⑴クリスマスプレゼント
羽毛のような軽やかな雪が舞い降りる。
枯れた竹の葉が土を覆い隠し、踏み出す度に足を取られた。
強靭な竹の根が其処此処から露出し、まるで天然の罠のようだ。翔は根を足場に体勢を整え、目の前の男と対峙した。
白く霞む竹林の中、その男――近江は影のように立っていた。降り始めた雪が凡ゆる音を吸収して、辺りはひっそりと静まり返っている。呼吸、気配、足音。生物が発する音が、近江からは聞こえない。
本当に生きている人間なのか?
喪服のような黒いスーツの上下を纏っているせいで、本物の幽霊のようだった。
翔は竹の根を蹴ると、薄ら笑いを浮かべる近江の顔目掛けて拳を振り切った。しかし、それは微風のようにさらりと受け流された。振り向き様にローキックで膝を襲ったが、当たらない。
「どうした?」
近江は微笑んでいる。
翔太は舌打ちを漏らした。感情を悟らせるべきではない。それを逆手に取る技術が無いのならば、機械のような無反応であるべきだ。最初に、近江に言われたことだ。
けれど、当たらないのだ。
暖簾に腕押し、柳に風。何でもいいが、翔の攻撃は尽くいなされ、まるで当たらない。
対峙する近江哲哉は、還暦を過ぎただろう老人である。筋骨隆々たる大男でもなければ、武術の達人にも見えない。一撃でも当たれば骨は砕けるだろう。暇を見付けては修行と称して近江と手合わせして二週間。翔の攻撃は一度だって当たっていなかった。
「お前、頭でごちゃごちゃ考えるタイプだろ」
ひょうたん島みたいな岩に腰掛け、溜息混じりに近江が言った。休憩だと言い放つと、近江は竹藪の中に隠した荷物から水筒を取り出した。
牡丹雪の舞い落ちる竹林は凍える程に寒かった。手渡されたほうじ茶は柔らかな湯気を昇らせていて、涙が滲むくらい美味かった。
「考えなきゃ勝てねぇ」
「考え過ぎんなって言ってんだよ」
近江は愉快そうに笑っていた。
殺し屋を引退してからは一日中日向ぼっこをしたり、一人将棋をしたりしているらしい。どうやら家族はいないらしく、孤独死しそうな寂しい老人だった。
「頭が良い奴は戦略を立てる。馬鹿な奴は体を鍛える」
「俺は?」
「……」
何で黙るんだ。
居心地悪くてほうじ茶を啜っていると、近江が風呂敷の中からバナナを取り出した。もう意味が分からなくて黙っていたら、ミナからの差し入れだと教えてくれた。
「資質は良いもの持ってると思うぜ。身体能力だけなら蓮治より上かもな」
「それ、本当?」
「蓮治は感覚で動くからな」
確かに、立花はいい加減なところがある。
感覚――天性の素質だろうか。翔が幾ら射撃の訓練をしたって、立花のような芸当は出来ないだろう。だからと言って勉強したって、ミナみたいにパソコンを手足のように使えるとは思わない。
自分だけの武器が欲しい。
残酷な未来に立ち向かえるだけの武器が。
大切なものを守れるだけの強さが。
立花の射撃の腕前は超人的で、咄嗟の判断力は最早人間ではない。ミナはパソコンに精通しているし、天性の人誑しである。それに比べて、自分には何があるだろう。
出来ることがないというのは、焦る。焦燥感に駆られて修行なんてしているけれど、成果は目に見えない。
「立花は昔から強かったのか?」
「まあまあね。野生動物みたいに感覚が鋭かったんだ。多分、グレイの後遺症だろうなぁ……」
「グレイ?」
「薬物だよ。昔、流行ったんだ。死者に逢える幻のドラッグって謳い文句で、錠剤やら液体やら、大量にばら撒かれたんだ」
薬物と言えば、大阪でミナに声を掛けて来た男も中毒者らしかった。立花の両親も薬物中毒で死んでいるらしいし、思う以上に身近な話題だ。
「後遺症って?」
「依存性も酷かったらしいけどな、若者の間に蔓延してたから、生まれ付き薬物中毒みたいなガキがたくさん産まれたんだよ。社会問題になっただろ。先天性奇形とか、免疫不全とか、色素異常とか」
知らない、というか分からない。
社会問題になる程に薬物が蔓延するなんて信じられない。日本の警察は一体何をしていたのだろう。
「そういう先天性の異常を持ったガキを、ドラッグベビーって言うんだ」
「立花の目もそれなのか?」
立花の瞳は見事な金色だった。気配を消して雑踏に溶け込むのは上手いけれど、その特徴のせいで覚えられ易いのだ。だが、近江は首を振った。
「あれは後天性の虹彩異常。昔やった病気の後遺症で、今はぴんぴんしてるけどな」
「じゃあ、その薬と何の関係があるんだよ」
近江が何を言いたいのか分からなくて苛々する。回りくどく感じるのは、多分、自分が単純に無知だからだ。説明する為に回り道をせざるを得ないのだろう。これが立花だったら、此方の理解を置いてけぼりにして結論を言っている。
