⑶路地裏の死神
口の中は血で一杯だった。
吐き出す間も無く頬を打ち付けられて、翔はコンクリートの壁に衝突した。
頭が痛かった。鉄の箍でも嵌められているみたいに締め付けられている。自分の拍動がやけに大きく聞こえて、視界がぐにゃぐにゃと歪んだ。喘鳴が遠くに聞こえる。肺に穴が開いているみたいに胸が痛い。
「ガキは何処に行った?!」
「さっさと捕まえろ!」
あのガキは、まだ捕まっていないらしい。
翔は拳を握った。自分の体が限界で、意識を保っているのもギリギリなのだと分かった。それでも、此処で諦める訳にはいかなかった。
此処で立ち上がれなかったら、もう自分は何処にも行けないという脅迫めいた確信があった。
家族を亡くしたあの日から、自分は独りきりだった。誰にも必要とされず、見向きもされず、名前を呼ばれることもなかった。
どうせこの世は欠陥だらけの欠陥品そのものなのだ。幾ら願っても、祈っても、縋っても何も変えることは出来ない。
この街は人で溢れているのに、誰も振り向かないし、手を伸ばしはしない。誰にも認められず、労られず、悼まれない。自分を必要としてくれる人なんていないし、期待もしていなかった。
だけど、あの子だけが。
あの子だけが、名前を呼んでくれた。
手の平の感覚が無かった。
体中の気力を掻き集めて、翔は拳を振り抜いた。がなり声を上げる金髪を殴り飛ばした時、糸が切れたみたいに体が動かなくなった。
視界が白く滲む。アスファルトの上に崩れ落ちたまま、翔はそれでも頭上の男を睨んでいた。
男達が何かを叫んだ。
翔には最早、聞き取ることが出来なかった。
「ショウ!」
酷い耳鳴りの中、その声はまるで夜明けを告げる鐘の音のように響き渡った。
薄暗い路地裏に小さな影が躍り出る。鋭い蹴りが金髪の男の側頭部を捉えて振り抜かれる。その横顔を見た時、目頭が燃えるように熱くなった。
「馬鹿、野郎……!」
明るい未来が約束されているような、恵まれた子供だった。誰もが振り向き、助けたいと願い、振り向いて欲しいと祈るような違う世界の子供だ。
「どうして……、どうして!」
逃げろと言った。その子が助かればそれで良かった。その為だけに拳を振るい、勝てない喧嘩を買って、自己犠牲なんてらしくもないことをしたのに。
「どうして、戻って来たんだ!!」
その子供は、微かな月明かりの下で確かに笑ったのだ。
「また会おうって、約束したから」
翔を庇うように立ち塞がり、その子供は言った。
「一度別れたら、また会えるとは限らないでしょ?」
その子供は、泣き出しそうに笑った。
胸が締め付けられるように痛くなる。
氷が溶けるように、涙が溢れた。
「You guys are all morons」
取り囲む男達を睨み、子供が吐き捨てる。
意味は分からなかった。だが、許しを乞うているはずもない。
激昂した男達が津波のように押し寄せて、拳を振り上げる。湯が沸き立つような興奮状態の最中、その子供だけが場違いに冷静だった。彼等の動作一つ一つを予測していたみたいに躱して行く。
「ぶっ殺してやる!!」
激怒に染まった怒声が迸る。
鋭利な刃が、月光を反射するのが見えた。
「逃げろ!!」
翔が叫んだ時、刃は既に子供の頭上にあった。
もう誰も間に合わない。そのナイフは無慈悲に肉を裂き、子供の命を奪う――はずだった。
空気の抜けるような奇妙な音が聞こえた。時が止まったかのような異様な静寂に包まれる。金髪の男の体がぐらりと揺れて、そのまま、倒れた。
誰も動けなかったし、誰も何も発しなかった。
アスファルトに倒れた金髪の男は、ぴくりとも動かなかった。
誰かが尻餅をついた。
アスファルトに赤い染みが広がって、路地裏はパニックに陥った。
地を揺らすような悲鳴が轟く。
誰かが叫んだ。
死んでる、と。
金髪の男は動かない。
路地裏を埋め尽くしていた男達は一斉に逃げ出した。まるで、化け物にでも遭ったみたいに。
顳顬がじくじくと痛む。
