⑹切り札
真っ赤なポルシェが病院の駐車場に滑り込んだ時、空はもう真っ暗だった。黄色のヘッドライトに照らされたアスファルトは、夜の海面のように鈍く光って見えた。
湊は助手席から降り立つと、病院の入口に向かった。
非常灯の光るエントランスは、まるで墓場のような静寂を保っている。自動ドアは既に停止し、受付には誰もいない。
受付時間は既に過ぎている。一眼でも翔太に会えればと思ったが、無駄足だった。
鞄に入れていたタブレットを取り出してみると、立花からメッセージが届いていた。翔太の容態は安定しているらしい。
それが知れただけでも、十分だ。生きていてくれるなら、それだけで良い。
疲労感が背中にどっと伸し掛かって来て、湊はその場に蹲み込んだ。頭の中に靄が掛かっているみたいだった。
人の気配がする。ペリドットじゃない。革靴の足音が二つ。湊は顳顬を揉みながら呼吸を整えた。
「補導される時間のはずだが」
生真面目そうな硬い声だった。
湊は立ち上がると、声の主を振り向いた。ブランド物の黒いダブルスーツに、学生みたいに面白味の無い革靴。優等生を絵に描いたような、そのまま成長したような小柄な男が立っていた。
警視庁の刑事部、巽千弥。階級は警部ーーいや、最近、昇進したと聞いた。航空自衛隊の汚職を暴き、大阪の武器密売ルートの摘発に貢献し、望月警視の失脚の後始末を任されている。
社会の治安維持の歯車。組織の善玉菌。
公安の羽柴とは同期だったと聞いている。巽は神経質そうに眼鏡のブリッジを上げ、湊を見据えた。
「神谷翔太に会いに来たのか?」
答える必要は無かった。
湊は笑顔を繕って、肩を竦めた。ペリドットが追い掛けて来ないということは、顔を合わせたくない理由があるのだろう。そういえば、立花も彼を敬遠していた。本物の馬鹿とも呼んでいた。
司法に通じるコネクションが必要だった。
巽は、湊の脚本に最適な登場人物で、舞台装置だった。
SLCと公安の癒着を公表したのも巽で、記者会見の場にも立たされるだろう。彼は針の筵で生きている。そして、これからも。
湊は居住まいを正した。
自分はこの人を利用したし、巻き込んだ。けれど、自分はこの人の未来を背負えないし、守れない。
「色々とお世話になりました」
湊は深く頭を下げた。
感謝も謝罪も必要無い。俺たちは共犯者だが、運命共同体ではない。
巽は苦々しく顔を歪め、口を開いた。けれど、言葉にはしなかった。叱りたかったのかも知れないし、怒鳴りたかったのかも知れない。それを留めたのは、きっと夜の病院という道徳観念の為だろう。この人は湊が見込んだ通りの善人だった。
「……君はこれからどうするんだ?」
巽は、労わるように尋ねた。
答えても良かったし、はぐらかしても良かった。
湊は少し迷って、答えた。
「俺には夢がある」
月の無い暗い夜だった。蝉の声が細波のように響き渡る。
「大切な人に生きていて欲しい。幸せでいて欲しい。……出来るなら、一緒に」
俺が願ったものは、祈ったものは、それだけだったんだ。俺は早く大人になりたくて、親父やお母さんを助けたくて、大事なものを守りたかったんだ。
だけど、失くして初めて気が付いたんだ。
俺はたくさんの人に守られて、支えられて、生かされて来た。今度は俺の番なんだ。それが俺に出来る唯一の恩送りなんだ。
この世は祝福された地獄で、冷静な天国。
俺はこの世界で生きて行く。
ねえ、ノワール。
俺が生き急ぐ時には、そっと窘めてくれよ。
巽が、言った。
「君の夢は叶っていい」
湊は苦く笑った。
利用され消費されて行くには、惜しい人だ。巽のような人間がもっと増えたら、世の中はとても生き易くなるだろう。
「貴方の健闘を祈る」
湊は背を伸ばし、踵を返した。
瞼の裏に蘇る家族の肖像。何も知らず、幸せだった子供時代。全てを振り払うように、湊は歩き出した。駐車場の橙色の外灯の下で、ペリドットが待っている。
20.泥中に咲く
⑹切り札
翔太が退院するまでに掛かったのは、凡そ一ヶ月。
真夏の太陽が少しずつ弱り、狂ったように鳴き続けた油蝉の死骸が転がり、人々が秋の装いを支度し始めた頃だった。
手ぶらで病院を出た翔太は、残暑に滲む汗を手の甲で拭った。目まぐるしく変化して行く時代の流れから取り残され、まるで浦島太郎になった気分だった。
