⑵アンサー
囲炉裏の蓋に、一台のタブレット端末が置かれている。
最新の薄型ディスプレイには、写真のような鮮やかな画像が映し出されていた。真夜中の森、夜空に散らばる数え切れない程の星が降って来るようだった。
航が突き出したタブレット端末を受け取った湊が、自分の物のように自在に操作する。切り替わる画面はまるで魔法でも見ているみたいだ。
「先日のホロコーストで、首都圏はロックダウンしている」
湊が指し示したのは、崩壊した街の惨状だった。
大地震の後に津波が起きたみたいに、街は規制線が張られ、瓦礫が転がり、復興の目処は立っていない。
崩れ落ちる寸前の高層ビル、倒れた電柱。流石に死体は転がっていないが、其処過去に血痕が染み込み、草木も芽吹かない荒れ果てた死の大地と化している。
「此処がSLCの根城だ」
映像が切り替わる。
監視カメラ映像だった。ノワールが現れたあの日、街が崩壊する数分前。大型ショッピングモールに設置されたカメラは、幽霊のような大男を確かに捕らえていた。
画像も荒く、音声も無い。湊が映像を簡単にトリミングすると、その大男の顔に歪な傷痕が刻まれていることが分かる。
右目の上、火傷のような傷。ギベオンと呼ばれる殺人鬼。
「この街は防災モデル都市だったみたいだね。尤も、想定していたのは、自然災害だったみたいだけど」
見て、と言って湊は一つのビルを指し示した。
瓦礫の海となった街中に、天を突くような高層ビルがぽつんと立っている。それはまるで、バベルの塔を思わせる傲慢さと、荒廃的な美しさを併せ持っていた。
硝子が吹き飛び、壁には亀裂が走り、今にも崩れ落ちそうに見えるのに、そのビルは凜然と街を見下ろしている。
「この建物は、記録上は外資系製薬会社の所有物になっている。実態は架空企業でね、資金源を辿ってみたら氏家議員に繋がった」
「……なるほどね」
ペリドットが呟いた。
彼にも、分かっただろう。この国は腐敗している。
氏家議員は法改正を目論む過激派の幹部で、次期フィクサーとさえ言われている。その法改正こそが司法による暗殺部隊の組織で、望月やSLCが加担しているのだ。
しかし、その氏家議員は今、世論から厳しいバッシングを受けている。中国マフィア青龍会との闇取引、杜梓宸の暗殺への関与が疑われ、裏にも表にも敵だらけなのである。
そして、その状態に持ち込んだのは、湊と立花だった。杜梓宸を暗殺する際に、氏家議員の自宅にいる所を狙ったのだ。暗殺後に警察へリークし、青龍会とも手を組んで氏家議員を追い込んだのだ。
味方にいる内は頼もしいが、敵になると本当に恐ろしい。
彼等は人を殺す術を心得ている。
「製薬会社か……」
立花が言った。
SLCは科学による人類救済を謳う海外のカルト集団。外資系製薬会社という隠蓑は、都合が良かっただろう。
彼等は何故、あの街を破壊したのか。
災害地となれば注目を集める。そうなれば、自分たちの存在が明るみに出るだろう。どうして、そんなことを。
「美談は、感銘を与えるものさ」
湊が言った。
テロに巻き込まれた街で、唯一残った製薬会社。作り出された薬物は注目を集める。災害からの復興という皮を被り、奴等は危険な薬をばら撒こうとしている。
ブラックという薬の効果はすぐに現れない。人々がその危険性に気付いた時にはもう手遅れで、この国は殺戮人形と化した人々で溢れるだろう。
そんな憐れな殺人鬼を始末する、暗殺集団が現れる。それこそが、彼等の求める司法の名を借りた浄化部隊なのだ。
血の気が引いて行くのが分かる。
湊の話は、推測ではなく、殆ど断言に近かった。それを突き止めた湊の手腕も素晴らしいが、奴等の筋書きは悍しく、人間の尊厳というものを尽く踏み躙っていた。
「望月さんが家族を失くしたのは、凡そ十年前。その頃からこの計画は動き出していた」
