⑸祭のあと
「国家の犬が、良い御身分だな」
立花が吐き捨てると、羽柴は芝犬のような目を眇めた。
翔太の病室の外、立花は航と待っていた。翔太の容態が落ち着いたのなら顔を見て、文句の一つでも言ってやりたかった。
翔太が未熟だった為に、公安に借りを作る羽目になったのだ。こっちは先代が急死して、そのコネクションすら充分に引き継げていないのに。
立花は、公安が嫌いだった。憎しみすら抱いている。
それは、過去に公安に利用されたことがあったからだ。
近江と出会う前、立花は生計を立てる為に危険な仕事を幾つもやった。人も殺したし、武器も運んだ。そうしないと生きて行けなかった。そんな中、公安は或る暴力団を摘発する為に立花を餌にした。
暴力団は立花を裏切り者だと罵ったし、暴行したし、ドラム缶にコンクリートと一緒に詰めて東京湾に沈めようとした。公安は正義という大義名分の為ならば、自分のような人間を幾らでも捨て石にする。
やっていることは、自分たちと同じように汚いのに、どうして彼等ばかり正義の味方みたいに偉そうにしているのか。それも気に食わない。
羽柴は航を見てから、躊躇うように視線を逃した。
子供の手前、喧嘩するのも大人気ないってか?
「俺たちは相容れねぇ。うちのクソガキを唆すんじゃねぇよ」
「あの子まで、お前の世界に引き摺り込むつもりか?」
「俺は初めから誰も引き摺り込んじゃいねぇよ。あいつ等が勝手に居座ってるだけだ」
立花が言うと、何故か羽柴は笑った。
「三代目のハヤブサは、血も涙も無い機械のようだと聞いていたが」
羽柴は悪戯っぽく言った。
「随分と、人間らしいじゃないか」
「はあ?」
何処の誰が言ったか知らないが、余計なお世話だ。
立花が舌を打つと、羽柴は航を見詰めた。
「君もヒーローの息子さんだったね。……ご両親のことは、残念だった」
「そんな社交辞令はいらねぇよォ」
航は面倒臭そうに言った。
立花は、その図太さに笑いたくなった。羽柴は少し驚いたみたいに目を丸めたが、口元を緩めた。
「君はこれから、どうするんだ?」
「アンタにゃ関係無いね」
「湊くんとは随分違うな」
「あんないかれ野郎と一緒にすんなよ」
いかれ具合は五十歩百歩だろうが。
立花が黙っていると、航は指を突き付けて不敵に笑った。
「俺たちは他人の評価に興味は無ぇ。善悪も正誤もどうでも良い。だけど、沈むつもりは無ぇよ」
充分な答えだと、立花は思った。
他人に祈られる義理も無い。立花は羽柴を無視して、病室の扉に手を掛けた。けれど、背中で航の声がした。
「負けんなよ、正義の味方」
自然と口元に笑みが浮かんだ。
確かに、湊とは随分と違う。けれど、彼等は間違い無くヒーローの息子で、命を懸けて守る価値がある。
羽柴の足音が遠去かって行く。
立花は笑いながら、扉を開けた。
20.泥中に咲く
⑸祭のあと
部屋の中は消毒液の臭いに満ちていた。
薄暗い病室で、翔太がぼんやりと窓の向こうを眺めている。その目はまるで硝子玉のようで、このまま何処かに溶けて消えてしまいそうに見えた。
パチン、と。
航が室内灯のスイッチを入れる。蛍光灯が点滅し、室内は白く照らし出された。その時になってやっと翔太の目は此方を見た。立花は、神谷翔太の瞳が黒曜石のように煌めいていることを初めて知った。
立ち尽くしている立花の横を擦り抜けて、航がベッド横のパイプ椅子を陣取った。翔太は航を見ると、何故か顔を歪めて、泣きそうな声を出した。
「……巻き込んで、ごめんな」
何の謝罪だ。
立花は、苛立った。そして、それは航も同様だった。
自分たちは自分の思うように行動した。翔太の過去も、ノワールの死も別の話だ。
「あの刑事と何の話をしたか知らねぇが、謝られる謂れはねぇよ。勿論、俺も謝らない。俺達は自分で決めたはずだ。誰にも責任なんて無い。大体、死に掛けてんのは、アンタだけだ」