「海外のヤバい組織がグレイに目を付けて、孤児を対象に人体実験したんだよ。人工的な超能力者を作るとか言って。殆ど死んだらしいけどな、中には化物みたいな身体能力を持った子供も産まれたそうだよ。眉唾物だけどな」
規模が大き過ぎて、ピンと来ない。
立花の両親が薬物中毒だったから、その後遺症で息子の感覚が鋭敏だとでも言うのだろうか。都市伝説のように感じられるが、翔は一人の男を思い浮かべていた。
金色の髪、緑の瞳の国家公認の殺し屋。
一見すると痩せた優男なのに、車のボンネットを踏み砕く鋼のような肉体を持っていた。
「ペリドットもそうなのか?」
「知らねえ。……でも、蓮治と同い年くらいか」
近江は何かを考え込むように俯いてしまった。
やる事が無くて、翔は頭の中でこれまで教わったことを復習した。立花やペリドットの立ち回りも参考になる。同じ状況の時、自分ならどうするかシュミレートするのは実践的なはずだ。
事務所で立花と向き合った時のことを思い出す。あの時の自分は馬鹿だった。よく考えもせずに思ったことを口にして、ミナに尻拭いをさせてしまった。
翔が猛省していると、考え事を止めたらしく近江が言った。
「ペリドットのことはよく分からねぇ。だが、あのレベルの身体能力を持つ人間を、俺は一人だけ知ってる。そいつはドラッグベビーじゃないけどな」
「俺の知ってる人?」
「これから会う人だ」
なんだ、それは。
嫌な予感を覚えたが、近江は紹介するつもりも、説明する気も無いようだった。
「ミナトに伝えとけ。クリスマスプレゼントだってよ」
7.ツナグ
⑴クリスマスプレゼント
街はクリスマスイブでどこもかしこも賑わっていて、土日と重なったせいか家族連れやカップルが多かった。普段ならば下品だと感じる電飾も今日ばかりは煌びやかに見えて、まるで夢の中を歩いているみたいだった。
寒風に凍えながら事務所に戻ると、ミナしかいなかった。
相変わらずパソコンに向き合っていて、集中状態なのか此方に目も向けなかった。不意に悪戯心が芽生えて、驚かしてやろうと思った。
定規でも入っているみたいに背筋を伸ばして、ミナは真顔でパソコンのディスプレイを見詰めている。作り物みたいに綺麗な顔は横を向いていても一部の隙も無い。肌は陶器みたいで、染み一つ無い。
指先は何かネックレスのようなものを弄っていた。金属の触れ合う音が聞こえる。翔はその背中に回って、思い切りその肩を叩こうと手を伸ばして、――悲鳴を上げた。
「うわああ!!」
其処で漸くミナが振り向いて、寝起きみたいな掠れ声で「おかえり」と言った。耳元で叫んでしまったので、ミナは片耳を押さえていた。
「お前、何を!」
「え、ああ……」
ミナはディスプレイを見遣った。
これがAVなら翔太だって驚かなかった。そっと肩を叩くか、立ち去っただろう。だが、其処に映っていたのは、AVでも無ければ訳の分からないプログラムでもない。真っ赤に染まった何かの死体だったのだ。
翔が指を差すと、ミナは何も無かったみたいに映像を消した。
そんな顔してスプラッター趣味なのかよ。世の中には色々な性的嗜好があると聞くが、これは駄目だ。命の危険を感じるからだ。
「盗み見なんて趣味が悪いな。それに、人を指差すのが失礼に当たるのは万国共通だろ。喧嘩売ってんの?」
いつに無く怒っている。生理中の女子かよ。
翔は溜息を吐いた。
「パソコンばっかり見ているから苛々してんだろ。外に出て日に当たれよ。不健康だろ」
翔がそんなことを言うと、ミナはすっと目を眇めた。猫だったら毛が逆立って爪が出ていたと思う。
「それ、俺がチビだって言ってる?」
言ってないだろ。
と言うか、お前、そんなこと気にしてたのかよ。
そういえば、いつも頭を撫でると子供扱いするなと振り払われたけど、身長が低いことがコンプレックスだったのだろうか。悪いことをしたな、とも思うが、ミナの頭が丁度良い位置にあるのがいけない。
「人の外見的特徴を揶揄するなんて最低だ。この国ではモラルハラスメントって言うんだろ」
「お前、肉まんは知らなかった癖に、そんな難しいことは言えるのかよ」
「やっぱり馬鹿にしてるよね?」
してないだろ。
自分は事実しか言ってない。けれど、今のミナは何を言ってもネガティブに捉えてしまうらしい。普段の天使みたいなミナは何処へ行ってしまったんだろう。サンタクロースになってプレゼントでも配りに行ったのか。
そうだ、プレゼント。
「近江さんが、お前にクリスマスプレゼントをやるって言ってたぞ」
「子供扱いするな!」
ミナはキーボードを両手で叩くと、いきり立って事務所を出て行ってしまった。こんな子供の癇癪みたいな怒り方をする奴だったのかと思うと、普段、如何に気を使わせているか身に染みた。
