⑶盃
黒塗りの外車が駅前に停められていた。
鏡のように磨き込まれた車体にスモークの貼られた車窓は、紹介されなくてもその正体を察するに余りある。
前科百犯くらいありそうな強面の運転手が、パワーウィンドウをするすると下ろした。近付いた笹森が何か話すと、糸のような細い目が吟味するように翔とミナを睨む。
これは、ヤの付く自由業だろう。
手の平に汗が滲んだ。彼等の懐から拳銃が出て来ても驚かないだろう。油断したら殺されるな、と覚悟をしていたら、ミナが親しげに挨拶をした。
後部座席の扉が開かれて、乗るように促される。
ミナがいそいそと乗り込むので、翔は可能な限りの警戒をしながら後を追った。車内で乱闘になったら、まずは笹森を倒そう。
顔付きとは裏腹に丁寧な運転で、車は走り出した。
法定速度をしっかりと守った安全運転は、教習所の中にでもいるみたいだ。
助手席に座った笹森は、運転手と何か話していた。早口の上に関西弁なのでよく分からないが、どうやら先程の男のことを話しているらしかった。
「Hey you. 俺達にも分かるように話してよ」
かなり不穏な状況だが、ミナは全く動じていなかった。
豪胆というか、図太いのだ。笹森はバックミラー越しに後部座席を見ると、目を細めて笑った。見た目は駅前にいた大学生と同じくらいに見える。
「悪かったな。自分がミナトやろ?」
話は聞いている、と笹森は笑った。
駅前を離れ、車は閑静な住宅街へ入った。時刻は午後六時半。終電までに帰れるのだろうか。
「さっきの男は何だったんだ?」
「ナンパやろ?」
「そうじゃない。あいつ、何か変だった」
どう言えば伝わるのだろう。
妙にしつこかったし、気持ち悪かった。何より、意識が無いはずなのに、笑っていたのだ。
翔が言葉を考えていると、ミナが言った。
「薬物じゃないかな」
「薬物?」
「LSDとかMDMAとか、法律で禁止されてる麻薬だよ。この国ではマリファナも違法だっけ?」
マリファナが合法として許されている国もあるらしい。
話が物騒な方向に曲がって行く。違法薬物なんて、笹森のような輩の主な収入源なのではないだろうか。
それを真正面から指摘する神経はよく分からない。翔が戦々恐々と様子を伺っていると、笹森は溜息を吐いた。
「どっかのあほが、うちのシマでばら撒いてるんや。迷惑な話やで、ほんま」
「シマ? Stripe?」
「ちゃうで。縄張りのことや」
ミナが曖昧に相槌を打った。
「笹森さんは、何の仕事をしてる人なの?」
思わず、翔はミナの口を押さえた。本当に何も分かっていなかったらしい。笹森と運転手はおかしそうに大口を開けて笑っていたが、翔は生きた心地がしなかった。
「街のパトロールをしたり、困ってる人を助けたり、便利屋みたいなもんかいな」
「Cool!」
「そうやろ?」
物は言いようだな、と翔は思った。
そうこうしている内に、車は目的地に到着したらしかった。お寺みたいな立派な門が見える。とても個人宅には見えない。純和風の家屋にミナがはしゃいでいるが、翔は虎穴に入ったような気分だった。
6.フィクサー
⑶盃
笹森に案内された応接間は、居心地が悪くなる程に広かった。床に敷かれた畳は板のように引き締まっていて、直に座ると痛い。
差し出された座布団が如何にも高級そうだったので辞退したのだが、早速後悔した。ミナは座布団に胡座を掻いて、黒塗りの机に肘を突いている。笹森が殿様だったら、今頃ミナは無礼者と斬り捨てられているのではないだろうか。
しかし、笹森はそんな自分達を見比べて笑っていた。器の大きさを感じさせる快活な笑い方だった。待機する強面の男達は銅像のように動かないが、何かあれば即座に襲って来る。そんな警戒と緊張があった。
「改めて自己紹介させてもらうで。俺は笹森春助。笹森一家の十二代目や」
やはり、堅気の人間ではなかった。
ミナが逐一質問するので話は脱線を続けたが、要約すると、目の前のこの色黒の男は大阪を拠点とするヤクザ、笹森一家の若頭らしい。
見た目は軽そうな若者だが、仁義を重んじる昔ながらのヤクザの頭らしく、ミナの不躾な質問に気を悪くした風も無かった。先代――笹森春助の父が三ヶ月前に病死してからは、彼の母が代わりを務めているらしい。自分のことを修行中の未熟者と称する笹森は、悪戯っ子みたいで、どうにも憎めない。