入口に黒いBMWが滑り込む。運転席に鉄面皮の立花が座っていた。
翔太は助手席の扉を開けた。
「……全然、見舞いに来なかったじゃねぇか」
翔太が不満を零すと、立花は鼻を鳴らした。
特に言い訳も弁解もせず、立花はアクセルを踏んだ。滑らかな運転でBMWが走り出す。車内にクーラーは入っていなかったが、開け放たれた窓から吹き込む風は秋の気配を連れていた。
一ヶ月近い入院生活で身体は鈍り切っていたし、筋肉も体力も落ちた。社会情勢も分からないし、立花たちが何処で何をしていたのかも知らない。湊に至っては、一度も見舞いに来なかった。
それでも、こうして退院日に迎えに来てくれる程度には親交があった。自分たちは不思議な関係だ。
「これから、墓参りに行くぞ」
「誰の?」
「テメェの家族の墓だよ」
翔太は驚いた。
「なんで?」
「はあ? テメェがあのガキと約束したんだろ」
あのガキーー湊か。
確かに、約束した。約束したけれど、どうして前もって教えてくれないのか。翔太は溜息を呑み込んだ。退院日だったので、墓参りの準備はしていない。こんなことなら、花の一つでも用意したのに、彼等は肝心な所で不親切である。
「必要なもんは、あいつ等が用意してるってよ」
「あいつ等って誰だよ」
「行けば分かるよ」
立花は面倒臭そうに言って、それ以上は説明をしなかった。
一ヶ月近く音信不通だったが、立花の社交性というものは何も変わっていない。
車は高速道路を乗り継いで県境を越え、日本海側を目指して北上する。次第に大きな建物が消えて田畑が目立ち、紅葉し始めた山々が見えた。翔太は山の稜線を眺めている内に、酷い既視感を抱いた。
家族が生きていた頃、父の運転する車でこの道を走った。
砂月が小学校の飼育小屋で小動物を殺し、逃げるように田舎に引っ越した朝だった。あの日の父の横顔が脳裏を過ぎる。
大丈夫だ。
父が、何度も言っていた。
母に、砂月に、自分に言い聞かせるように何度も何度も。
あの時、父はどんな気持ちで、どんな覚悟でハンドルを握ったのだろう。そして、どんな思いでそれを口にしたか。
立花は休憩を挟まず、三時間以上運転を続けた。
舗装道路も無いような田舎に到着すると、立花は適当な所に車を停めた。視界が点滅し、世界が揺らぐ感覚がした。ノイズ混じりの記憶の奥で、妹が翔太を呼んでいた。
白い砂利の田舎道、青々と茂る雑草、田んぼから聞こえる蛙の声。点在する家屋に人気は無く、その田舎の村はまるで死に絶えたかのような静寂に包まれていた。
焼け跡のような家屋が幾つもあった。規制線が張られているが、建て直される様子も無い。閉鎖的な田舎の集落。排他的な村人の白い目。
顳顬を針で貫かれるような痛みが走った。立花は車を降りると、振り返りもせずに歩いて行く。翔太は其処に、父の背中を重ね見た。翔太が手を伸ばした時、立花が振り向いた。
「遅ぇよ。早くしろ」
過去と現実が切り替わる音がした。
手に汗が滲んでいた。走った訳でもないのに、息が上がっていた。立花は迷いの無い足取りで田舎の集落を突き進む。
何処まで歩いても人気が無い。過疎化の進んだ限界集落みたいだ。よく見ると田んぼも畑も荒れ放題だった。
鬱蒼とした山を登って行くと、一層寂れた寺があった。今にも崩れ落ちそうな古寺には生仏みたいな僧侶がいて、立花と翔太を見ると静かに会釈した。
山の中に朽ちた墓石が並んでいた。何処も手入れが行き届かず、苔が生え、水が腐り、供物も無い。獣道を登って行くと、金色の光が見えた。
「遅かったな」
木漏れ日の下、ペリドットが立っていた。いつもの派手なスーツではなく、部屋着のようなラフな装いだった。髪も少し伸びたように思う。
ペリドットは目の前の墓石を顎でしゃくると、ポケットに手を入れた。
怖かった。足が地面に付いていないような気がする。
翔太は唇を噛み締めて、その墓を見た。
神谷家之墓。
その瞬間、一陣の風が吹き抜けて行った。遠くに置いて来た記憶が手の平に戻って来て、また指の隙間から抜け落ちて行く。零さないように手を握っても、残るものは何も無い。ーー分かっていた。
俺の家族は死んだんだ。
死んだ人間はもう戻らない。
両目から熱い涙が溢れ出して、視界が滲んだ。翔太は墓に手を伸ばし、拳を握った。父の背中、母の横顔、妹の笑顔。あの頃にはもう戻れない。
