⑴深淵の怪物
ブラインドの隙間から、淡い冬の日差しが漏れ出している。事務用のデスクに縞模様が浮かび、まるで横断歩道みたいだった。
眼窩に痛みを感じて、ミナは眉間を揉んだ。長時間ブルーライトに当てられていたせいだ。集中してしまうと周りが見えなくなるのは、自覚する悪い癖だった。
気分転換にコーヒーでも入れようかと席を立つと、窓辺に立花の背中が見えた。その手には携帯電話が握られていて、誰かと通話していることが分かる。
プライベートを詮索する趣味は無いので、ミナは早々に給湯室に入った。態々やかんで一人分の湯を沸かすのは面倒だった。電気ケトルが欲しいと言ったら、立花は経費で購入してくれるだろうか。
インスタントコーヒーをマグカップに入れる。頭がぼんやりしていたので、砂糖やミルクは入れない。甘いものはそれ程、好きじゃなかった。
やかんが笛を吹く。目が覚めるようなブラックコーヒーを片手に事務所へ戻ろうとすると、立花の声がした。
「最近、犬を飼い始めたんだ」
何処か明るく、穏やかな声だった。
親しい相手なのかも知れない。そういえば、立花に家族はいるのだろうか。恋人や友人は。
素知らぬ顔をしてソファに座る。いつもは翔がいるので、ソファの感触が懐かしく思えた。
翔は今頃、玄関先でも掃除しているのだろう。勤勉な男である。事務所内もそれなりに綺麗にして来たつもりだったが、翔に言わせれば適当らしく、棚の裏から綿埃を引っ張り出された時には苦笑するしかなかった。
「俺じゃねぇよ、ミナだ」
突然、自分の名前が出て驚いた。
一体、誰と何の話をしているのだろう。犬なんて飼った覚えはないが、日本語によくある比喩だろうか。
立花が此方を見て、追い払うように手を振った。
出て行け、ということだろう。それなら聞かれて困る内容の電話を此処でするなよ、と胸の内で吐き捨て、ミナはマグカップを片手に立ち上がった。
三階へ行こうか。いや、それでは翔が戻って来た時に困るか。迷いつつ、マグカップを片手に玄関の扉を開いた。
「……初めて会った時、あいつは地獄にも花が咲くことを知ってると言った。俺はあいつが何を成し遂げるのか、見届けたいと思う」
扉が閉まる刹那に聞こえた声に、胸が軋んで、両目が熱くなる。零れ落ちないようにと、ミナは天を仰いだ。煤けた天井がじわりと歪んで見えた。
過剰な期待は息苦しいけれど、見届けてくれる人がいるのは心強い。励ます言葉が聞かれなくたって、抱き締める腕が無くたって、伝わることはたくさんある。ミナは扉に寄り掛かったまま、マグカップを両手で包み込んだ。
程無くして、扉が開かれた。ノックの一つもしてくれないものだから、危うくコーヒーを溢すところだった。
不満を込めて睨むが、立花は毛程も気にせず、コーヒーが飲みたいと言った。
事務所のコーヒーテーブルにマグカップを置き、再びやかんをコンロに掛ける。油蝉のような音を立て、青い炎が放射状に広がった。
電気ケトルの相談をしようと振り向くと、立花が給湯室の壁に凭れ掛かっていた。金色の瞳が値踏みするように見据えて来るので、ミナは相談事を胸の中にしまった。
「翔のこと、何か分かったか?」
やかんがカタカタと震えている。
過去を調べるように依頼したのは翔だ。第三者である立花に報告する義務は無い。――だが、ペリドットと対峙した時の翔の様子はおかしかった。自分と翔の間だけでは済まないかも知れない。
「ペリドットとやり合った時、ショウが助けてくれたんだ。でも、いつもの様子じゃなかった。まるで、何かが乗り移ったみたいな……」
立花は何も言わず、先を促した。
相槌やリアクションの一つでもしてくれたら話し易いのだが、立花は相互的なコミュニケーションというものに重点を置いていないらしい。
「ペリドットが言ってただろ、あれは空手だって。顔面も躊躇無く狙ってたから調べたら、フルコンタクト空手って流派があるらしいね。大会もあるし、結構メジャーなのかな?」
生憎、ミナは武道に詳しくなかった。畳み掛けるような怒涛の攻撃は素人の悪足掻きではなく、完成された技だった。
立花が何も言わないので、独り言を言ってるみたいだ。ミナは溜息を吐いた。
「それから、ミアがどうして狙われたのか、理由が分からなかった。反社会的人格のクラッカーであることは確かだけど、ペリドットを嗾けて始末させるなんて、普通じゃない。あの子は、知ってはならない国家の闇を覗いたんだ」
「……前置きが長いんだよ、お前」
今度は立花が溜息を吐いた。
何だか会話の間に互いに疲れている。俺が悪いの?