用意周到過ぎて、吐き気がする。
全部、奴等の筋書きだったのだ。人体実験も、家族が殺されたことも、街が破壊されたことも、全部。
激しい怒りが唇を震わせる。翔太には、自分の感情を表現することが出来なかった。
湊が言った。
「平和的解決も、相互理解も有り得ない。潰すしかない」
「ターゲットは?」
「主要人物は、三人。SLCのベリル、ギベオン。それから、公安警察の望月宗久。向こうが組織である以上、武装した玄人が虫のように湧いて出るだろうね」
フィクションみたいな話である。
ペリドットはうんざりしたように言った。
「戦力差がデカ過ぎる。援軍はいねぇのか」
「そもそも、この国は武器の所持を規制してるだろ」
「笹森さんは?」
翔太が尋ねると、航が答えた。
「あの人はPistolすら持ったことが無い一般人だよ」
「この国のマフィアは優しいというか、生温いよね」
翔太は、初めて笹森と会った時のことを思い出した。
湊はヤクザである笹森を全く恐れていなかった。彼は海外にいる本物のマフィアというものを知っているのだ。それに比べたら、この国のヤクザなんて子供のお遊びに見えたのだろう。
「青龍会は内部抗争で手一杯だし、借りを作るのは得策とは思えないね。いずれ、獅子身中の虫になるかも知れない」
「お前等の爺さんは?」
湊と航の祖父はこの国にいるフィクサーの一人だ。
立花が訊ねると、航が困ったみたいに眉を下げた。
「俺たちの爺さんは、カウンセラーだぞ。武装組織とのコネクションなんかある訳無いだろうが」
世界を牛耳る裏の重鎮と呼ばれるフィクサーにも、得意不得意があるらしい。確かに、彼等の祖父が軍事に精通していたのならば、息子が爆弾テロに巻き込まれた時点で戦争に発展していただろう。
ペリドットは嫌そうに言った。
「じゃあ、こっちの戦力は本当にこれだけか。……ガキ二人に、犬と雉」
湊と航、翔太と立花を順に指差して、ペリドットは溜息を吐いた。犬猿雉を連れて鬼ヶ島に乗り込んだ桃太郎と、どちらがマシだろう。
せめて、吉備団子でもあればな。
ペリドットは遠い目をして言った。
「テメェだって、犬っころだろうが」
立花が悪態吐く。
ペリドットは笑っていた。
「まあ、無いものは仕方無ェ。足りないものは補うしかねぇよな?」
ペリドットは湊を見た。
「なんか、作戦あるんだろ?」
「もちろんさ」
湊は微笑んだ。
お供が猿ではなく人間だったのは、マシだったのだろう。しかし、今の湊は拉致された時の怪我が癒えていないし、得意分野である情報戦の余地も無い。
「兵は詭道。……奴等の予定調和をぶっ壊してやる」
湊は白い歯を見せて、悪童のように笑った。
19.空を見上げて夢を見る
⑵アンサー
夜の闇の中、LEDランタンの白い光が納屋を照らす。
農具の収容された一畳程の狭い部屋の中で、湊と航が胡座を掻いて俯いていた。会話は無く、呼吸の音すら聞こえそうだった。
口を開けば喧嘩ばかりの彼等だが、二人きりになると心地良い静寂を作り出すのが意外だった。
翔太が引き戸を開けると、二人は弾かれたみたいに顔を上げた。
「ノックしろよな」
航が不機嫌そうに言った。
翔太は適当に謝罪しつつ、二人の手元に目を向けた。彼等は西瓜のような駱駝色の玉を眺めていた。一つや二つじゃない。二十個以上の謎の玉が納屋の床に転がっている。
嗅ぎ慣れた懐かしい匂いがした。
それが何だったか思い出す前に、湊が言った。
「よく寝れそう?」
湊は大人びた顔で微笑んだ。
両親やノワールが死んでから、湊は度々、魘されていた。そんな彼に心配されるなんて、情けない限りだ。
「俺は平気だよ。お前こそ、怪我の具合は?」
湊は本調子じゃなかった。