叫び出したい程の激情が思考回路を焼き尽くす。嗚咽が溢れる、刹那。
「翔太」
柔らかなボーイソプラノが、翔太を呼んだ。
秋めく景色の中で、まるで其処にだけ春が訪れたみたいに、その少年は天使のように微笑んでいた。
湊は、両手に花を抱えていた。
白いカサブランカの切り花だった。
「死者に花を供えるのは、万国共通なんだねぇ」
湊はそんなことを言って、花を供えた。
覚束ない手付きで線香に火を点けると、そのまま蹲み込んだ。目を閉じて手を合わせるその姿は、宗教画のように厳かに美しかった。まるで神の領域に足を踏み入れたかのような清浄な空気が満ちて行く。翔太は隣に膝を突き、同じように手を合わせた。
俺たちに神はいない。祈りの言葉を知らない。それでも、死者の冥福を祈るこの瞬間、国境も人種も言語すらも関係が無かった。
湊が立ち上がる気配があったので、翔太は目を開けた。湊は木漏れ日の下で、墓石をぼんやりと眺めている。前髪が短くなっていて、その相貌はより少女のような印象を与える。中性的な衣服もまた、彼の年齢や性別を曖昧にぼかしていた。
「お見舞いに行けなくて、ごめんね」
湊はそう言って、苦く笑った。
何処か大人びた微笑みだった。
「……今まで、何してたんだ?」
「彼方此方を飛び回ってたんだ。侑と一緒に」
「侑って誰だっけ?」
「俺だよ」
ペリドットが居心地悪そうに言った。
そうだ。彼は国家公認の殺し屋、ペリドット。本名は天神侑。翔太と同じ日本人だった。
立花は「厄介払いになった」と悪態吐いていたけれど、本心ではないことくらい翔太にも分かった。湊は気にした風も無い。
「航を大学に戻して、ブラックの緩和剤を作って、両親の葬式して、大学の卒業試験を済ませて、家の片付けをして、それから……」
「待て待て!」
指折り数える湊を、翔太は制止した。
見舞いに来られなかったのも納得だが、あまりにもあっさりと話すので焦る。自分が入院していた一ヶ月の間、彼は本当に息を吐く暇も無いくらい動き回っていたらしかった。
「お前、何になりたいの。何を目指してんの。そんなに生き急いでどうするの」
翔太が訊くと、湊は美しく微笑んだ。
「俺は何も変わってない」
「変わった方が良いって話だろ」
ペリドットが深く息を吐いた。
なんだか、兄弟を見ているみたいだ。
線香の煙が細く伸びて行く。
翔太は立ち上がり、墓石を見下ろした。いつか自分が追い抜くはずだった父の背中。支えてやるつもりだった母の肩。繋いでやれたはずの妹の手。もう、何もかもが手遅れで、届かない。
「ねえ、翔太」
湊は墓石を眺めていた。
「この国は好き?」
「……分かんねぇよ、そんなの」
「じゃあ、君は自分が好き?」
「……」
そんなこと、答えられない。
けれど、胸を張って好きだと言えたら、どんなに良いだろう。理不尽も不条理も耐え凌ぎ、嵐の向こうに朝日を見るように、自信を持って答えられたら、どんなに。
「君が好きだと思えるように、俺が守るよ」
翔太は奥歯を噛み締めた。
その深い友愛が、責任感が、この子を大人にした。不甲斐無い大人の後始末を彼が担った。そして、翔太には肩代わりすることが出来ない。
湊は思い出したように手を打った。
「俺の番号、教えてなかったね」
携帯電話を出して、と湊が言った。
翔太は持っていなかったが、何故か立花のポケットから出て来た。この一ヶ月、彼が預かっていたらしい。湊は片手ですいすいと操作して、翔太の携帯電話に番号を打ち込んだ。
名前ではなく、数字だった。
そういえば、航も数字で登録していた。湊は番号を打ち込み終えると、携帯電話を差し出した。
「何かあったら、電話してくれ。繋がらない時は、航に伝言を残して」
翔太は、湊はあの事務所に戻って来ないのだと理解した。
立花と三人で暮らしたあの日々はもう戻らない。
翔太は携帯電話を受け取って、その数字を眺めた。
航は006、湊は3710。どんな意味だろうと考えて、そのままだと気付く。彼等は翔太が思うより、とてもシンプルに生きている。酷い肩透かしを食らったような気がして、翔太は苦笑した。
「命綱か?」
「That’s wrong」
湊は指を立てて、悪戯っぽくウインクした。
「それは、君の切り札だ」
ぱっと、辺りが明るく照らし出されたかのようだった。
