⑴暗闇の天使
伸ばした手は赤かった。
それが西陽によるものなのか、それとも回転灯の為なのか、自分にはもう分からない。問い掛ける相手も、意味も見失ってしまった。
どうせこの世は欠陥だらけの欠陥品そのものなのだ。祈っても、縋っても、何も変えることは出来ない。
それでも、死にたくないと思った。生きようとした。
雄叫びを上げ、喘鳴を漏らし、嗚咽を噛み殺しながら必死に手を伸ばした。
きっと、俺は誰かに、◾︎◾︎◾︎して欲しかったんだ。
1.宴安酖毒
⑴暗闇の天使
初秋の夜風は硝子に似ている。
繊細で鋭く、身を切り裂くように冷たい。
潰れたダウンジャケットを抱き込み、翔は辺りを見回した。人気の無い公園に、錆び付いたブランコが風に吹かれ、悲鳴のように軋んでいる。
寒かった。まるで真冬だ。
悴む両手を擦り合わせる。頭上から街灯の白い光が降り注ぐ。熱に惹かれた蛾が不気味に舞っていた。
腹の虫が切なく鳴いた。空腹のせいで意識が朦朧として、何も頭に浮かばない。水で空腹を紛らわせるのも限界だった。何か固形物が食べたい。味なんて無くても良い。腹に溜まるものを、何か。
ポケットに手を突っ込むと、冷え切った小銭があった。百六十円。それが翔の持つ全財産だった。
この全財産で空腹を満たす方法はあるのだろうか。
何処か遠くで焼き芋を売る声が聞こえる。
それが近付いているのか、遠去かっているのかすら分からなかった。翔はベンチに凭れ掛かり、そのまま静かに瞼を下ろした。
闇が脈打つように歪んでいる。
空腹も過ぎると眠ることも出来ないらしい。
畜生。
翔が悪態吐いた、その時だった。
「Are you ok?」
聞き覚えの無い子供の声がして、翔は目を開けた。
街灯の光を遮る小さな影が、此方を覗き込んでいる。
「Are you sick?」
言葉の意味は分からなかった。だが、その影が英語を話し、自分を労わっているということだけは分かった。
翔は崩れ落ちそうな体を起こし、目の前の影を観察した。街灯に照らされたその子供は、闇から抜け出して来たかのような黒いパーカーに、フードを深く被っている。そして、その腕には見覚えのある茶色の紙袋が抱えられていた。
香ばしい匂いが漂い、自然と口の中に唾液が溢れた。紙袋から見える紫色のさつま芋から、白い湯気が綿のように昇る。
不意に、腹の虫が鳴いた。
すると、その子供は笑ったようだった。
「Are you hungry?」
公園の時計塔は午後十時を知らせている。目の前の子供は未成年に見えた。鱗も甲羅も、牙も爪も持たない弱い草食動物と同じだ。
けれど、その子供は翔の隣にどかりと腰を下ろし、何の警戒も無く、紙袋の中身を差し出した。
何も考えられなかった。
翔は奪い取るように焼き芋を掴み、夢中で食べた。芋の表面から滲む蜜に指先がベトベトになり、熱さに噎せた。それでも、空腹を満たす以外のことは何も考えられなかった。
さつま芋の甘さと熱さと、それが腹に落ちて行く感覚に、何故だか涙が出そうだった。鼻を啜りながら、翔は二本のさつま芋を食べ切った。
「Does it taste good? I also love baked sweet potato!」
子供が親しげに話し出す。
その時になって漸く、翔は子供の存在を思い出した。
子供は紙袋から焼き芋を取り出し、半分に割った。その双方を眺めると、大きい方を翔へと差し出して来た。
「ガキがこんな時間まで起きてて良いのかよ」
施しはしっかりと受け取りつつ、翔は吐き捨てた。
その子供は英語を話している。自分の言葉は理解出来なかったかも知れない。
その子供は首を傾げつつ、焼き芋に食らい付いた。
フードが僅かに下がると、街灯の下に横顔が照らし出される。
翔は息を呑んだ。
それは偏に、その子供の相貌が酷く美しかったからだった。傷一つ無い白磁の頬、通った鼻梁、大きな瞳は光源であるかのように輝いている。とても一般人とは思えなかった。
