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Ace in the hole. ー最後の切り札ー  作者: 宝積 佐知
19.空を見上げて夢を見る
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⑻夜空に咲く

 体が重かった。


 頭はなまりでも詰まったように、衣服は水を吸ったように、一歩を踏み出す度に容赦ようしゃ無く気力と体力をけずり取った。


 それでも、湊は走った。関節がぎしぎしと鳴って、臓腑ぞうふが締め上げられるように痛み、古傷ふるきずねっされた鉄の棒でも突き刺されているみたいだった。


 濛々と立ち込める黒煙、血と硝煙の臭い。建物全体がかたむき、足元が揺れている。時間経過と平衡へいこう感覚は曖昧あいまいだった。ひたいから流れ落ちた大粒の汗が目に染みた。


 何も考えなかった。立ち止まったら、それは死ぬ時だと分かっていた。此処で諦めたら、自分の魂は根元から折れて、もう二度と立ち上がることは出来ない。


 ただ、走る。走る。走る。

 武装した男達の死体が積み重なり、廊下は血の海となり、階段は爆煙で真っ黒に染め上げられ、何処かで銃声が響き渡る。


 走る。走る。走る。走る。

 振り返るなと、言われた。だから、走った。それしか出来ないならば、それだけをやるべきだ。他のことは後回しで良い。今は少しでも早く、ーー立花の元へ。


 銃殺された男が仰向あおむけに倒れている。湊はまたごうと左足を上げて、自分の体が上手く動かないことに気付いた。死体につまずいて転べば、体中が血塗ちまみれになった。吹き飛んだ硝子がてのひらを鋭く切る。湊は拳を握り、また走った。


 どん、と何かにぶつかった。湊は尻餅をついて、それが壁であることを知った。前すら見えていない。自分を笑う余裕も無い。立ち上がって、走る。汗が目に染みて、邪魔だったので手でぬぐった。真っ赤だった。返り血なのか、出血なのかも分からない。


 何かが胸を突き上げる。口を開けば、こぼれ落ちそうだった。

 湊は唇を噛んだ。血の味が、した。


 リュックの中でタブレット端末が陳腐ちんぷな音を立てた。

 任務達成の合図。航は無事だ。ペリドットは何処にいるのか分からない。残党狩りをしつつ、航を助けに行ってくれたはずだった。


 あとは、ギベオンを始末するだけだ。

 SLCに寄生する殺人鬼。立花が食い止めてくれているはずだ。だけど、翔太が行けと言うから。嫌な予感が心臓を早鐘はやがねのように鳴らすから。だから、湊は走った。


 此処は何処だろう。俺は何処に行けば良い。

 蓮治、これで良いの。翔太を助けに戻るべきじゃないの。


 人の体からどのくらいの血液が失くなったら命の危険があるのか、死に至るのか、分かっている。輸血と手術が必要だった。だけど、そんなものは何処にも無いから。


 応急手当は出来ても、開腹手術は出来ない。湊は脳科学の研究者で、ただの子供だった。


 俺に何が出来るの。

 息が上がって、のどの奥からひゅうひゅうと奇妙な音が漏れた。ひざががくがくと震え、視界がかすむ。闇雲やみくもに走ったって駄目だ。丸腰の自分が行ったって何の力にもなれない。


 走っているのか、歩いているのか、前に進んでいるのか、その場で足踏あしぶみしているだけなのか。もう、何も分からない。


 足がもつれて、視界が引っ繰り返った。手を突く余力も無かった。起き上がらなければならないと分かっているのに、体が動かない。


 弱音や泣き言は呑み込んだ。嫌な想像は放逐ほうちくした。湊はひじを突き、い付けられたかのように重い体を床から引きがそうとした。その時だった。




「ミナ」




 声が、聞こえた気がした。

 それはもう二度と聞けるはずの無い、穏やかなテナーの声だった。ふっと体が軽くなり、痛みが引いて行く。湊は声の主を探したが、それは何処にも見当たらない。




「ミナ、こっちだ」




 湊は歩き出した。何処に向かっているのか分からない。冥界だと言うのならば、それでも良かった。


 高層ビルの階段を駆け上がり、辿たどり着いたのは閑散としたオフィスだった。事務用の机が整然と並び、開け放たれた窓にブラインドが揺れる。突風が吹き込み、何かの書類を吹き飛ばして行く。窓の向こうはもう夜だった。


 ずっと、夜の中にいる気がする。出口の無いトンネルを、ずっと独りで走っているような。


 歌が聞こえる。

 Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah......