航の口調には、突き放すような冷静さがあった。
彼は慰めも励ましもしない。現実を真っ直ぐに見詰め、その結果から目を逸らさない。
航は、ナイフに似ている。
言葉を取り繕ったり、濁したりしない。あるがままを受け止め、鏡のように反射して行く。湊も癖のある子供だったが、航という青年もまた、生き難い子供だった。
航は膝の上で両手を組んだ。
「具合はどうなんだ?」
「寝起きでぼんやりするくらいだよ」
「それは鎮痛剤の効果だよ。アンタは撃たれてんだ」
「そうなのか……」
翔太は、自覚している通りまだ夢現といった調子だった。
航の両手に力が篭る。
「アンタ等さ、傷や痛みを甘く見てる。それは体からのサインだ。体なんて消耗品なんだから、大事にしろ」
そういえば、航はスポーツマンだったのだ。両親の死によって彼の輝かしい未来は閉ざされてしまったけれど、その損失はバスケットボール界においてどれ程の痛手になるのだろう。そして、彼自身はどのように受け止めているのか。
航は深く息を吐き出して、背凭れに体を預けた。
そして、神妙に目を細めた。
「ちゃんと生きろよ、神谷翔太。誰かに寄り掛かってりゃ楽だろうが、いつか独りで歩き出さなきゃならねぇ時が来る。その時に歩き方が分かんねぇなんてことが無いように、踏ん張って生きろ」
航のその言葉は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
太々《ふてぶて》しく見えるこの子供は、目の前で両親を亡くした。爆弾で引き裂かれる父の背中を、自分の背中で死んだ母を、彼はどのように受け止め、今も生きているのか。
「アンタはもう、透明人間なんかじゃない」
翔太は、ゆっくりと頷いた。
航は椅子から立ち上がると、ポケットに両手を入れた。
「じゃあ、俺はもう行くわ」
「……これから、どうするんだ?」
「親父が色々やり掛けて死んじまったからな、後始末が残ってる」
翔太は痛ましげに目を伏せた。
そして、子犬のような眼差しで尋ねた。
「俺に何か……」
「怪我人を頼る程、落ちぶれてねぇよ」
航は片目を閉じて悪戯小僧みたいに笑った。
「It's just a bump in the road」
立花は、肩を竦めて笑った。
此処はまだ通過点。あまりにも航らしい言葉だった。
「またな、翔太」
航はそれだけ言うと、扉の向こうに消えてしまった。
勝手な奴である。
立花は溜息を呑み込んで、パイプ椅子に腰を下ろした。航が座っていたせいで椅子は生温かったが、不思議と嫌悪感は無かった。
「あいつ等は、強いな」
ぽつりと、翔太はそんなことを言った。
立花は足を組み、晴れ晴れと笑った。そうだよ、あいつ等は強かった。痛みや弱さを知って強くなった子供たちなのだ。そして、其処には翔太の支えだってあったはずだ。
「今日、近江さんが死んだよ」
他愛無い会話を装って、立花は言った。
泣いたり、悲しんだりして欲しくなかった。近江は思うように生きたし、為すべきことを為し遂げた。ケチを付ける余地も無い幸福な最期だったと思う。
「病気でも暗殺でも無ぇ、ただの老衰だ。十分に生き抜いたし、俺たちはちゃんと弔った」
けれど、翔太は俯いていた。
俺たちは人の死というものに慣れ過ぎている。他人も、家族もいない。天涯孤独の透明人間。だけど、生きて欲しいと願う人間がいる限り、俺たちは本当の意味での孤独にはなれない。
守るべきものがある。貫くべき信念がある。
幾ら汚辱に塗れ、後ろ指を差されたとしても、俺たちは歩き続けるしかないのだ。
「立花は、大丈夫なのか?」
「何のことだよ」
「師匠だったんだろ」
「ああ……」
惜しい人を亡くしたとは、思った。
けれど、いつかその日が来ることも分かっていた。
立花は苦く笑った。