追い掛けて弁明するべきなのだろうか。しかし、今のミナは相当怒っていた。
クリスマスプレゼントの話を切り出すタイミングも悪かった。別に怒ってるミナに敢えて伝える必要も無かった。
ブラインドの隙間から覗くと、コートも羽織らずミナが出て行くのが見えた。路上には薄らと雪が積もっているし、あの小さくて痩せた体はすぐに冷えてしまうだろう。
どうしようかと右往左往している間にミナの姿は見えなくなってしまい、結局、翔はミナのコートを抱えてソファに座り込んだ。
あんなに怒る必要があっただろうか。
身長がコンプレックスなのは男なので、分かる。でも、別に自分はそれを馬鹿にしたつもりは全くない。ミナが深読みして勝手に怒っただけだ。
第一、事務所で堂々と特殊な性癖を開示しているミナも悪い。海外は広いから色んな世界があるのだろうが、住み分けは必要だろう。
……でも、ミナはいつも自分のフォローをしてくれていた。
立花の逆鱗に触れた時は身を挺して庇ってくれたし、翔が納得行かない時にはとことん付き合ってくれた。
おかえり、と言うミナの笑顔が脳裏を過ぎる。
自分があんな悪戯しようと思わなければ、ミナは怒らなかったのかな。外は雪だ。何処かに避難しただろうとは思うが、寒いだろう。壁掛け時計を見上げると、もう午後八時だった。
大丈夫だろうか。変な奴に絡まれていないか。物騒なトラブルに巻き込まれていないか。段々と自分が悪かったような気がして来て、翔は立ち上がった。
ミナのコートを脇に抱えて扉を開けた。――その瞬間、心臓が飛び出すかと思う程に驚いた。
人が立っていたのだ。屈んでいたら額をぱっくり割ったかも知れない。此方の不注意だった。
口は謝罪の言葉を取って、そのまま固まってしまった。
「Hello?」
一人の青年が立っていた。
十代後半くらいか、成人しているにしては笑顔が拙かった。身長は翔と同じくらいだが、体付きが違う。スポーツマン特有の均整の取れた鍛えられた体だ。その青年は生命力を人の形に嵌め込んだみたいな強烈な存在感を放っていた。
「Ah, I heard Minato is here」
頬を掻きながら、その青年は困ったように笑った。
くっきりとした二重瞼の下に、濃褐色の瞳が綺麗に収まっている。ソリでも出来そうな高い鼻梁と、気の強そうな眉、肌荒れなんて知らないと言わんばかりに透き通った頬。男が見ても男前だと分かる精悍な顔付きをしている。
こんな顔に生まれたら、幸せだろうな。そう思わずにいられないくらいの美青年である。芸能人かと思う程のオーラのようなものが感じられて、翔は咄嗟に目を背けた。
「Well, I'm not good at Japanese」
アルトの笛みたいに澄んだ声で、青年は首を捻った。何を言っているのか分からない。こんな時こそミナの出番なのに。
「Isn't there Minato?」
ミナトって、言ったよな?
ミナの本名はミナトだったはずだ。
「ミナの知り合い?」
「Mima? Is that Minato?」
「あー、多分そう」
ミナも黙っていれば美少女のような少年である。類は友を呼ぶのか、その知り合いが美青年でも仕方ない。
翔の肯定を理解したのか、青年はぱっと明るく笑った。太陽を直視しているみたいに眩しくて、翔は思わず目を逸らした。
脇に抱えていたミナのコートを広げて見せると、青年は子供みたいにはしゃいだ。このギャップにやられる女性は多いだろうな、と僻みみたいなことを思って、翔はすぐ様その考えを振り払う。
「Where did Minato go?」
何て答えたら良いんだろう。
喧嘩して出て行ったなんて言ったら心配するだろうし、経緯を説明するには複雑過ぎる。大体、こいつは何者なんだ。
「アンタ、何者?」
マナーについて怒られたばかりだったので、指は差さずに手の平で促した。青年は自分を指差すと、人懐こく笑った。
「I'm Wataru Hachiya. Minato's brother」
「ワタル? ブラザーってことは、兄弟?」
「Yeah!」
笑った顔が本当にそっくりだった。
生真面目そうなのに、破顔すると途端に幼く見える。大人しそうに見えてやんちゃなミナに似ている。
兄弟が来るなんて聞いてない。
せっかくミナが日本語を覚えて来たのに、これじゃ逆戻りだ。立花でも良いから、誰か英語の話せる人が来てくれないだろうか。そもそも、事前に説明も無いなんて非常識じゃないか。
ふと、近江の言葉を思い出す。
クリスマスプレゼント。
――まさか、こいつが?
ワタルは猫のようなアーモンドアイに、期待を滲ませて問い掛けた。
「Who are you?」