⑵毒杯
見上げる程に大きなクリスマスツリーの天辺に、金色の星が輝いている。毒々しいまでの電飾に彩られ、その下品な佇まいは繁華街にお似合いだった。
二つの紙袋を下げ、翔は街を歩いていた。
国家直々の依頼を受ける為、打ち合わせ先の料亭に相応しい服を購入したところだった。
立ち並ぶ高級ブティックは、来たるクリスマスに向けてセールを催していた。そんな中、ミナはクレジットカードの一括払いで三つ揃いのスーツとシャツ、ネクタイとベルト等、一式を購入した。ファッションや流行について翔は全くの無知で、付き添いで来たミナに支払いもコーディネートも任せきりだった。
流石に荷物くらいは持つことにしたが、会計時に提示された金額の大きさに度肝を抜かれ、今も冷や汗が止まらない。量販店のスーツで良かったのではないかと後悔している。
ミナは隣でスキップをしていた。
踊り出しそうな軽い足取りで、鼻歌の一つや二つ、聞こえて来そうだ。普段着のパーカーを脱いだミナは、褪せた水色のシャツと細身のデニム、赤いハイカットのスニーカーを履いていた。上から羽織っただけの紺色のPコートが垢抜けていて、擦れ違う人が振り返るような美少年だった。
今回の会計は経費で落とすことが出来るらしい。
そんなことを言って、ミナは翔の普段着も幾つか買ってくれた。名だたるブランドの品らしい。会計に手慣れていたので、ミナはもしかすると何処かの裕福な家の子供なのかも知れない。
「Hallelujah……」
ミナがまたあの歌を口ずさんでいる。
クリスマスイルミネーションの中、ミナの周囲だけが聖域のように静まり返っている。透き通るようなボーイソプラノは、恐ろしいくらい伸びやかで、鳥肌が立つ程に綺麗だった。
街角で配られる色とりどりの風船が、寒風の中で揺れている。何かのキャンペーンなのか、風船を配る男はサンタクロースの服を着ていた。雪でも降りそうな曇天の下、それは春の野原に咲くチューリップのように見えた。
ミナの歌声がハミングに切り替わった。歌詞を忘れたのだろうと思うと、おかしかった。
小さな少女が風船を受け取り、嬉しそうに口元をむずむずさせている。父親がその頭を撫で、赤子を連れた母親は店員に礼をした。
「お前の家族って何してんの?」
「何で?」
「クリスマスは、家族で過ごすもんなんだろ」
街は何処もかしこも家族連れで賑わっている。クリスマスプレゼントを吟味する父親と、大きな包みを抱えた子供。ケーキ屋ではクリスマスケーキが売られ、彼方此方にクリスマスのモニュメントが飾られている。
ミナは顎に指を添え、少し考えるようにして言った。
「家族揃って祝ったことはあんまりなかったよ。うちはキリスト教じゃなかったからね」
「外人は皆、キリスト教だと思ってたよ」
「そうかもね。俺もこの国に来るまで日本人は皆、仏教徒だと思ってた」
あながち間違いではない。
この国の人間は宗教に対して寛容だ。神様さえも海外から輸入してしまう程度にはいい加減である。
「家族って、いいもんだねぇ」
ミナはそんなことを言った。その視線の先は、街を行く家族に向けられている。憧憬なのか羨望なのか、翔には分からなかった。
その時、風船が空に浮かんだ。
子供の手を離れたそれは寒風に煽られ、あっという間に離れて行く。小さな手が風船を追い掛け、子供は車道に飛び出した。
甲高いブレーキ音が鳴り響いた。
ミナが振り返る。急ブレーキを踏んだ乗用車が乾いたアスファルトの上を勢いよく滑った。街路を埋め尽くす人々から悲鳴が上がる、刹那。翔は地面を蹴っていた。
「ショウ!」
ミナが叫ぶ。
立ち竦む子供に向かって、翔は手を伸ばした。
あとほんの少し、あと一瞬。
アスファルトを滑る車体が子供を呑み込む。水の中にいるみたいに息が苦しくて、体が重い。
あとちょっと、もう少しだけでいいから!
