⑶悪性細胞
静かな平日の街中を二台の車が走行する。
先導する黒い乗用車を、立花のBMWが追い掛けている。車内では立花とミナが暗号のように数字や記号を延々《えんえん》と喋っていた。時折二人が笑ったり、黙ったり、舌打ちしたりする。
霞ヶ関から車で二十分程走った頃、到着したのは寂れたビジネスホテルだった。閑古鳥の鳴くホテルの受付には顔色の悪い瘦せぎすの女が座っていて、自分達一行を見ると不審そうに睨んで来た。
依頼人の秘書が素通りするのを真似て、翔は後を追った。道中、立花とミナはずっと喋っていた。
古めかしいエレベーターの前で、ミナが言った。
「Check」
「違ぇ」
「オウテ」
「そう」
何の話をしているのかと思っていたら、どうやら彼等は目隠し将棋をしているらしかった。状況はよく分からないが、ミナが勝っているようだ。得意げなミナは子供らしくて可愛らしいが、立花は余裕の態度を崩さないので、手加減をしているのかも知れない。
「お前の桂馬は動きがめちゃくちゃ過ぎる」
「そんなことないよ」
「無軌道な人間性が透けて見えるぜ」
立花が吐き捨てた。大人げない。
ミナが不満そうに口を尖らせて何か文句を言っていたが、秘書が咳払いをしたので黙った。緊張感の無い奴等である。
普段は身軽なミナがリュックを背負っていた。小柄で童顔なので、遠足に行く子供みたいだった。
秘書は懐から鍵を取り出すと、ノックもせずに扉を開けた。途端、部屋の中から乾いた冷たい風が吹き抜け、翔の前髪を散らした。
扉を開けた先、薄暗い廊下があった。煤けた絨毯とシミだらけの壁、古臭いスイッチ類は時代を感じさせる。だが、床には無数のコードが蛇のように這っており、そのアンバランスさが酷く不気味だった。
部屋の奥、リビングから重低音が響く。
カチカチと鳴るその音が、事務所でよく聞いたパソコンのキーボードを叩く音だと気付き、翔は静かに深呼吸をした。
部屋のカーテンは閉め切られ、まるで夜の中にいるみたいだった。大きなディスプレイから溢れるブルーライトを、一つの影が遮っている。
暗闇の中でも分かる程の見事な金髪だった。
天の川みたいに波打つ金髪は、回転椅子の背凭れよりも長い。安っぽい薄ピンクのパーカーを着た後姿は、翔が想像するよりもずっと小さかった。
回転椅子に腰掛けた少女が振り返る。
「Hello」
少女は、はにかむように微笑んだ。気弱な印象を与える青い瞳は垂れ下がり、白磁のような白い頬にはソバカスが散っている。
金色の長い睫毛に彩られた青い瞳は、宝石のように美しかった。ミア・ハミルトンは、精巧に作られたビスクドールに似ていた。
「My name is Mia Hamilton, Nice to meet you」
差し出された手を取ったのは、ミナだった。
綺麗な英語で挨拶を返し、立花や翔の紹介をする。
「Do you speak Japanese?」
「Yes, of course. よろしくね、殺し屋さん」
ミアは立花を見て笑った。瞬きの度に触れる睫毛が音を立てるような気がした。
この子が、コンピュータプログラムの天才で、政府が秘匿する国家規模の重要人物。首都圏の大停電を起こし、母国から亡命して来たクラッカー。
ミナは握手を離すと、立花へ視線を送った。
「Anyway, この場所から離れた方がいいと思うんだ」
「そうだな」
「何で」
翔が尋ねると、溜息を零した立花に代わってミナが説明してくれた。
「此処は隠れ家みたいだけど、警備が甘い。防衛戦なら知り尽くした場所がいい」
「事務所に連れて行くのか?」