「……不思議なもんだよな。これ以上無いと思う絶望の底でも、何処からか手を差し伸べる馬鹿が現れる。俺が突き落とした地獄の中でも、笑いながら歩き出す奴がいる」
地獄にも花が咲くことを知っている。
あの子供は、何度もそう言った。そして、それが尊いものであることも、今の立花は知っている。
翔太は口元を緩めた。
「それは、アンタが守った命だよ」
他人の命を食い物にして来た立花が、気紛れに助けた命。
翔太は微笑んでいた。
「俺も湊も、アンタのお蔭で生きてる」
この世は理不尽で不条理で、設計ミスだらけの欠陥品そのものだ。けれど、そんな地獄の底にも温かいものが降り注ぎ、美しく咲く花もある。
「ありがとな、立花」
殺し屋に礼など、不要だ。
立花は鼻を鳴らした。
漂白された光の下で、翔太はまるで余命宣告された癌患者のように微笑んでいる。憑物が落ちたのか、それとも。
立花は其処に、近江の最期を見た。大切なものは出来たかと何度も問い掛け、立花が答えると満足したように、あっさりと逝ってしまった。最後まで掴み所が無く、敵わない男だった。
「なあ、翔太」
立花は壁に背を預け、指先のケロイドを撫でた。
裏社会の抑止力、最速のヒットマン。全盛期の近江にはまだ及ばない。此処はまだ通過点。立花は自分に言い聞かせながら、口を開いた。
「お前、うちに来るか?」
言葉にしてから、立花は自分の言語能力に舌を打った。
これじゃ、何を言いたいのか分からない。本音で語り合ったことも、相手に理解を求めたことも無かった。
翔太は驚いたみたいに目を真ん丸にして、笑った。
「……俺は別に、出て行ったつもりは無いぜ?」
察しの悪い男だ。
けれど、その鈍感さが今の立花には有り難かった。
真意は伝わらない。だが、それでも良いかと思った。
来るべき時に、きっと察するだろう。
「近江さんの代わりに、俺がお前を鍛えてやるよ」
「へえ。それは、どういう風の吹き回しなんだ?」
「気紛れさ」
立花が言うと、翔太はおかしそうに目元を和らげた。
「上等だぜ。俺はアンタを超えてやるさ」
腹の底からむず痒さが込み上げる。
不意に煙草が吸いたくなって、けれど病室であることを思い出して溜息を吐く。自分に最低限の倫理観があるのは、あの牢獄のような孤児院のお蔭ではない。
近江は、初めから立花を後継者として育ててくれた。
今度は自分の番なのだと悟る。ーー尤も、こいつがどんな風に成長して行くのかは、分からない。
「……なあ、湊は?」
気まずそうに、翔太が言った。
こいつ等、仲良かったからな。
立花はそう結論付けて、携帯電話を取り出した。着信も新着メッセージも無い。今頃、ペリドットと一緒にノワールの遺品整理でもしているのだろうか。
「あの高層ビルで撃たれた時、俺は死ぬんだと思った。その時に、湊が来た。……置いて行かないでくれって泣いて縋る湊を、俺は突き放した」
誰にも死なないで欲しい。生きていて欲しい。
それが、湊の願いだった。翔太が突き放したのは決して間違ったことではないけれど、目の前でノワールを喪ったばかりの湊には相当、堪えたことだろう。
ああ、だから。
立花は、理解した。
高層ビルの屋上から転落した立花に、湊が手を差し出した。その時も、湊は泣いていた。後悔と罪悪感、それでも進み続けなければならない重圧。立花は、湊を折れない子供だと考えていたが、本当は違ったのだろう。
「無事だよ。今はペリドットとノワールの遺品整理をしてるはずだが」
立花が言うと、翔太はシーツを握り締めた。
置いて行くのも、置いて行かれるのも等しく辛い。それでも、いつまでも立ち止まっていられないし、歩き出さなければならない時が来る。どれだけ手を尽くし、骨を砕いたとしても救えるものもあれば、届かないものもあるだろう。
しかし、生きているのなら。
生きているのなら、救いはあるだろう。
「……終わったら、此処に来るように言っておく」
立花が言うと、翔太は力無く笑った。