ミナの祖父と彼の祖父は古い友達らしい。
翔は話の流れで知ったのだが、ミナの両親は日本人で、帰国の折に同窓会なるもので顔を合わせたことがあるらしい。ミナ自身はニューヨーク生まれのニューヨーク育ちで、国籍はアメリカにあるという、もう訳が分からないくらいのグローバルさだった。
「今はハヤブサの三代目のところにおるんやろ?」
「Yeah」
「気難しいやろ。先代の近江さんが言うとったで」
先代のハヤブサは、近江と言うらしい。
立花と苗字が違うから、何か事情があるのだろう。
「自分が向こうで色々とやらかして来たことは聞いてんで。今日は何をしに来てん?」
笹森の目が静かに冷たく光る。大勢の人の上に立つ者特有の凄みがある。翔は痺れる足を組み直し、膝の上で拳を握った。
ミナは笹森の目を真っ直ぐに見詰め返した。
「世界と戦うカードが欲しいんだ」
聞き覚えのある言葉だった。
翔が様子を伺うと、ミナと目が合った。柔らかな微笑を浮かべ、ミナは胸を張った。
笹森は問い掛けた。
「戦うって何や。戦争でもしたいんか」
「物量が物を言う時代は終わったよ。これから必要なのは強力な武器や沢山のお金じゃない。情報だ」
ミナの濃褐色の瞳に理性の光が宿る。
目の前の笹森と話しているのに、この子供の目はもっと遥か遠く、未来を見詰めているようだった。
「ペリドットと遣り合ったんだ。ショウとレンジが助けてくれたけど、俺一人なら殺されてた。何も成し遂げられないまま、人知れず、惨めにね」
「……ちょい待て。ペリドットって、あのペリドットか? 国家公認の殺し屋の?」
ミナは頷いた。
笹森は肩を落として感嘆の息を漏らした。
「自分等、よう生きとったな……」
どうやら、自分達はとんでもない男を相手にしていたらしい。生き残ったことが奇跡なのだ。立花がいなければ、自分もミナも死んでいたのだろう。
笹森は暫く放心していたが、気を持ち直すと咳払いをした。
机に肘を突き、笹森が身を乗り出す。
「これからの時代は情報やて言うとったな。つまり、自分はパイプを作りに来たってことやろ?」
問い掛けながらも、笹森の口調は否定を許していない。
「分かっとるやろうが、情報は金や。自分にただでやる理由も、メリットも俺にはあらへん。そうやろ?」
「……」
「協力して欲しいなら、相応の対価を寄越せ。商人はただでは動かん」
尤もな話だ。
ミナや立花もよく言っていた。答えて欲しいなら報酬を寄越せと。見返りなく成果だけを得られる程、この世は優しく出来ていない。
何を払える?
ミナは多才で優秀な少年であるが、子供だ。裏社会で生きる笹森を相手に、何を差し出せるのか。
ミナは顎を引き、滔々と言った。
「これからは、如何に早く正確な情報を獲得出来るかが鍵になる。データの暗号化も、それを破る方法も爆発的に発展して行くだろう。反面で、情報の真偽を確かめるネットリテラシーは低下し、情報格差は広がって行く。……その時に、あなた達は何が出来る」
ミナには、何か違うものが見えている。それは例えるならば、時代の流れのような、曖昧だが確かに其処にあるものだ。
情報を獲得する手段という意味では、ミナはインターネットに精通しているし、クラッカーのミアとも繋がりを持っている。更に、この少年は他人の嘘が分かるという特異体質でもある。特に前者は笹森に対して有効なカードになるだろう。
けれど、ミナはどのカードも切るつもりはないらしかった。
「情報は水と一緒だ。溜めて置けば淀み、腐る。最新の情報を獲得する為にはあなた達自身が発信し、それを信じさせる根拠がいる」
「……急によう喋るやんけ」
笹森は机の下から灰皿と煙草を取り出した。
「あのな、ネットリテラシーやら情報格差やら、どうでもええねん。うちはインテリヤクザやない。生粋の、昔ながらのヤクザや。俺達はそれを誇りに思てる」
「誇りで飯が食えるのか? 家族を守れるのか?」
「……言ってくれるやんけ」
笹森も苛立ちが部屋の中に充満する。まるで、破裂寸前の風船みたいだった。待機する男達にも緊張が走り、翔は腰を浮かせた。この場で戦闘になっても、ミナだけは守らなければならない。
「飽和する情報の中で、何を真実とするかは多数派に委ねられる。大衆があなた達を悪だと言えば、社会はあなた達を袋叩きにする」
「それは自分の経験談やんか」
何のことだ?