 19.空を見上げて夢を見る

 ⑻夜空に咲く













 屋上は、サッカーでも出来そうなくらい広かった。白いコンクリートの床に、オレンジ色の蛍光塗料でヘリポートが描かれている。吹き付ける風は冷たく、痛いくらいだった。


 ロックダウンした街の上には、無数の星が光っていた。街の光は遠く、まるでこの場所が深い谷底にあるみたいだ。


 立花は貯水槽ちょすいそうの影に身をひそめ、追い迫る殺人鬼に身構えた。

 ギベオンは散弾銃を持っていた。立花が撃ち抜いた右肩は、痛みを感じていないようだった。対して、此方は銃弾も残り少なかった。


 スムラクは車に置いて来てしまったし、閃光弾や催涙弾さいるいだんたぐいも尽きた。手元にあるのはホローポイント弾六発と、ナイフが一本。これで、散弾銃を持った痛みを感じないサイボーグ相手に勝てって?


 一度、撤退てったいするべきだ。体勢を立て直す。

 そして、ギベオンは何処かで狙撃して始末しよう。ーーああ、でも、此処には翔太がいる。助けに行ってやらないと。


 状況が分からない。今、他はどうなってる。無事なのか。




「逃げてんじゃねぇよ、チキン野郎!!」




 追い付いて来たギベオンが、にごった声を張り上げる。

 立花は身を潜めたまま、ギベオンの胴体どうたいを狙った。頭部よりも的が大きかったからだ。

 ホローポイント弾は、貫通力が無い分、体内に残り大きなダメージを与える。これを作った奴はサディストか、マッドサイエンティストだろう。


 右の肺、脾臓ひぞうを撃ち抜くと、ギベオンの眼球が此方を見た。途端、激しい銃弾の嵐が襲った。盾にした貯水槽が凄まじい勢いでけずられ、水が噴き出す。銃弾の残りは四発。どうする。近接戦闘に切り替えるか。いや、今の自分の状態で散弾銃を避けるのは難しい。


 硝子片の上を滑ったせいで、背中は血塗ちまみれだった。派手に切れたらしく血が止まらない。

 ギベオンは血を流しながら、散弾銃を抱えて笑っている。追い詰められる前に、頭を吹き飛ばすしか無い。


 こんな窮地は、久々だ。

 立花は指先のケロイドを撫でた。馬鹿だった頃の自分は、発砲後の銃口が熱くなることも知らずに触ったのだ。これは昔を忘れない為のいましめだった。


 野の百合は如何いかにして育つかを思え。

 頭の中に蘇る、地獄のような孤児院の記憶。振り上げられた拳、すすり泣く少女の声、許しをう子供。肉を打つにぶい音、空腹にえ兼ねて掴んだ緑のバッタ。焼かれた聖書、燃え盛る孤児院、夜空をめる赤い悪魔の舌。助けを求めて伸ばされた小さな掌。


 結局、何処まで逃げても、忘れたふりを続けても、過去は必ず追い付いて来る。ならば、やるべきことは一つだ。踏み止まっても守れないのなら、踏み込むしかない。


 銃撃の途切れた瞬間を狙い、立花は身を滑らせた。

 ギベオンの胡乱うろんな眼球が追い掛ける。銃口が此方を向く、その瞬間、立花の銃口が火を噴いた。


 体勢が乱れていたせいか、一発しか当たらない。しかし、それはギベオンの首筋を貫き、致命傷を与えていた。

 だが、ギベオンは笑っていた。首筋から噴水のような鮮血を撒き散らし、狂気的な笑みを浮かべ、散弾銃の引き金を引いた。


 タタタタタタタタタタタタ。

 闇の中に白い光がフラッシュする。立花は転がるようにして銃弾を避け、そして、背筋が凍るような浮遊感に襲われた。

 其処には闇に染まる虚無が広がっていた。立花の体は宙に浮き、転落寸前に屋上のふちを掴んでいた。


 銃弾は残り一発。ぴちゃぴちゃと粘度ねんどのある液体の音が近付く。足元は宙に投げ出され、足を掛ける場所も無い。頭の上でギベオンが笑っている。


 どちらが、マシか。

 立花の脳裏に、選択肢が過ぎった。

 此処でこんな寄生虫に撃たれるくらいなら、自分から手を離した方がマシだ。


 ギベオンは、銃口を突き付けて笑っていた。




「ゲームセットだぜ、三代目」




 ギベオンの革靴が、立花の指を踏んだ。




「ダークヒーローだか裏社会の正義だか言われていたが、呆気無いもんだな」




 立花は鼻で笑った。




「正義だの仁義だの、そんなもんはとっくに犬に食わせちまったよ」

「じゃあ、テメェは俺と同じ薄汚い殺人鬼って訳だ」

「テメェと一緒にすんじゃねぇよ、外道」




 立花が吐き捨てると、ギベオンは口角を釣り上げた。




「じゃあな、三代目。楽しかったぜ」




 ギベオンの爪先つまさきが、立花の指を蹴った。

 胃の中が引っ繰り返るような浮遊感だった。手も足も届かない。自分がとどめを刺さなくても、ギベオンはどうせ死ぬ。ただ、あいつの眉間に銃弾をぶち込めなかったことだけが、心残りだった。