ミナは眉を顰めた。
「ミアは警察庁の機密情報をハッキングしたんだ。未解決事件とか、権力者による事件の揉み消しとか、汚職データとか、そういうものがたくさんあった」
「お前も見たのか」
「見たっていうか、ミアが送って来たんだよ。アンダーウェブに中継地点を挟んでるから、追跡は出来ないと思うけど」
「……それで」
「機密情報の中に気になる事件の記録があった。……三年前、或る警察官の家族が惨殺された。データ上は未解決になってるけど、捜査された様子が無いんだよね」
これは偶然なのか、因果なのか。
まるで、神の見えざる手が自分をこの結論へ導いたみたいで不快だった。
「警察官の夫とその妻、娘は死体で見付かってる。でも、息子は消息不明なんだ。当時、十八歳。生きていれば二十一歳だ。学校での成績は普通、何処にでもいそうな平凡な学生だった。だけど、フルコンタクト空手をやっていて、全国大会に出場するくらいの実力者。――名前は、神谷翔太」
翔とは名前が違うけれど、似ている。
神田翔と神谷翔太。写真の一枚でも残っていれば照合出来たけれど、三年前のその日、界隈は炎に包まれたのだ。
警察庁の公式の捜査記録では、煙草の不始末による火事だとされている。けれど、裏では三人もの人間が殺され、捜査すらされていない。
これはどういうことか。
立花は猫のように目を眇めた。
「神谷翔太は、家族を殺したのか?」
「さあ、分からない。煙草の不始末のせいで、全部、燃えちゃったんだって。証拠は何も残ってない。……でもね、当時の神谷家は、誰も煙草を吸っていなかったみたいだよ」
死んだ娘、神谷砂月は喘息持ちだった。
病院のカルテに記録が残っている。娘の為に父は煙草を辞めたらしい。
この事件には不可解なことが多い。
神谷家は、娘の為に空気の綺麗な静かな田舎町に住んでいたのだ。三年前のその日、残酷な事件が起き、界隈は遺体諸共、炎に包まれた。そして、県警を差し置いて警察庁が出張っている。事件の関係者には緘口令が敷かれ、闇の中に葬られた。
まるで、探ってくれと言わんばかりの怪しさだ。
「それ、翔には?」
立花が言った。
ミナは肩を竦めて答えた。
「言うなら、確証を得てからにする」
「……まだ調査を続けるのか?」
「そのつもりだけど……」
金色の目に射抜かれて、ミナは言葉の先を躊躇った。
分かっている。これは踏み込んではならない《《深淵》》だ。ミアが狙われたように、これ以上首を突っ込めば、自分も翔も危険になる。
痛いくらいの沈黙を、やかんの笛が掻き乱す。
立花は溜息を一つ零して、コンロの火を止めた。
「調査は一旦、止めろ。藪を突いて蛇を出す必要は無い」
「……分かった」
普段なら梃子でも動かないが、ミナは素直に頷いた。
それだけ立花の目が真剣だったのだ。
こんな時、いつもニーチェの格言を思い出す。
怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう用心せよ。
貴方が長く深淵を覗く時、深淵もまた貴方を覗き込む。
玄関の向こうから階段を上がって来る足音が聞こえる。翔が戻って来る。ミナは咳払いを一つして、立花のマグカップを探した。
ペリドットと対峙した時、自分の無力さを痛感した。
敵の正体、目的、戦力。ミナは何も知らず、自分に出来る最善を尽くしたつもりだった。だが、結果はどうだ。立花がいなければ、翔共々殺されていた。
力が要る。
時代の畝りを捻じ伏せるだけの力が。
このままでは、自分のことも、翔のことも守れない。
扉が開くまでのカウントダウンをする。
ドアノブが回る。ミナはインスタントコーヒーの瓶を開けながら、素知らぬ顔で言った。
「……一人分のコーヒーを入れる為に、やかんでお湯を沸かすのはガス代の無駄だと思うんだ。電気ケトルかコーヒーメーカーを買おうよ」
扉の向こう、箒と塵取りを持った翔が立っている。
ねぇ、翔?