真っ赤な記憶がフラッシュバックする。
混乱と動転の中、乾いた足音が静かに響いた。
「お怪我はありませんか、お姫様?」
若い男の声だった。
それは真っ黒な影に見えた。街の灯に照らされたその男は、小さな子供の前に歩み寄ると、微かに笑ったようだった。
金髪の男は動かない。握られていたナイフはアスファルトの上に投げ出され、虚しく月明かりを映している。
死神は爪先で死体を蹴ると、此方を向いた。
途端、背筋が凍った。
金色の双眸が此方を見ている。
それは窮地にやって来たヒーローでもなければ、姫を助けに来た騎士でもない。まるで、血に飢えた獣のようだ。
血と火薬、煙草の臭いが鼻を突く。
本能が逃げろと叫んでいる。殺されるぞ、と。
非現実的な光景の中、翔の視界は銀色の砂嵐に包まれてしまった。
1.宴安酖毒
⑶路地裏の死神
包丁が俎板を叩く音が小気味良く響いていた。
他愛も無い一日になる筈だった。
台所で母が夕食を用意していて、少し早く帰宅した父がリビングで新聞を読んでいる。退屈なニュースはBGMのように通り抜けて行って、自分は温かいベッドで朝を迎える。
だけど、日常なんてものは些細なきっかけで崩れ落ちて、狂い出した歯車は二度と戻らない。一度転落したら這い上がることなんて出来ないのだ。そんなこと、分かっていたはずなのに。
両親は血塗れだった。
家具の彼方此方に血液が飛び散っていた。
テレビだけが喧しく騒いでいた。
見下ろした自分の両手は真っ赤だった。
目の前に誰かがいたような気がした。
誰だったのか、分からない。思い出せない。忘れてはいけないはずなのに、思い出すことが怖かった。
あれは――……。
階段を踏み外したかのような転落感と共に目が覚める。全身が汗で湿っていた。全力疾走の後みたい息が苦しい。最低最悪の寝覚めだった。
酷い目眩に酔いそうだ。翔は額から滲む汗を拭った。辺りを見回すが、其処は路地裏ではなかった。まるで、何処かの事務所のようだ。
自分が何処かの事務所のソファに寝かされていたことに気付く。最後の記憶を辿るが、此処が何処なのか見当も付かなかった。
安っぽいベージュのソファは煙草の脂で燻んでいる。窓はブラインドカーテンが下され、微かに差し込む日差しが夜明けを告げていた。
あれからどのくらい経ったのか。此処は何処なのか。
頬に違和感を覚えて触れると、湿布が貼られていた。両手は包帯が巻かれ、腕には血の滲んだガーゼが貼られている。誰かが手当てしてくれたらしい。
果たして、一体、誰が?
何の為に?
体が重い。
不意に、甘い匂いがした。
メンソールみたいな花の匂いだ。
カタカタと、タイピング音が聞こえた。
それは俎板を叩く包丁の音に似ていた。
悪夢の理由を悟り、翔は溜息を吐いた。
窓から離れた壁際、室内であることも構わずにパーカーのフードを深く被った子供がいる。パソコンのブルーライトに照らされ、その面は青白く見えた。
「おい」
寝起きのせいで喉が開いていない。
自分の声が掠れていて驚いた。けれど、その子供には聞こえなかったのか、パソコンを見詰めたままだった。
もう一度声を掛けるべきか迷ったが、何と無く、眺めていた。見れば見る程、綺麗な顔をしていた。神様の依怙贔屓みたいに美しい造作をしている。
長い睫毛と、子犬のような円らな瞳。通った鼻梁、染み一つない滑らかな頬、凡そ万人が羨む容姿が其処にある。
十代前半くらいか。顔立ちは東洋系だが、英語を話していた。年齢はおろか性別すら分からないし、あの時、己の危険を顧みず喧嘩に割って入って来た。あの場で、この子供だけが冷静だった。
「目が覚めたんだな」
背後から声がして、冷や水を浴びせられたかのように心臓が凍る。翔は振り向くことが出来なかった。後ろに、死神が立っている。
死神は翔の脇を通って、取り憑かれたようにパソコンを見詰める子供の元へ行った。
若い男のように見えた。伸ばし掛けみたいな黒髪が微かに波を打っている。糊の効いた黒いシャツに、黒いスラックス。後姿だけで、堅気ではないと分かる。