まるで、時間の流れが止まったかのように感じられた。視線を外すことが出来ない。その子供は惑星のような強烈な引力で視線を惹き付けて離さない。
未発達の指先が袖から覗き、雛鳥を前にしたかのように、どうしようもなく庇護欲を掻き立てられる。小さな口で豪快に焼き芋を食らい、頬を膨らませて咀嚼する。
翔の視線に気付いたらしく、子供は此方を見て天使のように微笑んだ。辺りの明度がぐっと上がったかのようだ。
「What is your name?」
名前を訊かれたことは分かった。
人気の無い寂れた公園で、焼き芋を頬張って、流暢な英語を話しながら無邪気に笑っている。自分とは掛け離れた世界の住人だ。翔は舌打ちを呑み込んだ。
「神田、翔」
「ショウ」
「そう」
その子供は、何が嬉しいのか両足を揺らしながら笑った。訊き返すべきだろうか。翔が問い掛けようとしたその時、公園の入口から若い男たちの笑い声が聞こえた。
頭も柄も悪そうな連中だった。
カラフルと言えば聞こえは良いが、原色の衣服を纏って群れる少年達に目が痛くなる。
関わり合いになりたくない連中だ。翔が腰を浮かせると、少年達は粘着質な笑みを浮かべて此方に向かって来た。隣の子供は、目新しいものを見付けたみたいに動かない。二人の座るベンチは見知らぬ少年たちに囲まれていた。
「こんなところで焼き芋なんて食ってる」
「ホームレス?」
「なあ、金持ってないの」
くちゃくちゃとガムを噛みながら、少年達が見下ろす。顳顬の辺りに痛みを感じ、翔は舌打ちした。
「退け。テメェ等にやる金はねぇよ」
翔が言った途端、嫌な緊張が走った。
端から人数を数える。相手は七人。この子供を守りながら、勝てるだろうか。――否。やるしかないのだ。
此処で自分が立ち向かわなければ、隣にいるこの子供はぼろぼろになる。自分がやらなければならない。
使命感に駆られ、翔は勢い良く立ち上がった。同時に、先頭に立つ金髪の男の顎目掛けて頭突きを食らわせる。途端に張り詰めた緊張は、風船のように破裂した。
鼻血が砂利に零れ落ちる。
右隣の少年が何かを叫びながら拳を振り翳す。目の端で捉え、翔は躱すと同時に足払いを掛けた。
無様に転倒した少年の腕を踏み潰し、後方の鼻ピアスの少年の顔面を蹴り飛ばした。
骨を打つ鈍い音が響いた。
逃げ腰の茶髪の頭を掴み、ベンチに叩き付ける。汚い悲鳴が夜の静寂を塗り潰して行く。
アルコールを摂取した後みたいに高揚していた。何もかもが些事に感じられて、彼等を蹂躙している間だけは自分が高尚に思えた。
半数を昏倒させると、後は蜘蛛の子を散らすようにして逃げて行った。倒れた仲間を助けることも出来ない人間のクズだと思った。そして、そんなクズを倒して喜んでいる自分は、ゴミだと思った。
二日酔いの朝みたいな惨めさを噛み締めながら、自嘲した。振り返ると、あの子供は座り込んだまま目を丸めていた。
円らな瞳が、子犬に似ていると思った。
「You helped me, right?」
翔には聞き取れなった。ただ、念を押すように問い掛けるその子供が、微塵も怯えていないことだけは分かった。
「ガキはさっさと帰れ。そんで、寝ろ」
子供は頷いた。
すぐ様消えるのかと思ったら、翔が食い散らかした焼き芋の皮を拾い始めた。最後に倒れた少年たちの呼吸を確認し、顔を上げた。
「Take care of yourself」
「うるせぇ」
何を言われたのかは分からないが、余計なお世話だと思った。言語が違っても、相手が何を言っているのか伝わるのが意外だった。
「See you again」
柔らかな笑みを浮かべた子供は、夜の闇の奥に消えて行った。公園の中は、日没後のように静まり返っている。
空腹は満たされている。
翔はポケットの小銭を擦りながら、歩き出した。