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⑵見えない十字架

 朝陽のあわい光がはる彼方かなたから広がって行く。

 青々としげる草木は夜露よつゆに濡れ、薄水色うすみずいろの空に蝉時雨せみしぐれが響き始める。


 立花は誰より早く起床し、台所へ向かった。蚊帳かちょうの掛けられた客間きゃくまから微かな寝息が聞こえ、居間いまでは近江が冷たくなっていた。それはまるで、線香花火が音も無く消えて行くように、ひっそりと。


 立花は台所を素通すどおりし、勝手口かってぐちから裏手うらてに出た。納屋なやからスコップを取り出して、木の根本に穴を掘った。

 土は湿気しっけを含み、深く掘る程に重くなった。腰が沈むくらいまで掘り進めた頃には、入水にゅうすいしたかのように汗をいていた。


 泥塗どろまみれのまま勝手口をくぐり抜けると、板張りの居間で、もう目覚めない近江を湊と航が囲んでいた。立花には、まるで座敷童ざしきわらしのように見えた。


 航と一緒に近江を運び、三人で埋葬まいそうした。誰も泣かなかったし、すがらなかった。湊と航はいつまでも其処に立ち尽くしていた。


 俺たちは人の死というものに対して感覚が麻痺まひしてしまっていて、泣いたりなげいたりする時間なんて何処にも無いことを、どうしようもなく理解していた。神を持たない俺たちは祈りの言葉を知らないし、手向たむけの花も持ち合わせていなかった。


 目を伏せた航が、ぽつりと言った。




める先が無いのも、つらいな」




 俺は殺し屋だ。人の命を金に替えて生きている。ろくな死に方はしないだろうし、求めてもいない。葬儀そうぎも無ければ、いたんでくれる人もいない。


 近江は、どうだったのだろう。仕事を引退して山奥に引っ込んで、後継者の尻拭しりぬぐいをしながら田舎暮らし。最期は誰にも看取みとられず、静かにった。


 きっと、生死そのものに意味なんて無い。復讐も埋葬まいそうも生きている人間のエゴで、思想や主義なんて誰かの借り物だ。けれど、俺たちはエゴという首輪くびわを付けなければ自分の居場所すら分からなくて、認めて欲しいといつも叫んでいる。


 日差しが高くなる前に、三人で朝食を取った。

 航がさけを焼き、湊が切り干し大根だいこん味噌汁みそしるを作った。立花は近江の残した糠漬ぬかづけ切り分けた。


 朝食を終えた後、湊は東京の病院に行くと言った。公安に保護された翔太は、秘密裏ひみつりに保護され、昏睡こんすい状態のまま入院しているらしかった。

 航がバイクで送ると言った。けれど、立花が近江の遺品いひんを整理すると言ったら、手伝うと言って残った。遺品整理というものは、一人でやるべきではないと。


 昼前にペリドットが車で迎えに来て、湊を連れて行った。その時には湊はノワールの油絵を抱えていて、もうこの場所に戻らないことを予期しているようだった。


 立花は航と一緒に、近江の遺品を整理した。けれど、家の中には近江の思い入れのあるような私物は一つも見付からなかった。近江は、自分の死期しきを悟っていたのかも知れない。


 これと言ってやることも無くなって、結局、航のバイクに乗って東京の病院へ向かうことにした。呑気のんきに眠りこけている翔太のよこつらでも引っ叩いてやろうと思った。


 近江のいなくなった古屋ふるやは、何処か空虚くうきょ伽藍堂がらんどうのようだった。人の住まなくなった家は早くちると言う。夏野菜の植えられた畑も、この古屋も思い出も、やがて風化して行くのだろう。そして、立花はそれを押しとどめるすべを持っていなかった。










 20.泥中に咲く

 ⑵見えない十字架











 遮光しゃこうカーテンの隙間から、朝陽が細いくさりのようにこぼれ落ちる。


 首都圏某所、大学病院。最上階の個室は、きびしい顔付きの警察官が立ちふさぐ。それはまるで、凶悪な犯罪者を取り囲むかのような厳戒げんかい態勢で、病院という場所に見合わない物々《ものもの》しさだった。