問い掛ければ、何の話だと首を傾げた。
ミナは目を伏せて笑い、沸騰する湯をマグカップへ注ぎ込んだ。
6.フィクサー
⑴深淵の怪物
電気ケトルを買いたいと言うので、ミナと二人で家電量販店に向かっていた。ハーブティーやコーヒーを飲む為にやかんでお湯を沸かすのが面倒なのだそうだ。
経費で落としてくれることになったので、ミナは小躍りして喜んでいた。先日、脇腹を撃たれて輸血手術をしたばかりとは思えない。
帰り道、駅前に新しいカフェが出来ていた。
若者向けの洒落た外装にフランス語の店名、コーヒーとデザートを売りにしているらしいが、店内は閑古鳥が鳴いていた。雑多で騒がしい繁華街の駅前で、優雅な時間を過ごそうだなんて酔狂な者はこの街にいないのだろう。
瓶に詰められたプリンがお勧めらしい。
値段の割に小さいし、美味そうに見えなかった。ミナが十個入りのそれを買ったので、翔は、いつか立花に買い物下手と言われていたことを思い出した。
翔は電気ケトルと紙袋に詰められたプリンを持った。怪我人に荷物を任せる程、無責任では無かった。並んで歩いていると、何処からか警官の桜田がやって来て「兄弟みたいやねえ」とよく分からない感想を零して言った。
事務所に帰ると立花はいなかった。
何処へ行ったのだろう。ミナは構わず電気ケトルを箱から取り出して、取扱説明書はファイルに入れ、本体は給湯室に置いた。
ミナは蹲み込んで稼働する電気ケトルを眺めていた。翔は放置された段ボールを解体し、玄関先に纏めて置いた。そうしている内に湯が沸いて、ミナがコーヒーを入れてくれた。
「それ、どうするんだ?」
事務所のコーヒーテーブルに置いたままになっている紙袋を指すと、ミナは思い出したみたいに手を打った。忘れていたらしい。立花もいい加減だが、ミナも大概である。十個もどうやって消費するつもりなのだろう。
コーヒーを啜ってみる。やかんで沸かしても電気ケトルを使っても、味は大して変わらないものだ。
「幸村さんにあげようと思ってね。この前、お世話になっただろ?」
幸村は隣のビルに法律事務所を構える弁護士である。
先日、立花が受けた依頼を阻止する為にミナが消息を晦ました。翔はそんなミナを追って、幸村に車を出してもらうように頼んだのだ。尤も、翔の行動は徒労に終わったのだけど。
そういえば、あれから会っていない。
弁護士ということは多忙なのだろうが、顔を合わせ難いのも事実だった。何より、彼女は立花のことを不審に思っているし、ターゲットの子供が暗殺されそうな場面に出会しているのだ。
あっという間にコーヒーを飲み終えたミナは、コート掛けに下げられたダッフルコートを羽織ると翔を急かした。忙しない子供である。
外は木枯らしが吹いていた。空気が痛いくらいに冷たい。歩いて数十歩の距離が億劫に感じられた。
隣のビルは地上五階、地下一階の鉄筋コンクリートで、その中の三階フロアが幸村法律事務所だった。
ミナが事務所の扉を叩くと、事務員らしい若い女性が出迎えてくれた。突然の来訪に気を悪くした風も無く、応接室に促される。品の良い革張りのソファに座っていると、温かい緑茶とオレンジジュースが出された。
さり気なくミナが緑茶を自分の元に引き寄せたので、翔は黙ってオレンジジュースを差し出した。
よく分からない攻防をしている内に幸村がやって来た。一部の隙も無いスーツの上下に、艶のある黒髪を後ろで一つに結いている。意思の強そうな眼差しは一見すると機嫌が悪そうで、向き合うと何故だか言い訳をしたくなる。
「ミナちゃん、久しぶりね」
幸村はミナを見ると柔らかに微笑んだ。歴戦の戦士が鎧を脱いだ瞬間を目の当たりにしたみたいだった。
ミナという少年は、小動物みたいに庇護欲を掻き立て、場を和ませるのが上手いのだ。内面は兎も角、外見が天使のように整っているせいだろう。翔も偶に腹が立つが、ミナの顔を見ていると殴る気も失せるのだ。多才な少年であるが、世渡りも上手い。
「翔くんも元気そうね」
「お蔭様で」
扉の向こうでは電話が鳴っている。
中々に繁盛しているらしい。
先日のお礼だと英語で言って、ミナが紙袋を手渡す。日本語を学んでそれなりに語彙も増えて来ているのに、何故なんだろうか。下手に喋ってボロが出るよりマシなんだろうか。
ミナと幸村が楽しそうに世間話するのを、翔は横で黙って聞いていた。英語混じりの話題に付いて行けなかった。話の主旨が少しずつずれて結論が出ない上に、話題がぽんぽん切り替わる。けれど、二人が楽しそうだったので、悪い気はしなかった。
「従兄弟のお兄さんは元気?」
誰のことだと首を傾げて、翔は慌てて誤魔化した。
そういう設定になっているのだ。翔はミナの友達で、立花は従兄弟。ついでに、先日の騒動はミナの家出ということになっている。
「喧嘩してるところなんだ。だから、その話はあんまりしたくない」
その嘘は後々困らないか?
翔が冷や冷やしていると、幸村が眦を釣り上げた。
「何かあったら、いつでも力になるからね」
要らぬところで不興を買わされた立花には同情しつつ、翔は目を逸らした。