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⑷癒えない傷

 都心から離れた田舎町いなかまち過疎化かそかが進み、駅前の商店街も殆どがシャッターを下ろしていた。耳が痛くなるような静寂を、等間隔に響く電車の音が優しく埋めて行く。


 すすけた団地群は死んだように静まり返り、赤く錆びたベランダの欄干らんかんに洗濯物がぶら下がっている。一応、住民はいるらしい。


 五階建ての団地の間にはそれぞれ駐輪場があった。雨除けは錆び切っており、元の色も分からなければ、雨漏りも酷そうだった。

 いびつなアスファルトの道に、子供がしゃがみ込んでいる。何をしているのか足元に目を落とし、振り返る様子も無い。


 小さな背中だった。

 風が吹けば飛ばされそうな、そんな儚い少女だった。

 大量生産された衣服をまとい、ボロボロのスニーカーを履いている。孤児とまでは言わないが、少なくとも生活に余裕がある家庭の子供には見えない。


 ショウは待っていて。

 団地群の前で立ち止まったミナが、そんなことを言った。翔はうなずき、子供に近付いて行くミナの背中を見詰めた。


 依頼人――白滝奈緒子の娘、上杉心音。

 両親は先月に離婚し、彼女は先週まで入院していたが、今は退院して父親と暮らしている。住所を調べ上げたミナに連れられて、翔はその少女の元へ向かった。


 ターゲットと接触するのはリスクが高い。必要なのは行動範囲や交友関係、スケジュール、地域の地図だ。ターゲットの事情なんてものは立花の仕事には必要がない。


 ミナは依頼人に会いたがっていた。だが、仕事熱心な依頼人は多忙で、密かに接触することは難しかった。一応、NDAの説明をしたいと連絡を入れたらしいが、未だに返事はない。


 口座に入金されていたらしいから、依頼を断ることは出来ない。どうあっても、立花はこの少女を殺すのだろう。

 殺されると分かっていながら、ミナは何をしようというのだろう。人を救いたいと願うそのエゴが、彼をむしばみ殺してしまうのではないかと思うと恐ろしかった。


 ミナは少女の正面に回り込むと、あふれるような笑顔で声を掛けた。翔は二人のやり取りが聞き取れる位置に移動した。少女――心音は、何も感じていないような顔で瞬いただけだった。

