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⑸鮮やかな怪物

 太陽の断末魔だんまつまが聞こえる。

 血のように真っ赤な夕日が街を染め上げ、死に行く太陽の腹を食い破って夜が顔を出す。


 小さな背中は公園を突っ切ると、公衆トイレの裏へ滑り込んだ。黄色と黒の衝立ついたてを擦り抜けると、地面には地獄の底みたいな闇がぽっかりと口を開けていた。


 なるほど、と翔は思った。

 ミナが迷いなく穴の中に踏み込んだので驚いたが、小さな手はふちを掴んでいる。翔は後ろから迫る足音を確かめながら、後を追った。


 下水道の中は思うよりも明るかった。

 工事途中なのか、其処此処に白熱灯が下げられている。足下には汚水が川を作り、トンネルの中に迷い込んだみたいだった。




「あの人は普通じゃない」




 下水を跳ねながら、ミナが言った。

 翔は頷いた。普通じゃない。感性とか倫理観とか目に見えない曖昧あいまいなものではなく、純粋な身体能力が普通じゃなかった。車のボンネットを踏み砕く脚力、三車線を跳び越える跳躍力、不意打ちに対応する反射神経、全身を包むはがねのような筋肉。とても同じ人間とは思えない。


 複雑に入り乱れる下水道を、ミナは迷いなく駆けて行く。そういえば、出会った頃からミナはウィローというドブネズミを追い掛けて三次元的な地図を作っていた。まさか、ウィローに感謝する日が来るとは思わなかった。




「ショウ、頼みがあるんだ」




 下水道内は声も足音も反響する。だが、上下左右と動き回るミナの行手をはばむのは簡単ではないだろう。




「ペリドットをかわす為に、君の力が必要だ。俺じゃ逃げ切れない」




 分かっている。ミナがノロマとは思わないが、体格が違い過ぎるのだ。自分の方が立ち回れる。




「何をすればいい」

「インカムで指示するから、俺の代わりにペリドットを誘導して欲しい」

「分かった」




 作戦の詳細を聞くべきなのかも知れないが、今は時間が無い。他に打つ手がない以上、自分に出来るのは信じることだけだ。


 リュックからインカムを取り出して、ミナが手を握った。

 冷たい手だった。濡れたままだから、冷えたのだろう。




「お前を信じるから、俺に任せろ」




 ミナは頷いた。

 その濃褐色の瞳に何が見えているのかは分からない。だが、疑うなんて選択肢は存在しなかった。













 5.夜のパレード

 ⑸鮮やかな怪物














 地上からは想定も出来ない程の空間が地下には存在する。

 其処には生活排水や雨水を流す道や、鉄道の線路が迷路のように複雑に入り乱れているらしい。薄闇に包まれる無人の通路は、時折、上下左右に道が分かれた。


 怖くもなければ、不安も無かった。

 耳に装着したインカムから聞こえるボーイソプラノが道標みちしるべのように導いてくれる。英語が混ざっても、翔にはミナの言おうとしていることが手に取るように分かる。何故だろうと考えてみて、ウィローの探索に付き合わされて来たからだと思い至る。


 耳を澄ませる。

 ミナの声とは別に、足音が聞こえた。それは彼方此方に反響して音の所在を惑わせる。ペリドットが追い掛けて来る。だが、狙い通りである。ミナの作戦の全貌ぜんぼうは分からないが、策があるというのは心強い。


 壁をう電源コード、せたコンクリートの壁。どうどうと響く水のうなり。




『Go straight and turn right at the end』




 既視感を覚え、翔はほくそ笑んだ。

 酷い圧迫感は、突如として消え去った。四角く切り抜かれた吹き抜けの空間に、あらゆる高度、方向から大量の水が流れ落ちる。息苦しいくらいの湿気だった。飛沫しぶききりとなり、視界が白く見える。

 凄まじい質量の水が流れ込む下水道の合流地点。道の先は途切れ、水面は遥か下方にあった。




「鬼ごっこはお終いか?」




 水の音に掻き消されてしまいそうな静かな声だった。

 水面を覗き込んでいた翔は顔を上げ、後ろを振り向いた。


 薄闇の中、翡翠ひすいの瞳が煌々と輝いている。

 国家公認の殺し屋、ペリドット。金髪碧眼の容姿とは裏腹に、その顔立ちは東洋のそれだった。日本人なのだろうか。いや、そもそも戸籍があるのかも分からない。




『Repeat after me what I say. ――貴方の目的は何?』

「……お前の目的は何だ?」




 訳も分からないまま、翔は繰り返した。

 ペリドットの金色の眉が跳ねる。




「どうして、あの子を狙う」




 ミナの言葉を復唱する。翔はポケットの中で集音スピーカーの音量を上げ、此方の音声が届くようにした。

 ペリドットは口角を僅かに釣り上げた。




「それが俺の仕事だ」

「国家の為なら殺人も肯定されるのか?」




 翔の言葉ではない。ミナの問い掛けだ。

 ペリドットは笑った。




「この国はそういう国だよ」




 それは崇高すうこうな愛国精神なのか、それともストイックな仕事観なのか。翔には判別が付かないし、きっと納得も出来ない。




「この国の人間は馬鹿なんだよ。テメェの命や家族が奪われようとしていても、気付きもしねぇ。俺はそんなお気楽に笑ってる馬鹿共も、権力争いにせわしない保身馬鹿も、大嫌いだ」

