⑶エゴイストの理想論
ターゲットの病室は、無人だった。
古びたベッドの骨組みに、煤けたマットが敷かれている。開け放たれたカーテンの向こうには青空が広がっていて、鱗雲が浮かんでいるのが見えた。
「What a strange thing」
「あ?」
「依頼人の情報では、此処に入院しているはずだったのに」
頭を掻き毟り、ミナが何かを呟いた。
英語だったので分からなかったが、スラングに近い悪態だったのだと思う。
依頼人が嘘を教える意味はない。では、間違えたのだろうか。難病に苦しむ娘の入院先を間違えるなんてことがあるのだろうか。
「病院の人に訊こう」
「いいのか?」
ミナは印象的な子供である。突出した特徴はないが、一度見たら忘れられない整った容姿だ。立花の仕事内容を考えると、後々面倒なことになるかも知れない。とは言え、翔が聞き回ったらそれこそ事案である。
どうしたものかと迷っている内に、ミナはフードを深く被って看護師の元に駆けて行った。こういう時の行動力は流石だが、無鉄砲過ぎて余り褒められたものではない。
戻って来たミナは、梟みたいに首を捻っていた。嫌な予感がして、翔はすぐに問い掛けた。
「何だって?」
「退院したって。先週」
先週?
では、依頼人の情報は最新ではなかったということか?
何故?
ミナは顎に指を添えていた。
「もう一つ気になることがあるんだけど」
「何だ?」
「名前がね、違うんだよね。Last nameがさ」
「ラストネーム?」
「日本語ではなんて言うんだっけな。レンジのタチバナとか、ショウのカンダみたいな」
「ああ、苗字か」
「Yes, exactly!」
ミナが指を鳴らした。器用な子供である。
苗字が違うとはどういうことか。
翔が考えられる可能性は二つである。一つは、依頼人が間違えた。もう一つは、離婚して苗字が変わった。
前者の可能性は低かった。実の娘を殺して欲しいなんて普通じゃない。そんな娘の名前や入院先を間違えるとは思えないのだ。
では、後者である場合。
それは一体、何を示すのか。
答え合わせをしないまま、病院を出た。
帰り道の路線を調べなければならないが、それよりも依頼内容の方が優先だった。
「……手付金が支払われてる」
愕然と、ミナが言った。
依頼が正式なものだという証明らしい。断ることは出来ないのだ。
ミナは暫し携帯電話を眺めていた。
「レンジに相談しよう。この依頼は、なんだか変だ」
4.小さな掌
⑶エゴイストの理想論
駅は閑散としていて、利用客も疎らだった。田舎の駅とはこういうものなのだろう。時間がとてもゆったりと流れているような気がする。
二人で電車に揺られていたら、不意に隣のミナが寄り掛かって来た。大きな瞳には瞼が下り、穏やかな寝息が聞こえた。
起こさないように姿勢を直し、翔は依頼のことを思い返していた。
事務所に突然やって来た女は、高圧的だった。思い返すと、キャリアを積むことに執着しているようなストイックさと、いきなり泣き始めるヒステリックな感じがした。同じキャリアウーマンでも、高梁や幸村とは違う。力強さはあったが、信念みたいなものが感じられなかった。
立花は乗り気ではなかったような気もする。
押し切られたのだろうか。
寝惚けているミナを連れて電車を乗り換える。再びミナが船を漕ぎ始めた頃、漸く見覚えのある景色が見えた。繁華街が近付くと人が急に増え、息苦しくなる。
改札を出ると、ミナが急に覚醒したみたいに動き出し始めた。携帯電話を片手に焦っているようだったので何かと思ったら、ウィローが近くにいるらしい。
そのまま走り出しそうだったので首根っこを押さえていたら、今度はミナが動きを止めた。フレーメン反応の猫みたいだった。
ミナに案内されるまま駅の裏から通りを抜けると、狭苦しい路地裏に立花が立っていた。駆け寄るミナは、飼い主を出迎える子犬みたいに見えた。
翔はコンクリートの壁に寄り掛かり、ミナの調査報告に耳を傾けた。立花が相槌の一つも打たないので、自分なら途中で話すのを止めていたかも知れないなと思った。
立花の金色の目が鋭く光った。
「……それが何なんだ? 依頼人は金を払った。俺は依頼を遂行する。依頼人の情報が間違っていたとしても、嘘だったとしても、関係ないだろ」
分かってはいたけれど、と翔は歯噛みした。
依頼内容がどれだけ良識から外れた非人道的なもので、依頼人が最低最悪のクソ野郎だったとしても、金さえ払えば立花はそれを遂行する。例外はなかった。
「情報が正確で最新じゃないなら、お前が調べればいい。それだけの話だ」
ミナが黙ったので、翔は身を起こした。
「元々はテメェが勝手に受けた依頼だろうが。ミナに尻拭いさせて、テメェは一体何様なんだよ」
「ショウ」
庇わなくていい。
ミナが言った。
「引き続き調査はする。俺が選んだ道だ」
「ああ」