「いや、移動中に狙われる。目立つしな」
確かに、金髪碧眼の少女を連れて行くのは難しい。
待機も移動もリスクが高い。ならば、どうするというのか。翔には一つも案が浮かばなかった。
立花がミナを呼んだ。それだけでミナは心得たとばかりにリュックサックを下ろし、中へ手を突っ込んだ。
ミナが取り出したのは、ニット帽だった。カツラでも入っているのか、黒髪がくっ付いている。なるほど、変装させるらしい。
ニット帽を被ったミアは、最初の印象とは異なり、何処にでもいそうな少女に見えた。ミナと並ぶと、仲の良さそうな姉妹に見える。
フードを被ったミナが尋ねた。
「俺は残ろうか?」
「何で?」
「陽動になる」
「テメェに自衛の手段があるなら、いいぜ」
立花の中で優先順位は決まっているらしい。
例えミアが殺されて任務失敗となっても、ミナが死ぬよりはマシなのだ。それは翔も同じ思いだった。
濃褐色の瞳に怜悧な光が宿る。
ミナは不敵に笑った。
「ショウがいる」
途端、立花の金色の鋭い眼光に射抜かれた。
翔は怯えるべきなのか威張るべきなのか分からなかった。頼りにされているのならば応えたいと思うが、脅威の正体や規模が全く想定出来ないのだ。
翔の不安なんてそっちのけで、ミナは堂々と言った。
「俺は弱いけど、逃げ道を探すのは得意だ。でも、もしもの時の為に側にいて欲しい」
「……だってよ、翔」
ミナの案は利に適っている。立花としても、二人の子供を守りながら移動するよりは安全だ。
翔は拳を握り、頷いた。
「いいよ。俺がこいつを守る」
「決まりだな」
立花はミアを呼び、すぐに支度をするように言い付けた。ミアが回転椅子から立ち上がると、代わりにミナが座った。
ディスプレイには凄まじい量のアルファベットと数字が羅列されているが、翔には理解出来ない。ミナはキーボードを叩きながら、ディスプレイの端にウィンドウを開いた。
ホテル前の映像が浮かぶ。静かなものだ。
ミアはどうやら、この部屋の中で凡ゆる情報を獲得する術を持っていたらしい。ミナはそれを引き継ごうとしているのだろう。
年齢不詳のミナは兎も角、ミアという少女は16歳である。それがこんな政治の派閥争いに巻き込まれて、命を狙われ、同情の念が禁じ得ない。
「Wow……, It's very beautiful」
パソコンを操作しながら、ミナが目を輝かせる。頬を紅潮させ、感嘆の息を漏らすその姿は、まるでクリスマスプレゼントを貰った子供みたいだった。
「見事なプログラミングだ。これは芸術だね」
見て、と言われてパソコンを覗き込むが、全く分からない。夢中でパソコンを操作ながら、ミナが独り言のように言った。
「天才だ」
「でも、まだ16歳だろ。子供だ」
「俺の一つ下だね」
ということは、ミナは17歳なのか?
10代前半、中学生くらいだと思っていたが、単にチビで童顔だっただけらしい。
それでも、ミナは翔より年下で、未成年である。
不安要素が増えただけだ。
ミナは自分より年下であることが嬉しいようだった。思えば、彼の周囲は年上ばかりで、話も合わなかっただろう。翔を受け入れたのも、寂しかったからなのかも知れない。そんなことを思った。
ミナはディスプレイから目を離し、翔を見た。
「16歳は幼いと思う? 子供だと?」
「そうだろ。法律上は二十歳からが大人だ。お前もあの子も、子供だろ」
「俺が初めて人を殺したのは15歳の時だった。年齢なんてただの指標だ」
「……そうせざるを得なかったんだと思うけど、助けてやりたかったな」
ミナは驚いたみたいに目を丸めていた。
だって、そうだろう?