「だから、殺してもいいって言うのか」

「理由が必要なら、お前が納得出来るように解釈かいしゃくすればいいさ」

「……」




 呑気な一般人が気に入らないのも、保身ばかりの権力者が嫌いなのも分かる。そんな奴等が幾ら殺されてもどうでも良いし、国家が殺し屋を容認するのも勝手にすれば良いと思う。


 ミアも、同じことを言っていた。

 人の本質は悪で、人間は自然界のバグ。きっと、そうなのだろう。だから、平気で他人を裏切り、傷付け、殺し、呑気に笑っていられる。


 だけど、そんなことはどうでも良いことだ。

 答えなら、ミナが言っていた。

 全ての人がそうではないのだと。


 目の前で零れ落ちる命を助ける為に、己の身もかえりみず手を伸ばす奴もいる。何でもかんでも救える訳じゃないし、生きていれば良いというものでもないだろう。


 それでも、依頼さえあれば誰でも殺すことよりもどれ程マシで、救いがあるか。




「お前だって、その馬鹿の一人だ」




 つい、翔は言い返していた。

 それがペリドットの地雷を踏んだとしても構わなかった。




「どんな大義名分があってもお前はただの薄汚い殺人鬼で、いつか同じようにお前も殺される」




 スピーカーの向こうでミナの制止する声がする。

 挑発は悪手だっただろうか。

 翔が身構えていると、ペリドットは笑った。それは目を疑う程に美しく、穏やかな微笑みだった。




「そうかもな」




 刺すような戦慄せんりつが背中を突き抜ける。宝石のような緑の瞳は冷徹れいてつに輝き、翔の言葉など微塵みじんも響いていなかった。


 思慮も分別も常識も持ち合わせていないような軽薄さでありながら、容易く挑発に乗って来ない。


 この男の目的は、一体何だろう。

 ミアを殺すことにも、国家の為に尽くすことにも、価値を見出していないように思えた。ペリドットの声はまるで、草木の育たない砂漠のように乾き切っている。


 インカムからミナの指示が聞こえた。

 あの日と同じ言葉だった。翔は返事をする代わりに、インカムを二度指先で叩いた。


 カウントダウンが聞こえる。

 ペリドットの左手が持ち上げられ、黒い鉄の塊が白熱灯の下で仄かに光った。


 流れ落ちる水とミナのカウントダウン。

 拍動すら遠去かる程の静寂が訪れる。視界から色が消え失せて、ペリドットのエメラルドの瞳が浮かび上がる。カウントダウンが終わる、その瞬間、翔はペリドットに背を向けた。


 耳をつんざくような破裂音が木霊こだまする。放たれた銃弾がほほを掠めた。

 胃の中が引っ繰り返るような浮遊感だった。転落の最中、翔は小さな腕が伸ばされていることに気付いた。完璧に計算されたタイミングと位置だった。翔がミナの手を掴んだ時、頭の上で銃口が火を吹いた。


 それは、突然のことだった。


 この世の終わりかと思う程の激しい爆発音がとどろいて、吹き抜けになっていた下水の合流地点は真っ赤な炎に包まれた。瞬きすら追い付かない一瞬で、ペリドットの周囲は火の海と化した。

 気道が焼かれそうな程の熱風が破裂し、黒煙が空間を埋め尽くす。翔の体はコンクリートの壁に押し付けられた。だが、繋がれた手は離されないままだった。


 爆風が通り過ぎると、手を引かれた。

 翔はミナの腕を掴みながら、ほとんど自力で壁を登った。


 何が起きたのだろう。

 心臓の音を確かめながら、翔は薄闇に包まれた通路を眺めた。熱波の為にコンクリートの壁は焦げ、特に上部はすすで真っ黒だった。




「何が――」




 翔が問い掛けようとした時、頭上から銃声が聞こえた。

 ペリドットだ。この爆発の中、助かったというのか?