翔は奥歯を噛み締めた。その手が触れる寸前、一陣の風が頬を撫でた。
甘い香りが鼻を突く。首根っこを強く引かれ、気付いた時には路上に倒れていた。隣に倒れた子供がわっと泣き出す。同時に、何かに衝突するような鈍い音が聞こえた。
そして、翔は曇天を横切る一つの影を見た。
制御を失った乗用車のボンネットを踏み付け、それは鳥類が飛び立つように鮮やかに跳躍する。
既視感を覚える、若い男だった。
短い金髪が夕陽を反射する。その指先は飛んで行く風船の紐を捕まえると、軽々と宙返りして猫のように着地した。
泣きじゃくる子供に風船を差し出して、その男は地面に膝を突いた。
「今度は手を離すんじゃねぇぞ」
諭すように、その男は言った。子供が涙を拭って受け取ると、その頭をくしゃりと撫でた。
慌てて駆け寄った来た家族が、何度も何度も頭を下げる。周囲からは歓声と賞賛が溢れ出し、割れんばかりの拍手が包み込んだ。
翔はボンネットを見遣った。どのくらいの力で踏み付けたのか、装甲がひしゃげている。これが人間なら青痣では済まないだろう。
その時、囃し立てる通行人を掻き分けてミナが現れた。凄まじい存在感に周囲の人々が振り返り、その整った相貌に息を呑む。けれど、その小さな子供は構わず翔の肩を掴んだ。
「Are you alright?」
ミナの手は微かに震えていた。
今にも倒れそうな蒼白な顔で、真っ先に自分のことを心配してくれる人がいる。この子供がどれだけ心配をしたのかと思うと申し訳なくて、顔が上げられなかった。
拍手喝采を受けながら、その男は蹲るミナの背後に立った。夕日を遮る大きな影に、エメラルドみたいな双眸が光っている。
「無事か?」
落ち着いた大人の声だった。
緊張と動転に強張る心が解けるようだ。翔は尻餅を突いたまま、頷いた。
「勇気は買ってやる」
その男の瞳は、宝石のように美しかった。
海外で見るようなエメラルドグリーンの海を彷彿とさせる。だが、それは同時に透き通る水晶のような冷たさも感じさせた。
ミナは深呼吸をすると、振り向いた。
「Thank you for your help」
「You're welcome?」
エメラルドの瞳が眇められる。それはまるで、見えない何かを品定めしようとしているようだった。
行こう、とミナが手を引いた。
逃げようとしているみたいだった。違和感を覚えながら、翔は追及することが出来なかった。エメラルドの瞳が見詰めている。翔は視線を遮るつもりで会釈して、ミナを隠した。
5.夜のパレード
⑵毒杯
畳の敷かれた応接間は、呼気すら聞こえそうな程に静かだった。光沢のある黒塗りのテーブルを囲み、座椅子が四つ。テーブルの上には鯛の活け造りが広げられ、煮物や和物は小鉢で並び、まるで飯事みたいに見えた。
繊細な切子硝子のお猪口に、透明な液体が注がれる。アルコールの匂いが微かに漂う。依頼人らしき男は、高そうなスーツを着て立花に酒を勧めた。
打ち合わせ先の料亭は首都にありながら、山奥の旅館みたいな佇まいをしていた。応接間からは砂利の敷かれた庭が一望出来る。何処かで鹿威しの鳴る音が木霊して、時間や空間の認識を揺らがせる。
座椅子に座っているのは、四人。
立花とミナ、依頼人とその秘書らしかった。翔は椅子を勧められたが、いざという時に動けないのは困るので断った。障子の向こうにはSPらしき男が二人。どちらも格闘技をしているような体格で、懐に武器を隠し持っているようだった。
観察していて分かることがある。
外にいる二人は玄人だ。しかし、彼等は素人同然の翔に悟られる程度の実力で、殺気も気配も感じさせない立花とは、天と地程の実力差がある。
「会えて嬉しいよ、三代目」
依頼人が言った。
彼等は名乗らなかった。名刺の一枚も差し出さず、柔和な笑顔を浮かべている。
立花は酒に手を付けず、黙って話の先を促した。