短い付き合いだが、ミナが進んで人を殺すなんて考えられない。止むを得ない理由や状況があったのだろう。
「翔みたいな人が大多数なら、子供が子供らしくいられる世界を作れたのかな」
過大評価だ。
翔は鼻で笑った。
5.夜のパレード
⑶悪性細胞
ミアが支度を終えたので、立花と秘書は特に言葉も無く扉へ向かった。ミナは監視カメラ映像を映し、周囲を探っている。一応、怪しげな人物は見当たらない。
「Hey you」
背中を向けたまま、ミナが言った。
立ち去る寸前のミアが立ち止まる。
「パソコンを見てたら、政府のHPのバックドアを見付けたんだけど」
バックドアとは、コンピュータのセキュリティに於いて正規の手続きを踏まず、不正に侵入する為の勝手口のことらしい。
「君は誰の味方なの?」
もしかすると、彼女は亡命ではなく、スパイとして潜入して来た可能性がある。
ミアは微笑んでいる。後ろめたいことなど一つもないと言うように、誇らしげに、堂々と。――それが、翔には気味が悪かった。
「幾つかのSNSにワームをセットしているね。これって、サイバーテロだよね?」
振り向いたミナは、全くの無表情だった。怒りも嘆きも無いフラットな口調で、彼女の真意を確かめようとしているようだった。
ワームとは自己増殖し、拡散していくプログラムらしい。データの破壊や流出を繰り返しながらパソコンからパソコンへ感染して行くという。
パソコンや携帯電話を使わない翔には余りピンと来ないが、現代のネット社会を鑑みると恐ろしい話である。
ミアは口角を上げ、言った。
「貴方、日本人?」
「いや」
「この国って面白いと思わない?」
ミアは無邪気な子供のようだった。
ミナは人形のように表情を固めて、言葉の先を促した。
「この国の人達の愛国精神は素晴らしいわ」
「……愛国精神なんて、今のこの国からは最も遠い感情だろ」
ミナが何も言わないので、代わりに翔が答えた。
戦時中でもあるまいし、今のこの国に愛国精神も日本人としての誇りも有りはしない。
ミアは薄く笑った。
「みんなそう思い込んでるんだわ。従順であることを謙虚と呼び、誇りを捨てることを迎合と言う。まるで、家畜小屋ね」
酷い言い草だ。
だが、反論出来なかった。今のこの国にはそういう側面がある。傷付けられることを恐れて武器を捨て、戦うことも情報の真偽を確かめることもしない。
「支配されることに慣れて、被害者意識を特権と思い込んでいるの」
「全ての人がそうだとは思わないよ」
ミナが言った。
けれど、ミアはすぐさま答えた。
「でも、大半の人はそうよ。誰かが何とかしてくれるって信じて、自分は火の粉の降り掛からない遠くから指を咥えて眺めているだけ」
「みんな自分の生活を守るだけで精一杯なのさ」
「守りたいのは世間体でしょ? 彼等は保身だけを考え、無条件に傷付けていい誰かを常に探しているの。自分の不満の捌け口として、体裁を守る為にね」
ミアの青い瞳は変わらず美しく輝いている。彼女には悪意も害意もない。ただ自分の見解を述べているだけだ。
「自由や平和は与えられるものだと信じているの。馬鹿でしょう? それが既に奪われたものだと気付いてすらいない。誰かを攻撃することに一生懸命だからね」
その通りだと、翔は知っていた。
誰かがドブに落ちれば一斉に石を投げ、声の大きい者の意見に引き摺られて自己を失くし、穿った見方や偏った考えをアイデンティティと勘違いしている。
しかも、傷付くことを恐れて自分は安全な場所から他人を糾弾するのだ。この世界は間違った情報で飽和している。それを確かめる術はない。
「人間の本質は悪だわ。他人を蹴落とすことでしか自分を承認出来ない精神構造を持ち、身を守る牙も鱗も持たず、生態系を乱しながら命の尊さを謳う。人は自然界のバグなの。私はね、それを観察したいの。ただそれだけ」
観察。
彼女にとって、クラッキングもハッキングも遊びなのだ。国家間の問題も政府の派閥争いもどうでもいい。面白いものを見付けたから突いてみたい。どんな反応をするのか確かめたい。ただ、それだけなのだ。
「君の見解は分かったよ」
ミナはそっと瞬きをして、回転椅子に凭れ掛かった。対してミアは、それを観察しているように見えた。何となく居心地が悪くて目を眇めた、その瞬間。
ディスプレイが真っ赤に染まった。
緊急事態を知らせるサイレンの中、ミナがくるりと椅子を回転させる。身を乗り出した立花がミナの肩越しにディスプレイを睨んだ。
「どうした」
「Intruder」
「何処だ」
ミナがキーボードに触れると、ディスプレイには地図が表示された。黒い画面に浮かぶ緑色の図は、ビジネスホテルの内部らしかった。
サブディスプレイに監視カメラ映像が映る。先程通過した受付だ。煤けた白い壁に赤い飛沫が散っている。黒い地図上に赤い点が群れを成して迫って来るのが映っていた。
「早過ぎる」
立花が舌打ちを漏らした。
どうやら、何者かが此処へ迫っているらしい。少なくとも味方ではなさそうだ。
狼狽する秘書を押し除けて、立花が扉を睨む。
「立て篭もるメリットは無いな。逃げるぞ」
当初の計画はご破算だ。
腰を上げたミナの横で、翔は頷いた。
ふと、横目にミアを見た。
金色の髪の隙間から、青い瞳が輝いている。表情は見えない。だが、翔には、それが笑っているように見えた。