まるで、ミナが社会的に死んだことがあるみたいじゃないか。
笹森は紫煙を燻らせ、浮き足立つ男達を片手で諫めた。ミナは真っ直ぐに笹森を見据え、視線を逸らさない。
笹森は言った。
「偉そうなこと言うてるけど、自分は何が出来るんや? 金も無い、権力も無い、信頼も、腕っぷしも無い自分に何が出来る?」
「非力と無力はイコールじゃないさ。信頼が一朝一夕で築かれないように、確証はすぐに出せない」
ミナは不敵に笑った。
「でも、勝つつもりだ」
めちゃくちゃだ。
翔は周囲に視線を巡らせた。ミナの言っていることが余りにもめちゃくちゃで、笹森が怒り出しても不思議じゃなかった。
「あなたの力が必要だ。人と人の繋がり、人徳、人脈。そういうものを、俺に教えて欲しい」
「貸してくれちゃうんか?」
「ただより高いものは無いって、レンジがよく言ってる」
笹森は何も言わずにミナを睨んでいた。視線が刃だったなら今頃八つ裂きだ。翔が身構えていると、笹森は灰皿に煙草の灰を落とした。
「つまり、自分に投資せえってことやろ」
あほやなぁ。笹森はそんなことを言って、笑った。
緊張感が霧散する。
「ええで。おもろいやん」
拍子抜けする程あっさりと、笹森は言った。ミナの演説が無意味に感じる程だった。
「そいつは、険しい茨の道やで」
ミナは何も言わなかった。
笹森は待機させていた男を呼び付けると、盃を持って来るように命じた。程無くして運ばれて来た朱塗りの浅い盃は、フィクションみたいに美しかった。
「これは俺とミナトの契約や。ほんまは美味い日本酒でも用意したいとこなんやけど、未成年やからな。俺はお前に投資する。お前は見合うだけの男になれ。ええな?」
頷いたミナが盃に手を伸ばす。
何かとんでもない瞬間に立ち会っている。夜空に虹が架かるような、宇宙の生命に出会ったような、奇跡にも似た瞬間を特等席で見ている。そんな形容し難い感動が、胸を熱くする。
盃を酌み交わすと、二人はどちらともなく手を下ろした。
笹森は立ち上がり、襖を開け放った。
砂庭式枯山水の見事な日本庭園が一望出来る。促されるまま、三人で縁側に座った。閑静な住宅地に鹿威しが鳴り響き、違う世界にいるみたいだった。
「自分等、ほんまにあのペリドットと遣り合ったんか?」
翔が肯定すると、笹森は「はあ」とも「ほう」とも付かない息を漏らした。
ミナが経緯を話すと、笹森はまるで冒険譚を聞く少年のように目を輝かせた。側で聞いていても、俄かには信じ難かった。
「今の俺の立場はすごく弱い。後盾が何も無い」
「親父の脛を齧るつもりはないってことか」
「スネ?」
「……自分、賢いんかあほなんか、よう分からんなぁ」
翔は笑った。
ミナという少年の掴み所の無さは身に染みている。キャベツみたいに、開いても開いても中身が何なのか分からないのだ。でも、きっとその奥には硬くてとても食べることの出来ない芯があるのだろう。翔は、そう思う。
「俺の爺さんがな、よう言っとった。信頼に勝る宝は無いんやて。俺もそう思う。……其処の番犬は、自分のことをちゃんと守っとったで」
番犬というのが自分を指していることに気付き、翔はどういう反応をしたら良いのか分からなかった。褒められているのだろうが、犬扱いかよ。
「その信頼を裏切ったらあかんで」
「分かってる」
「なら、ええわ」
鹿威しが鳴る。
空を見上げる。皿みたいな綺麗な満月だった。
ミナという人間の謎が深まって、訊いてみたいことが増えた。尋ねたら、答えてくれるだろうか。自分の向ける信頼という対価だけで。
答えてくれるかは分からないけれど、訊いてみよう。ミナが誠実でいられるような信頼を与えてやりたいと思った。