「おい、ミナ!」
死神はパソコンを叩いた。
ミナ、と呼ばれた子供はコミカルに肩を跳ねさせた。
「What are you doing! What to do if broken?」
「うるせぇ。客が起きたぞ」
「Is that for real?」
円らな瞳に翔が映る。
ミナと呼ばれた子供は嬉しそうに椅子を飛び降りて、子犬のように駆け寄って来た。
「大丈夫?」
濃褐色の瞳には、労りの色が滲んでいた。けれど其処には、まるで心の中を見透かすような怜悧な光がある。
「此処は何処なんだ」
「Ah, I wonder what I should explain」
「分かんねぇよ」
「説明が難しい」
翔の言葉を理解したらしく、ミナは日本語に切り替えた。困ったように頭を抱え、死神を振り返る。
死神の左目は金色に輝いていた。見間違いじゃなかった。けれど、その右目には医療用の眼帯を付けていた。あの時、その目の下に何か痣のようなものを見た気がしたけれど、最早、確かめることも出来ない。
蛇に睨まれた蛙を体感しながら、翔は脂汗が滲むのを堪え切れない。
「此処は俺の事務所だ。こいつがテメェを助けたいって言うから、連れて来た」
死神はミナを指差して、溜息を吐いた。
どうやら、ミナが手当をしてくれたらしい。
「こいつはミナ。優秀な事務員で、うちの姫だ」
死神は悪戯っぽく言った。
笑った顔は何処か幼く見えた。
姫。そういえば、あの時もそう言っていた。
少女だったのか。砕けた口調やフランクな態度のせいで、何となく少年のように感じていたが、違ったらしい。しかし、夜の繁華街を一人でドブネズミを追い掛ける程度には、愚かな子供だ。優秀とは程遠い。
「俺は立花蓮治。二十六歳。殺し屋だ」
宜しくな、と立花は人懐こく笑った。
翔は一瞬、言葉を失った。差し出された左手と爽やかな笑顔に流されそうになるけれど、この男、何て言った?
「こ、殺し屋?」
「依頼を受けて人を殺す健全な仕事さ」
健全?
何を言っているんだ?
ミナは何でもないことみたいに微笑んでいる。自分がおかしいのだろうか。翔は頭痛を起こして低く呻いた。
「じゃあ、此処は殺し屋の事務所なのか?」
「そうだよ」
あの時、金髪の男は死んでいた。
殺し屋ということは、つまり。
「お前があの男を殺したのか?」
あの男の眉間には穴が空いていた。銃痕だったのか。
その前に聞いた空気の抜けるような音は銃声だった?
もう訳が分からない。
立花は困ったように頭を掻くと、徐に内ポケットへ手を伸ばした。そして、名刺を差し出すような自然さで、翔に銃口を突き付けた。
「何か言い残すことは?」
「はあ?!」
思わず腰を上げようとしたが、体が軋んで儘ならない。ミナが身を低く構えるが、立花は猛禽類のような鋭い視線を投げただけだった。
「こいつは知る必要のないことを知った」
「Stop it, he's my friend」
「引っ込んでろ」
立花が冷たく突き放す。
ミナが自分を助けようとしてくれていることだけは、分かった。翔は軋む脇腹を押さえながら懇願した。
「他言はしない! 絶対だ! 例え誰に脅されても――」
暗い銃口が真っ直ぐに翔を睨んでいる。
昨夜、銃殺された男の姿が脳裏を過ぎり、翔は酷い結末を想像せざるを得なかった。
立花は、短く言った。
「無理だ。俺にはお前の覚悟を測れない」
銃口から逃れる術は無かった。
此処で死ぬ。殺される。こんなところで死ぬ訳にはいかない。その為に生きて来たんじゃない。
何か、何か無いのか。
この絶体絶命の窮地を脱する起死回生の一手は無いのか。
指先が引き金を引くのが、コマ送りに見えた。
不意に、ミナと目が合った。透明感のある奇妙な眼差しは、今は泣き出しそうに歪んでいる。その様が何かと重なって見えた。
ああ、あれは、誰だ?
思い出せない。だけど、知っている。
覚えている。――そうだ。俺には、妹がいたんだ。