 まるで、人形だ。みのおさげを地面に垂らし、その子は伽藍堂がらんどうの瞳でミナを眺めている。




「何をしてるの?」

「蟻を見てるの」

「アリ? ああ、Antか」




 心音の足元には、黄金虫コガネムシに群がる蟻がいた。

 黄金虫コガネムシは死んでいるらしい。蟻がその羽や脚をバラバラに千切って、巣穴へと運んでいる。




「虫が好き?」

「分かんないけど、見てると楽しい」

「分かるよ」




 二人はそんな他愛もないやり取りをして、足元へ目を落とした。彼等の周囲だけ、現実から切り離されたかのように静かで、ゆっくりと時間が流れているように感じられた。




「一人なの?」

「お父さんは家にいるよ」




 心音は団地を指差した。平日の真昼間に自宅にいながら、四歳の娘を放置するなんて、警戒心が足りないんじゃないか。

 翔は彼等の会話に割り込みたい気持ちを押し殺し、数メートル離れた先から見守った。




「病気は治ったの?」

「うん」




 いきなり直球でミナが尋ねた。少女がうなずいたから良かったものの、これが大人だったなら警戒されただろう。




「パパが言ってた。ドナーが見付かったから、心音は助かったんだよって。だから、命を大切にしないとダメだよって」




 ドナーということは、移植手術を受けたのか。

 益々、遣る瀬無かった。そんな少女が殺されようとしているのに、助けるどころか加担する自分達は何なのだろう。




「心音はねぇ、大きくなったらお医者さんになるの。心音と同じ病気の人を助けてあげるんだよ」

「いい夢だね。きっと、叶うさ」




 ミナは心音の頭を撫でた。

 それをどんな気持ちで言ったのかと思うと、胸が痛かった。




「お兄ちゃんは?」

「俺? 俺はねぇ、そうだなぁ」




 ミナは腕を組んだ。

 少女のような容姿なのに、心音にはミナが男だと分かるらしい。子供の観察眼が優れているのか、会話の中で察したのか、どちらにせよあなどれない相手だ。




「誰かを幸せしたいな」




 何だ、そりゃ。

 漠然ばくぜんとして曖昧あいまいで、意味不明の答えだ。だけど、それがミナにとっての真実なのだろう。

 心音は其処でようやく表情を変えた。ぎこちない笑顔だった。




「お兄ちゃんは、ヒーローになりたいの? パパが言ってたよ。誰かの幸せを守る人を、ヒーローって言うんだって。だから、お医者さんもヒーローなんだよ」

「……」

「それにね、まだ叶わなくても、誰かを幸せにしたいと思う人は、ヒーローになれるんだって」




 得意げに心音が言うと、ミナが表情を曇らせた。

 泣きそうな笑顔で、小さな手の平が心音の頭を撫でる。




「お兄ちゃんは、ヒーローなの?」

「……分からない。でも、そうありたいと思ってる」




 それを、どんな気持ちで。

 翔は空を見上げた。その時、神風を思わせる突風が吹き抜けた。ベランダに干された洗濯物が音を立てて揺れ、すり切れそうな一枚のシーツが空に舞った。


 ほとんど条件反射で、翔は地面を蹴った。

 二人の上に覆い被さろうとするシーツを引っ掴もうと手を伸ばす。日差しをさえぎったシーツがミナと心音の上に落ちる、刹那。


 耳をつんざくような悲鳴がほとばしった。


 心音は身を守るように両腕で頭を抱え、悲鳴を上げた。驚くにしても過剰な反応だった。シーツを捕まえた翔は、何が何だか分からないまま立ち尽くしていた。




「Go down!」




 切羽詰まったミナの声が轟いた。

 ミナは翔と心音の間に割り込むように立ち塞がった。恐慌状態に陥った少女は、死人のような蒼白な顔付きで震えていた。


 小さな唇がしきりに何かを呟いている。

 耳をそばだてる。それは、謝罪の言葉だった。


 破裂音みたいな音がして、団地の扉が開いた。

 少女の名前を叫びながら、一人の男が転がる勢いで階段を降りて来る。


 男は震える心音に駆け寄ると、その双肩を掴んで抱き寄せた。眼鏡を掛けたせぎすの、けれど、何処か優しい顔付きの男だった。


 心音がパパと呼んだ。

 成る程、確かに面影おもかげがあった。


 ミナは翔をかばうように両腕を広げていた。

 父親らしき男が睨み付ける。ミナは心音の側にひざを突いた。




「俺達は君を叩いたり、傷付けたりしないよ」




 嘘偽うそいつわりでは出せない誠実で慈愛に満ちた声だった。こんな声を出せる人間はそういない。翔は栗色くりいろの頭を見下ろしながら、何故か自分のことのようにほこらしくなった。


 男はしばらにらんでいたが、一先ひとまず警戒を解いたのか溜息を吐いた。そして、心音が騒いだことを謝罪した。

 ミナはそれを押し留めて、翔の代わりに事の経緯を説明した。翔の手にシーツがあったので、納得したらしかった。


 男――上杉は、頭を下げた。

 心音を連れて自宅に戻って行くのを、ミナと二人で見送った。


 最低限の接触にするつもりだったのに、失敗した。シーツが落ちて来たくらい何だってんだ。怪我するはずないのに。

 翔が自己嫌悪していると、ミナが乾いた声で言った。




「……あの子は、暴力を受けて来たんだろうねぇ」




 暴力?

 翔が復唱すると、ミナはうなずいた。




「だから、誰かが手を上げると叩かれるんじゃないかとおびえる。自分に非がなくても怒られない為に謝るし、感情を出さない」




 調べたんだ。

 ミナが言った。


 上杉夫妻は先月に離婚した。原因は妻――白滝奈緒子による娘の虐待だった。

 先天性の心臓病で通院しており、治療には莫大ばくだいな金が掛かった。両親は身をにして働いたが、ドナーが現れないことを悲観した母親は娘を虐待するようになった。


 離婚成立後、母親は娘へ接触することを禁じられた。

 ドナーが現れたのは、離婚成立後、先週のことだった。


 白滝奈緒子は、それを知らなかったのだ。

 ならば、娘が退院したことを教えてやるべきではないかと思った。白滝が依頼を取り下げれば、立花は心音を殺さなくていい。この家族は再生出来る。


 けれど、ミナはそれを否定した。




「心の傷はそう簡単にえはしない」




 例えそうだとしても、冷たいなと思った。

 両親がいるに越したことはないだろう。母が心を入れ替えて娘を守ると言うのなら、何よりじゃないか。


 ミナが断言したのは、実体験の為だろうか。

 尋ねなかったのは、それが彼の心の柔らかい部分を傷付けるかも知れないと思ったからだ。言い返さなかったのは、ミナが家族の再生そのものを否定している訳ではないと思ったから。