「行こう、ショウ」
ミナが袖を引いた。
立花は何も言わなかった。ライターの着火する音が聞こえたが、翔は振り返らなかった。
ミサイルみたいにミナがぐんぐん歩いて行く。何処に行くのかと思ったら、事務所に戻って来た。何も言わずにパソコンの前に座り、あの超人的な集中力を発揮し始めたので、翔は声を掛けられなかった。
何か出来ることはないだろうかと思い立って、給湯室に行った。見様見真似でハーブティーを淹れてみたが、薬剤みたいな変な臭いがした。
「Gotu Kolaの匂いがする」
集中状態から醒めたらしいミナが言った。
「GingerとPeppermintと、Dokudami? 強烈な臭いだね」
「知らね」
異臭の漂うマグカップを受け取ったミナが、律儀に礼を言った。長生き出来そうだとよく分からない感想を言って、そのままソファに座った。
「さっきは庇ってくれたんだよね。ありがとう」
「別に」
「いつか借りは返す」
貸した覚えすらないけど。
自分で淹れたハーブティーを飲んでみたが、確かに効果のありそうなすごい味だった。良薬口に苦しというか、漢方みたいな味がした。
「なんか調べたんだろ? 教えろよ」
「Of course. ターゲットの名前が分からなかったから、依頼人の方から調べたんだ」
ハーブティーを冷ましながら、ミナが言った。
「白滝奈緒子、三十一歳。バリバリのキャリアウーマンだった。何処からこの事務所に辿り着いたのかと思ったら、堀井さんと知り合いだったみたいだね」
堀井って誰だっけ。
翔の疑問は、すぐさまミナが補足した。高梁殺害の依頼人だ。汚職がバレて拘置所で死んだクソ野郎だ。
それだけで、翔は今回の依頼人に対して悪評価をしてしまいそうだった。
「二ヶ月前に離婚して、子供は夫に引き取られてる」
病気の娘を楽にしてやりたい。
最早、その言葉に信憑性はなかった。だが、全ては憶測だ。答えは依頼人にしか分からない。
「子供の名前はウエスギ、ココネ。四歳」
「四歳?!」
そんなに幼いのかと、翔は驚いた。
まだ事実は分からない。闘病中の娘を見て来た母親が何を思い、何を決意したのかなんて想像の域を出ない。だが、たった四歳の女の子が、殺されるのかよ。
「娘に会おう」
ハーブティーを一気に飲み干し、ミナが言った。
ターゲットに接触するのは、リスクが高い。
此方の計画がバレる可能性もあるし、何より、情が生まれる。そのせいで翔もミナも痛い目を見たばかりだ。
どんな事情があっても、立花は必ずターゲットを殺す。殺されると分かっていて、同情しながらも殺害の手助けをしなければならない。それがどんなに苦しいことなのか、自分達は身を持って知っている。
ミナはすぐに出掛けようと席を立った。翔が立ち上がれないままでいると、不思議そうに顔を覗き込んで来た。
「具合が悪い?」
「……いや」
初めて会った時も、同じことを訊かれた。
その時は英語だった。懐かしさを押し込め、翔は問い掛けた。
「お前は、立花の仕事のこと、どう思ってんの」
ミナはゆっくりと瞬きをして、壁に寄り掛かった。
「レンジが住んでいるのは、需要と供給の世界なんだ。俺がどうこう言うことじゃない。You should conform to the custom of the country. 郷に入っては郷に従え、だろ」
「だからって、何も思わない訳じゃねぇだろ」
聞いてみたい。
この子供が何を思い、何を考え、何の為に此処にいるのか。事情はどうでも良かった。ただ、ミナトという等身大の少年の本質を見極めたかった。
ミナは少し考え込むように目を伏せた。
そして、面を上げた時にはあの透き通るような眼差しで、翔を真っ直ぐに見詰めて来た。
「俺は、助けられるなら全員助けたいと思ってるよ。誰にも死んで欲しくない」
多分、それがこの子供の本質なのだろう。
だから、翔を助けたし、高梁や古海の無念を晴らそうとした。けれど、彼の思いは貫けない。だから――、切り札が欲しいのだ。
「何でもかんでも救える訳じゃない。それならせめて、この手の届く範囲だけは守りたい」
「エゴだな」
「そうさ。何が悪い」
この子は自分のエゴを貫く為に命を懸けられる子供だ。短い間だが、翔はそれを知っている。
人類救済とか世界平和とか、そんな使い古された机上の空論には興味がなかった。けれど、このエゴは必ず誰かを救う道標になる。少なくとも、命を懸ける価値があると思った。
立花がしっかり守れと言った意味が分かる。
言われなくとも。翔は拳を握った。
「別に悪かねぇさ」
斜め下の栗色の髪を撫でてやる。
この子の手が何を掴むのかは分からないし、小さな手の平は多くを取り零すだろう。それでも足掻き続けるその様がとても尊いと思うから、力になってやりたい。
「お前の期待に応えてやらァ」
翔が吐き捨てると、ミナは笑った。