
言葉は相談に近いが、口調は命令に似ていた。断れないことは分かっていたし、そのつもりも無かった。ミナが頷くと、立花は言った。
「この辺で起きている殺人事件のことを調べてくれ」
「分かった」
「犯人は殺す」
それは、立花が受けた依頼なのか。それとも、ハヤブサか。
どちらにせよ、やるべきことは変わらない。語られないことまで詮索する必要は無い。
「期日は?」
「早ければ早い方が良い。殺し屋界隈で、誰が犯人を殺すか競争になってるんだ」
「悪趣味だね」
「犯人よりはマシだ」
どっちもどっちだ。
悪態吐こうとしたタイミングで欠伸が出た。時刻は午後十一時半。翔が帰って来ないのが気に掛かるが、眠くて堪らない。
明日でも良いだろうか。
ミナが尋ねる前に、立花が言った。
「裏じゃ、誰が犯人を殺すのか賭けも行われてる。駆け出しの殺し屋にとっては名を挙げるチャンスだ。彼方此方からこの街に殺し屋が集まって来るぞ」
「何でレンジは参加するの?」
「俺だってこんな面倒なことはやりたくねぇが、新人に好き勝手やられちゃ規律が乱れんだよ」
名が知られているというのも考えものだ。
そもそも、ハヤブサは暴走しがちな同業者の抑止力でもあるらしいし、仕方がないのだろう。
「懸賞金も出てるし、国家公認の殺し屋も動くぞ」
「ペリドットも?」
「さあ、知らねぇ」
ぞっとする話だ。
猟奇殺人だけでも恐ろしいが、それを狙った殺し屋が集まって来る。国家公認の殺し屋が動くということは依頼元は国家だろうし、相当な手練れがやって来る。
ペリドット――。
下水道で対峙した金髪碧眼の殺し屋。人間離れした身体能力を前に、自分は成す術も無かった。あのレベルの殺し屋がやって来るとしたら、果たして自分に何が出来るのだろうか。
取り掛かるのに早過ぎるということは無いのだろう。
眠くて堪らないし、今の自分のパフォーマンスは低いだろうけれど、何もしないよりはマシかも知れない。不幸や悲劇というものは此方の事情も構わず、自然災害のように不条理にやって来るものだ。
「今すぐやるよ」
「そうしろ」
「俺の背が伸びなかったら、レンジのせいだからね」
立花が鼻を鳴らすように笑った。
相変わらず、笑いどころがよく分からない人だ。
ミナは欠伸を噛み殺し、パソコンに向かった。
 