肌がひりつくような緊張感に満ちている。伊達眼鏡を掛けたミナがにこにこと微笑んでいるが、それがより不穏な空気を作り出していた。
「或る要人の護衛を頼みたいんだ」
依頼人は懐から一枚の写真を取り出し、机に並べた。
翔はミナの肩越しに写真を覗いた。
女の子だった。
金髪碧眼で、柔らかな笑顔を浮かべている。長い髪は波を打ち、頬に散ったソバカスは幼さを感じさせる。
日本人でないことは確かだった。
「名前はミア・ハミルトン。16歳」
立花は写真を拾い上げ、吟味するように眺めた。
隣からミナが覗き込む。立花は問い掛けた。
「こいつが何なんだ?」
「要人だよ。国家にとってね。……覚えているかい、三年前の首都圏の大停電を」
ミナが分かり易く首を捻る。
三年前、ミナはまだこの国にいなかったのかも知れない。
「あれは一人のクラッカーによるサイバーテロだった。そして、この子こそが、そのクラッカーなんだよ」
クラッカーとは、パソコンからシステムやネットワークに侵入し、プログラムの破壊やデータを盗むような悪質な不正行為を行う犯罪者らしい。
ミナも似たようなことをやっているが、破壊行為をしないという点からクラッカーではなくハッカーに分類されるそうだ。
不機嫌そうに腕を組んだ立花が、低く吐き捨てた。
「うちはSPじゃねぇ」
「護衛は表向きの依頼さ。君に依頼したいのは、彼女を狙う脅威の殲滅だ」
脅威の殲滅とは小難しい言い方をしているが、早い話、皆殺しにしろということだろう。
納得のいかないらしい立花はなおも問い掛けた。
「そっちには子飼いの殺し屋も、工作員もいる筈だ。隠蔽は国家の得意技だろ。なんでわざわざ俺に依頼する?」
明け透けな言い方に、依頼人が苦笑した。
隣に座っていた秘書らしき男が、滔々《とうとう》と答えた。
「亡命して来た彼女を確保したのは公安だ。だが、国家も一枚岩じゃない。穏健派もいれば、革新派もいる」
「アンタ達はどっちだ?」
「我々はね、彼女を戦力にしたいんだ」
依頼人は薄く笑った。
つまり、彼等はミア・ハミルトンというクラッカーを外交に利用したい革新派だ。保守派との派閥争いの末、彼等は敵対勢力の殲滅を外部に委託している。
彼等は、子飼いの殺し屋や工作員を使わないのではなく、使えないのだ。それは、脅威の正体が国家であることと同義である。
「ミナ、どう思う?」
突然、話を振られたミナは、ぴんと背中を伸ばした。いつもならミナや翔の意見なんて立花は求めなかった。彼は変わって来ている。そう思うと、翔は状況も忘れて感動すら覚えた。
部屋中の視線を受けながら、ミナは静かに言った。
「毒を以て毒を制するやり方は、また新たな毒を齎すだろうね。彼女に会ったことがないから分からないけれど、ただ利用されるだけの人間とは思えない」
「では、死刑を望むのかい? 危険だからと遠去けるばかりでは、武器の使い方を学ぶことは出来ないよ」
秘書らしき男は得意げに言ったが、ミナは納得した風ではなかった。立花は溜息を一つ吐き出すと、背凭れに体を預けた。
「そっちがハヤブサを指名している以上、依頼は受ける。まずはそのガキに会わせろ」
依頼人はにこやかに微笑んだ。
居心地が悪く、息苦しい。まるで彼の手の平の上で弄ばれているみたいだ。
剣の腹を裸足で歩くような緊張感の中、ミナが立花の袖を引いた。
「もういい?」
唸るように立花が返事をすると、ミナは両手を合わせた。いただきます、と元気よく声を上げると箸を手に取った。誰も手を付けようとしなかった皿を引き寄せると、状況もマナーも無視して食べ始めた。
ほうれん草の白和えを大口で頬張ると、下を向いて一生懸命に咀嚼する。カジュアルな食べ方に毒気を抜かれ、緊張の糸が僅かに弛緩した。
「美味しいねぇ」
満面の笑みでミナが言った。
これだけ美味そうに食べられたら食材も幸せだろうな、と翔は思った。