 その時、何処からか地響きがした。生命の危機を知らせるサイレンが頭の中で鳴り響く。


 壁に触れると、微かな振動を感じた。それは間隔を狭めながら、じりじりと迫って来る。


 コンクリートに亀裂きれつが走った。

 空間そのものが割れて行くような恐ろしい音が、津波のように辺り一帯を呑み込んで行く。不協和音が途切れた刹那の時、形容し難い崩壊の音が翔の世界を塗り潰した。


 何処かで、クリスマスソングが聞こえる。

 あわてんぼうのサンタクロース。懐かしさを覚えるそのメロディは、頭上から降り注いだ。


 振り返った時、翔は目を疑った。

 下水の合流地点に、焦げた巨大なクリスマスツリーが立っていた。コンクリート片と電源コードを巻き込み、玩具おもちゃみたいなオーナメントは間抜けに光っている。


 サイレンの音がする。

 クリスマスツリーに幾つものコードが引っ掛かっていた。電源コード、電線、電飾。そして、一台のテレビカメラが。


 翔は、そのクリスマスツリーに見覚えがあった。

 確か、駅前でクリスマスツリーの点灯式を行なっていた。カウントダウンでは今夜、テレビカメラに映され、華々しくライトアップされる筈だった。


 つまり、此処はあのクリスマスツリーの真下だったのか?

 地下を移動し過ぎて分からない。あの爆発は何だったんだ。

 説明を求めて見遣ると、ミナは前方をにらんだまま、メタンガスによる爆発だと教えてくれた。


 上からは分からなかったが、合流地点の地下には大量の生ゴミが沈んでいるらしい。流れ込む生活排水とヘドロからメタンガスが発生し、クリスマスツリーに塞がれたマンホール周辺に充満していたそうだ。


 ペリドットが発砲したことで火花が起き、引火し、爆発。炎と爆風はマンホールを中心に地表を吹き飛ばし、その上にあったクリスマスツリーを引きり落とした。


 カウントダウンのタイミングに合わせたのは、カメラがいたからだ。殺し屋という職業は秘匿性が高い。マスコミとの相性が悪い。

 カメラで中継されているこの時、この瞬間、ペリドットは追って来られない。立花なら出直す。ペリドットの任務は、失敗だ。


 服が焦げていた。せっかく、買ってもらったのに。

 そんなことを零せば、ミナは「また買えばいいよ」と苦笑した。


 その時だった。

 銃声が尾を引いて響き渡り、ミナの体がぐらりと傾いた。

 飛び散る血液がコマ送りに見えた。


 背中に冷たいものが走る。足元が抜けるような恐怖が駆け巡り、翔は瞬き一つ出来なかった。


 足音が、後ろからした。




「ガキの火遊びにしちゃあ、度が過ぎるぜ」




 翡翠ひすいの瞳が、炎のように揺れている。

 衣服は焦げ、ほほは黒く汚れていた。だが、その動きに揺らぎは欠片も無い。


 ミナの見通しが甘かった?

 翔の力が足りなかった?


 いや、違う。

 対峙して分かる。

 目の前のこの男が、常識の通じない正真正銘の化物なのだ。




「さっきの爆発は何だ? 何か仕込んでたのか?」




 まあ、何でもいいけどよ。

 ペリドットは独り言みたいに言って、銃口を向けた。


 ミナは下水道に倒れ込んだまま、起き上がらない。足元を流れる水が赤く染まって行くのが見える。

 倒れた反動でフードは脱げていた。ペリドットはいぶかしげに眉を寄せた。




「あれ? お前、ターゲットのガキじゃねぇな?」




 ミナは返事をしなかった。出来なかったのだ。

 歯の隙間から漏れ出すようなうめき声が、不気味に静まり返った空間に反響する。




「ああ、お前等、あの時の」




 ペリドットは嬉しそうに言った。

 再会を喜ぶ笑顔と、向けられた銃口が余りにもアンバランスだった。




「見所のあるガキ共だったが、残念だ」




 此処で死ぬのか?

 終わりなのか?

 自分の過去も取り戻せず、ミナも守れず、こんな薄汚い下水道で人知れず始末されるのか?


 翡翠の瞳は伽藍堂がらんどうだった。

 倒れたミナと動けない自分の姿を映しながら、ペリドットはまるで何処か遠くの世界を見ているみたいだった。




「生憎、国家の為だなんて考えたことも無くてね」




 そう言って、ペリドットはクリスマスツリーにぶら下がるカメラを撃ち抜いた。レンズの割れる音がやけに鮮やかに聞こえ、ミナのうめき声と重なって思考回路がぐちゃぐちゃになる。


 顳顬こめかみが、ずきりと脈を打った。

 視界が点滅する。頭蓋に亀裂きれつが入ったかと思う程の激しい痛みと、地面が揺れるような目眩に立っていられない。


 現実と記憶が交錯こうさくする。気道が潰れて、息が出来ない。

 赤い液体、倒れる子供、向けられた殺意。――ああ、俺は。


 ペリドットの姿がぐにゃりとゆがむ。

 其処で暗転し、翔の意識は消えて無くなってしまった。

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