 地面に衝突するまでどのくらい掛かるだろう。頭蓋骨がコンクリートに当たって砕ける乾いた音を知っている。血の臭い、溢れる脳漿のうしょう、眼球は飛び出して、四肢は明後日あさっての方向を向く。


 人殺しには相応ふさわしい、惨めで、無様で、ゴミみたいな死に様だ。大義の為に死ぬこと、名誉の為に戦うこと、自分にはえんの無い話だ。立花はそっと目を閉じた。その時、何処からか子供の声が聞こえた。


 レンジはいつも窮屈そうだね。

 今際いまわきわに蘇ったのは、世間知らずで無力な子供の声だった。


 この世が等価交換ならば、最期の時にレンジは何を払うの?

 透き通るような濃褐色の瞳が、真っ直ぐに見詰めて来る。


 ああ、あいつが、また。

 あいつがまた、俺を呼んでる。




「ーー蓮治!!」




 立花は、目を開けた。

 身を切り裂くような突風、浮遊感。何処までも落ちて行く視界の端から、細い腕が伸ばされる。それはまるで、あの頃掴んでやれなかった子供のてのひらのようだった。


 あの時、守れなかった命が。

 届かなかったてのひらが。

 今度は、届く。ーー今度は、届く!


 手を伸ばしたのは、無意識だった。包帯に覆われた細い腕、てのひらから血がにじむ。関節のきしむ嫌な音がして、立花の転落はくさびを打ち込まれたかのように停止した。


 窓から上半身を乗り出した湊が、立花の腕を掴んでいた。

 どうして、此処にいるんだ。どうして、どうやって。

 ぽたりと、立花の頬に雨粒が落ちる。宙ぶらりんになりながら、立花は恐る恐ると見上げた。


 酷い、酷い顔だった。

 両目は充血して、まぶたは腫れ、ほほには青痣あおあざ、擦り傷。煤塗すすまみれの血塗ちまみれで、湊は泣く寸前のような情けない顔をしていた。




「お前まで、落ちるぞ……」




 立花が言うと、湊は顔をゆがめた。




「落ちる時は一緒だって、約束したろ……」




 Pinky promise.

 嘘を吐いたら死ぬことを誓い、針を自分の目に刺します。

 あんな口約束を、律儀りちぎに覚えていたのか。


 湊は、手を離さなかった。転落すると分かっていても、この手は離されないのだろう。落ちるなら、何処までも一緒に。


 だけど、立花は決して、この子を地獄に連れて行きたい訳じゃなかった。幸せでいて欲しかった。日の当たる世界で、この世の不幸なんて知らないみたいに、笑っていて欲しかった。こいつが離さないなら、俺が。


 立花が振り払おうとしたその時、湊がしぼり出すようなかすれた声で言った。




「俺はもう、誰にも死んで欲しくないんだよ……」




 ぽたり、ぽたりとしずくが落ちる。

 雨じゃない。湊の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。




「お願いだから、生きていて……」




 ああ、そうなのか。

 それはまるで、春が来て雪が溶けるように、さなぎちょうへ羽化するように、胸の奥に固まった何かをほどいて行く。


 なるほど、こいつには、まだ俺が必要らしい。


 屋上からギベオンが身を乗り出す。湊も立花も動けない。散弾銃の銃口が見下ろす。間に合わない。ーーせめて、湊だけでも。


 立花が覚悟を決めた、その時だった。


 口笛のような音がして、胸に広がるような爆音が鳴り響いた。


 夜空がぱっと照らされる。

 よく晴れた夜空に、幾つもの巨大な菊型の花が炸裂さくれつする。赤、青、緑の光の花が空を埋め尽くす。鮮やかな花火が夜空に咲いて、火薬の残滓ざんしきらめかせながら時間を掛けて散って行く。



 地獄にも花が咲くことを知ってる。



 いつかの湊の声が鮮明に蘇る。

 ーーそうか、これが。


 体の痛みも重さも感じなかった。動揺したギベオンが空を見上げる。立花は湊の腕を引っ掴み、軽く宙返りをすると窓のさんに足を掛けた。片手は窓枠を掴んだまま、頭上に向かって照準を合わせる。


 ギベオンが身を乗り出す、その瞬間。

 立花は引き金を引きしぼった。


 乾いた破裂音は、花火の音にき消された。ギベオンの眉間に真っ黒い穴が開き、その体がぐらりと揺らぐ。立花は窓枠に立ったまま、さかさまに転落するあわれな殺人鬼を見送った。


 頭蓋骨の割れる音は、聞こえなかった。

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