 湊が訪れると、警察官は黙って目礼もくれいした。湊も同じように返して、扉を開けた。真っ白な病室には真っ白なベッドが置かれていて、朝の白い光の中に何もかも消えてしまいそうだった。


 ベッドの上には、翔太がいた。

 体中にくだを幾つも付けて、まるでちょっと疲れて眠っているように見えた。けれど、彼が此処に運び込まれてから意識は一度だって戻らなかったし、容態ようだいは安定せず、何度も生死のさかい彷徨さまよった。


 心電図を見る限り、今日は安定している。

 等間隔に落ちる点滴液を眺め、湊はベッドの横の椅子いすに座った。


 翔太は、目を覚さない。もしかしたら、このまま目を覚さないかも。そんな悲しい未来が脳裏のうりぎる度に、壁に頭を打ち付けたくなって、声を上げて叫び出したくなる。


 運び込まれた時、翔太は体重の半分以上の血液を失っていた。彼の体に撃ち込まれた銃弾は心臓をかすめ、体内に留まって幾つかの臓器ぞうきを傷付けた。普通の医者ならさじを投げる。けれど、フィクサーの祖父にすがり、父の友人に頼み、海外から圧力を掛けてもらい、どうにか治療し、入院出来る状態まで持ち込んだ。


 それはひとえに、湊のエゴだった。

 医者は科学者。助からない者には手を差し伸べない。彼等の手は、本当に助かる見込みのある命を救う為にある。


 それでも、湊は翔太に生きていて欲しかった。例え植物状態となり、介護が必要で、それを翔太自身が望まなかったとしても。


 翔太を治療する医療チームに加われたことは、僥倖ぎょうこうだった。彼の体質は幼少期の人体実験の為に変質してしまっているし、その特殊性を理解してくれる人がいなかったからだ。


 失われた大量の血液は、輸血でおぎなった。病院にある輸血パックでは足りず、ペリドットが血を分けてくれた。血液型が合えば湊は幾らでも分けてやったけれど、それは叶わなかった。通常の血液で拒絶反応は起こらないのか。それだけが気掛かりだった。


 現状、拒絶反応は見られない。けれど、未来のことは何も分からない。


 そして、湊に出来ることは、もう何も無かった。

 心電図を眺め、翔太の手を握り、返事が無くても呼び掛け、ただ其処にいる。それしか、出来ない。せめて父のような医者だったのならば、尽くせる手もあっただろう。


 その時、扉が開いた。

 湊は振り向かなかった。この病室を訪れる人間は一人しかいなかった。




昼飯ひるめし、食ったか?」




 ペリドットが言った。湊は翔太の手を握ったまま、首を振った。気付くと太陽は中天に差し掛かり、弱々しいせみの鳴き声が聞こえていた。


 ペリドットは深く溜息を吐くと、頭をいた。




「お前まで、ぶっ倒れるぞ。それはその番犬の望むことか?」

「……俺、約束を守れなかったんだ。迎えに行くって言ったのに……」




 湊は翔太の手の甲を撫でた。

 たいらな手の甲は傷だらけで、火傷やけどの痕がある。手の平には大きな傷痕があった。それは、ゲルニカを追っていた時、翔太が自分をかばってナイフを素手すでで掴んだからだ。


 湊は、馬鹿だなと思った。立花も同じことを言った。

 けれど、刃を振りかざす殺人鬼を前にして、人質を助ける為に一瞬の躊躇ちゅうちょ戸惑とまどいも無く、彼は立ち向かった。まるで、そうすることが当たり前みたいに。


 そんな人間が、この世界にどれだけいると言うのか。

 誰も彼も保身の為に他人を切り捨て、現実から目をらそうとする。その中で、翔太だけが手を伸ばした。


 人の善性というものを、湊は信じている。

 性善説ではない。怠惰たいだかめに等しい大衆たいしゅうが指をくわえて眺めている中で、自分の身もかえりみずに誰かの為に尽くそうとする。打算も無く、ただ純粋に、衝動に従って弱者に手を差し伸べる人がいる。そういう人を、無くしちゃいけない。