俺の切り札になって、と湊は何度も言った。けれど、今度は湊が切り札になると言うのか。
翔太が言葉を失っていると、立花が笑った。
「そいつはお前の最大のコネクションだ。使い所はよく考えろよ?」
ただ与えられた携帯電話が、まるで金塊のように重く感じられた。思えば、其処には湊や航、立花の番号も登録されている。そして、それは翔太が人と繋がり、透明人間ではなくなったという証明でもあった。
翔太は携帯電話をポケットに入れた。
「航が、切り札を使わずに負けるのは馬鹿だって言ってたぞ」
「航は素直だからねぇ」
湊は穏やかに言った。
「切り札は使わないからこそ価値がある。使うなら、奥の手は隠し持っておくべきだ」
彼がゲームに強いのは、そういう所なのだろう。
航も立花も、意外と素直だ。
「俺が裏切るとは、思わないのか?」
「もしもそんな日が来るなら、俺はその程度の男だったってだけの話さ」
今なら分かる。これは無条件の脅しだ。
この子は自分の売り込み方を熟知している。だからこそ、屈してなるものかと思う。
「俺が二十歳になったら、一緒にお酒を呑んでくれるんだろう? その時に、同じ質問をする。違う答えが聞けるのを楽しみにしてる」
「お前、良い性格してるよな」
「それを楽しめるようになったら、一人前さ」
本当はこんな奴だったんだな、と翔太は思った。
並び立つ湊は、浮雲のように掴み所が無くて、大地に根を張る大樹のように頑固で、天空に光る星のように輝いている。
湊は立花を見遣ると、不敵に笑った。
「蓮治も、終わりにしたくなったら連絡してね。何度でも俺が殺してあげる」
ぎょっとした。
湊が立花を殺す?
立花は吐き捨てるように笑った。
「お前が俺に勝てんのかよ」
「さあ、どうかな」
ペリドットが肩を竦めた。
翔太は、其処にノワールの幻影を見た。並び立つ彼等は、確かに中々手強そうだ。
「Until next time buddy」
そう言って、湊は左手を差し出した。
薄くて小さな手だった。けれど、温かく力強かった。翔太は握手を交わし、口角を釣り上げた。
「See you again」
いつかの彼の言葉をなぞり、翔太は言った。湊とペリドットが目を丸くして、破顔した。それはまるで、泥中より咲き出でる蓮の花のようだった。
湊とペリドットは、そのまま歩き出した。振り返りはしない。彼等は真っ直ぐに歩いて行く。翔太は二人の後姿を最後まで見送った。
歌が聞こえる。
Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah...
神を信じない彼の小さな祈りが、木々のさざめきの中に溶けて行く。
別れ際、またねと言うのが好きだった。
いってらっしゃいと見送ったら、おかえりと迎えてくれるみたいに、この場所に戻って来ることを約束する。
二十歳になったら、一緒に酒を呑む。
湊は18歳だから、あと二年。その時、自分は一体どうしているだろう? 世界はどんな風に変わって、人々は何を思い、そして、何が残るのか。
未来のことは分からない。だからこそ、全力を尽くす価値がある。俺が証明して行く。人間はマシな生き物だと、この世はまだまだ捨てたものじゃないと。
湊や立花に体当たりで教えられたことを、全力で証明する。
帰り道、車の中で翔太は立花に尋ねた。
「アンタ、そんなに死にたかったの?」
ハンドルを握る立花は振り向かなかった。
無言こそが肯定であると、翔太は知っている。
死にたかったというよりも、生きる理由が欲しかったんだろうか。だから、別れ際に湊はあんなことを言ったのだろう。
何度でも殺してあげる。
そして、その言葉のあとには本当はこう続いたのだ。
だから、その時まで生きていて。
相変わらずのエゴイストだ。
翔太が笑うと、立花は口を尖らせた。
有線ラジオから音楽が流れ始める。それは奇しくも、彼が口ずさんでいたあの歌だった。
万歳、神様ありがとう。
俺たちに神はいなかった。けれど、どんなに深い絶望の底にも必ず光は差し込んで、膝を突きそうになると背中を押す奴がいる。希望という名の狂気は俺たちの頭上でいつも笑っているのだ。
この世は理不尽と不条理のバーゲンセールだ。だけど、マシな未来も残されている。
次に会う時、俺は胸を張って答えよう。
俺はお前の切り札だ、と。