 どんな傷も、時間が経てば、やがてえる。翔はそう信じたかった。そうして、目の前のこの子が救われたらいいと、願った。














 4.小さな掌

 ⑷癒えない傷













 依頼人に会えるよ、とミナが言った。

 それは丁度、事務所のある繁華街に電車が到着した頃だった。


 改札には向かわず、都心に向かって電車を乗り換えた。人混ひとごみに疲れたのか、ミナはまた寝ていた。

 目的地に到着した頃には既に日は落ちていて、辺りは真っ暗だった。夜のオフィス街は静かで、冬の気配が其処此処から感じられた。


 依頼人から指定されたのは、駅の近くの喫茶店だった。眠そうなミナを引っ張って到着した頃、時刻は午後八時を過ぎており、ずっと歩きっぱなしだったので疲れていた。


 喫茶店は殆ど満員だった。一人客が多く、会話は聞こえない。時折、コーヒーマシンの稼働音や店員の業務連絡が聞こえるくらいで、あとは静かだった。


 店の奥にあるボックス席に、白滝が座っていた。

 テーブルに置いた携帯電話を小難しい顔でにらんでいる。ミナが声を掛けると怪訝けげんそうな顔をしたが、翔の姿を見て「ああ」と短く言った。


 座ってもいいですか、とミナが尋ねる。

 白滝が短く促すと、ミナは窓際に座った。席を詰めてくれたので、翔もその隣に座った。




「貴方が事務員?」

「はい。NDAの説明が欲しいと聞いたので」




 ミナはにこにこと話したが、白滝はいぶかしんでいた。

 殺し屋の事務所の事務員には見えないのだ。翔にとっては見慣れた反応だった。


 むしろ、ミナが敬語を使えたことに驚いていた。




「書面は紛失のリスクが高いので、Mailで送ります。手付金が振り込まれているのは確認しました」

「ええ……」




 白滝は静かだった。

 流暢に話すこの子供が何者なのか、信頼に値するのか見定めようとしているようだった。




「読み上げますか?」

「いえ、結構よ。メールを送って」

「分かりました」




 ミナは携帯電話を取り出すと、何か操作した。すぐに白滝の手元で携帯電話が震えた。

 知ってはいたけれど、本当に優秀な事務員らしい。翔はその仕事ぶりを眺めながら、自分には無理だと早々に諦めた。




「文書は複製も印刷も出来ません。確認出来ましたら、最後の項目に署名をして下さい。あと、そのデータは署名後に此方へ送信され、自動的に削除されます」




 白滝は眉を寄せた。




「自動的に削除ってどういうこと? それじゃあ、貴方達が契約に従うか分からないじゃない」

「それはお互い様です。貴方が依頼人から恐喝屋にならないとも限らないので」




 緊張感が走る。

 白滝は短く溜息を吐いて、携帯電話に目を落とした。

 彼女がデータを確認するのを、翔は静かに観察していた。


 心音は見窄みすぼらしい服装をしていたし、彼等は幽霊団地で暮らしていた。生活は楽ではなさそうだった。それに比べて、彼女は都心部でキャリアを積み、熱心に仕事をしている。

 上杉家は夫よりも妻の稼ぎの方が良かったのかも知れない。そんなことを考えた。


 白滝が携帯電話を置いた。途端、今度はミナの携帯電話が震えた。




「契約書にあった通り、このデータは契約以外には使用致しません」

「ええ」




 携帯電話をポケットに入れたミナが、ほっと息を吐いた。敬語が使えるのだと思ったが、もしかしたらテンプレートを暗記しているだけなのかも知れない。


 注文もせずにミナが退席しようとしたので、翔はつい、不要なことを言ってしまった。




「アンタの娘、退院したらしいぜ」

「何?」

「ドナーが見付かって、治ったそうだよ」




 これで、白滝が娘を殺す動機は無くなったはずだ。

 依頼を取り下げてくれ。頼むから。

 祈るような気持ちで翔が言うと、白滝は窓の外へ視線を投げた。




「それは良かったわ」

「なら、」

「依頼は取り下げないわ。だって、契約書に書いてあるもの」




 どういうことだ。

 翔がにらむと、ミナが説明した。




「口座への振込が確認された時点で、依頼は受理される。依頼の取消は出来ない」

「私はもう署名してしまったもの」

「何だよ、それ!」




 こんな時くらい、融通ゆうずうを利かせろよ!

 翔はテーブルを叩いた。皿の上でコーヒーカップが跳ねる。店員の目が此方を向いたので、翔は慌てて手を下ろした。




「娘を愛していた?」




 ミナが問い掛けた。

 過去の形を取ったのは、何故なんだろう。翔はそんな些細ささいなことが気になった。




「愛しているわ。今もね」

「貴方にとって、家族って何?」




 酷く落ち着いた声だった。

 闇の中を手探りで一本の糸を探すように、ミナが問い続ける。白滝は答えなかったし、答えられなかったのかも知れなかった。


 テーブルに手を突いて、ミナは腰を浮かせた。




「……帰ろう。此処にはいたくない」

「ミナ?」

「早く」




 ミナに急かされて、翔は席を立った。

 白滝は優雅にコーヒーを飲んでいる。其処には後悔も迷いもない。その余裕が、理解出来なかった。


 喫茶店を出た後、ミナが言った。




「あの人は嘘を吐いている」

「嘘? 何が嘘なんだ」




 ミナは答えなかった。

 立花に相談するとだけ言って、あとはずっと無言だった。

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