 湊がうつむくと、ペリドットの大きな手の平が頭を撫でた。そして、ベッドのサイドチェストの上に一台の携帯電話を置いた。

 見覚えがあった。だって、それは、自分が翔太に渡した。




「公安に取り上げられたら返って来ねぇから、拝借はいしゃくしておいたんだ。見られたらまずいものもあるだろ?」




 ペリドットは、そう言って笑った。


 湊は導かれるように、携帯電話に手を伸ばした。手の平に収まるそれは、一年前は最新機種だった。それを湊が改造して、GPSを仕込んで、命綱いのちづな代わりに渡したのだ。


 もしもの時の為に、遠隔操作で爆破出来るようにしてあった。だが、その機能は未だに使ったことが無かった。翔太は、これを肌身離はだみはなさず、紛失ふんしつすらしなかったからだ。


 待ち受け画面は初期設定のまま、高画質なカメラは一枚も写真を撮っていない。アプリのたぐいは湊が設定したままになっていて、最新機種にしたのに、宝のぐされだ。


 使っていたのは、電話とメッセージアプリ。電話履歴のほとんどは自分と立花。さかのぼるとノワールや航、幸村や桜田の番号があった。


 君は透明人間じゃなかったよ。

 人と繋がり、関係を継続けいぞく出来る。


 携帯電話を操作している内に、メモ帳のアプリが何度も起動されていることに気付く。糸を辿たどるように指先で開く。


 それは一年におよぶ翔太の日記だった。

 出会った頃の翔太は、記憶が欠落していた。認知療法として彼の手助けとなれば良いと思い、湊が提案した。翔太はその日から、毎日毎日、記録を残していた。


 一日に丸かバツの印を二つ付ける。

 体調の変動は丸バツで記されている。記憶と日付を照らし合わせると、フラッシュバックにともなう頭痛や目眩めまいが酷かった時にはバツ印があった。けれど、下段げだんは全て丸だった。


 体調ではない。これは、翔太の精神状態だ。

 良いことがあったら、丸。嫌なことがあったら、バツ。

 単純な記録。それを、毎日。


 初めの頃は印だけだったが、段々と文字が記されるようになっていた。それは翔太のちょっとした愚痴ぐちとか、ぼやきとか、独白どくはくしるした備忘録びぼうろくだった。



【立花はなんであんなにミナにきつく当たるんだ。まだ、子供なのに!】

 そうだね、蓮治は言葉が足りなかったね。君はいつも、反抗しては突き放される俺の味方でいてくれたね。


【ミナはあんまり相談しない。俺が頼りないからだ。頑張ろう。何をどうしたらいいのか、分からないけど】

 そんなことなかったよ。君はずっと頑張っていたじゃないか。そんな君が側にいてくれたことが、どれだけ心強かったか。


【あいつ等、掃除が下手】

 それは、翔太が潔癖けっぺきだったんだよ。


【立花が丸くなった。意外と、良いとこあるな】

 蓮治の不器用な優しさが、翔太に伝わったことが嬉しかった。蓮治が変わったとしたら、それは翔太のおかげなんだよ。


【湊が相談するようになった。頼られるのは、嬉しい】

 そうだったのか。それなら、もっと色んなことを相談して、頼るべきだった。俺は君の重荷おもにになりたくなかっただけなんだ。


【立花も誰かを励ますことがあるなんて、初めて知った】

 蓮治は本当に、優しいんだ。言葉が足りなくて口が悪いから誤解ごかいされやすいけれど、大人おとなとして俺たちを支えてくれていたね。


【俺はミナと砂月さつきを重ね見ていたけど、ミナは一人の友達として向き合ってくれてた。その誠実さに応えたいな】

 君は俺の期待に、信頼で応えてくれていたじゃないか。


【半熟卵の乗ったハンバーグが美味しかった。立花は料理が上手い。ミナの筑前煮ちくぜんにはひどい。でも、まずくはなかった】

 蓮治の料理は本当に美味しかったね。俺ももっと丁寧に料理するべきだったな。それで君が喜んでくれるなら。


【俺の過去を知っても、ミナも立花もきちんと向き合ってくれた。あいつ等、隠し事はしても、嘘は吐かなかったな】

 それは君が、自分の過去から目をそらさなかったからだよ。俺たちは君に幾つも隠し事をしていたのに、君は真っ直ぐに向き合ってくれただろう?


【帰る場所があるって良いな。ただいまと言えばおかえりと返って来る。俺は此処にいても良いんだ】

 ……。


 なんだよ、俺たちのことばかりじゃないか。

 文字を見る度に記憶が蘇る。画面をスクロールしながら、湊は最近の記録に、文章が残されていることに気付いた。



【人は弱いから群れを作る。立花も湊も強い人だった。彼等は強いから石を投げられ、転んでも手を差し伸べられない。そして、彼等は痛がらない。


 痛がらない彼等を見ている時、いつも思う。強い人は、独りでいなきゃいけないのか? 痛がって、うずくまって、誰かにすがってもいいんじゃないか?


 立花や湊が本当に望んでいるものって、何だろう。これは俺なりの答えなんだけどーー。それってもしかして、何でもない毎日が、当たり前に続くことだったんじゃないかな】



 胸が、ぎゅっと痛くなる。深淵しんえんを覗く時、深淵もまた己を覗いている。湊が翔太の心を覗いたように、翔太もまた、湊の心を見ていたのだ。



【湊が言っていたこと。誰にも死んで欲しくない。家族が大切。復讐は負の連鎖れんさ。其処に君を巻き込みたくない。死者は思い出の中にしか生きられない。忘れない為に生きていく。綺麗事きれいごと理想論りそうろん。だけど、大事だと思った。


 立花が教えてくれたこと。復讐に未来は無い。ちゃんと考えて、自分で責任を取れるマシな未来を選ぶ。自分のことも、周りの人間のことも勘定かんじょうに入れる。死ぬことに意味なんかない。たりな正論せいろん、だけど、真実だった。


 どんな絶望の底にも、どんなに救いがたい地獄の中にも、希望の光は差し込むんだろう。立花が向き合ってくれたこと、湊が手を差し伸べてくれたこと、俺にとっては、それこそが泥中でいちゅうに咲く花だった】



 ーーそれは神谷翔太の生きたあかしだった。

 翔太は、他愛たあいのない日常を心の底から愛していた。膨大ぼうだいな情報の中に呑み込まれて行く小さな幸せを、アルバムに閉じ込めるみたいに一つずつ、丁寧に。

 何かが腹の底から突き上げて来て、胸がいっぱいになる。


 俺は君を守っていたつもりになって、現実から遠去とおざけて、壁を作って、ーー本当は自分が傷付くのが怖かっただけなんだ。

 だけど、君は俺の作った壁を、両手で包み込むみたいにゆっくりと溶かして行った。まぶたの裏側に鮮やかに蘇る、他愛の無い毎日。君は出会った時から、誰かの為に泣いて、怒れる人だった。




「……翔太の声で、聞かせてくれよ……」




 こんな遺書いしょみたいな形ではなく、君の口から俺に話してくれよ。

 大切なものは失くしてから気付く。でも、失くさないように両手で握り締めたって、大切なものは指の隙間からこぼれ落ちる。


 ペリドットが独り言みたいに呟いた。




「……俺は、コミュニケーションとか信頼関係とか、そういう言葉が嫌いだ」




 ペリドットは、滔々《とうとう》と言った。




「生きるか死ぬかの瀬戸際せとぎわで、手を伸ばせる相手かどうかは、出逢であった時に分かるはずだ」




 湊は、答えなかった。答えられなかった。

 自分の根底にあるのは、他人への諦念だ。だから、誰にも期待しないし、見返りも求めない。俺は誰にも期待しないから、誰も俺に干渉かんしょうしないでくれ。ずっと、そう思っていた。


 だけど、本当は欲しかったんだ。

 裏切られても、信じて良かったと思える友達が。

 歩いて行く道が違っても、同じ夢を見られるような、伸ばした手を掴んでくれるような誰かが、ずっと。




「こいつは、それをちゃんとぎ分けたし、俺たちは全力を尽くした。残される結果に、解釈は要らねぇよ」




 それが励ましの言葉であることも、湊は分かっていた。

 後悔というものは、生きている人間にだけ許された特権なのだ。俺たちは、目には見えない十字架を背負いながら、色褪いろあせたこの世界で生きて行くしかない。

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