この子がそれなりに高い身体能力とセンスを持ち合わせていることは知っているが、ペリドットに撃たれた傷も、ベリルに暴行された怪我も癒えていない。
航は手元に目を落とし、吐き捨てるように言った。
「その為に、俺がいるんだろ」
彼等は、共に地獄を歩くと決めた。
翔太が心配するようなことは、彼等も分かっている。
「……さっきは、悪かったな」
航が言った。
何のことだろうと首を捻ると、航が続けた。
「アンタの覚悟を、試した」
どうやら、夕方の話し合いのことを言っているらしい。
航は翔太に、どうしたいのかと尋ねた。翔太が流されて作戦に乗ることを避けたかったのだ。
「もしもの時に、俺たちはアンタの命の責任を背負えない」
それは、航らしい不器用な優しさだった。
湊の心を守り、翔太の意思を尊重したかったのだろう。翔太は苦く笑い、彼等の横に座った。
「なあ、訊いてみたかったんだけどさ」
航が顔を上げると、対照的に湊は目を伏せた。
手持ち無沙汰に翔太が玉に触れようとすると、湊がさり気無く遠去ける。何かは分からないが、大事なものなのだろう。
「お前等は、何の為に戦うんだ?」
翔太には、正直な所、彼等の動機というものが分からなかった。この国は彼等の両親の生まれた国で、SLCは敵だった。湊はノワールを失っているし、動機というのならば、充分である。けれど、彼等は復讐というものを不毛と考えている。だから、両親の仇さえ司法に委ねた。
彼等は、一体、何の為に?
答えたのは、航だった。
「理由って、要るか?」
航は、静かに問い掛けた。
「俺は復讐が悪いとは思わないし、赦すことが正しいとも考えてねぇ。ただ、俺がそうしたいと思うから、やるんだ」
航らしい答えだった。偏に、それはエゴである。故に傲慢であるけれど、誰にも責任を負わせない。
湊は?
翔太が訊くと、湊は少しだけ顔を上げて微笑んだ。
「寛容のパラドクスだよ」
「何それ」
翔太が訊ねると、湊は答えた。
「社会は、寛容の上で成り立っている。でも、不寛容な人たちにまで寛容でいると、社会の寛容は傷付けられてしまう。だから、社会は時として不寛容な人々に対して不寛容であるべきだと言う考え方さ」
つまり、ルールを守らない者に対して、ルールが守ってやる必要は無いということだ。
「赦しが尊いものであることは、知っている。けれど、何でもかんでも赦してしまったら、社会は成り立たない」
それは少し、怖い話だった。
寛容のパラドクス。だからこそ、望月は司法の名を借りた浄化部隊を作ろうとしているのだ。翔太はそれが間違っていると思うけれど、湊は全てを否定することは出来ないと言っている。
「正義や悪なんて、時代によって変わる曖昧な概念だ。俺達は法の外にいて、社会は守ってくれない。……だけど」
湊は顔を上げた。
ランタンの白い光に照らされ、濃褐色の瞳は透き通っていた。
「大切な人がいる。生きていて欲しいし、幸せであって欲しい」
「……」
「もちろん、自己犠牲じゃないよ。俺は死後の世界を信じていない。死者は思い出の中にしか生きられない。だから、忘れない為に生きて行く」
湊と航の覚悟は、痛い程に研ぎ澄まされて、揺らぐこと無く凜然と聳え立ち、けれど、泣きたくなるくらい優しかった。
復讐も司法による罰も、彼等にとって大した違いは無いのだ。ただ、マシな方を選んだ。大切な人が幸せになれるように、救いのある未来を。
「いつか、SLCや望月さんの考え方が正しいと言われる社会が来るかも知れない。支配されている方がマシだったと思う日が来るかも知れない。でも、それは今じゃない」
だから、抗う。
湊は、そう言って柔らかに微笑んだ。
「……さあ、そろそろ寝た方が良い」
湊が親みたいなことを言った。
お前もだろ、と返せば航が笑った。翔太は立ち上がり、納屋の引き戸に手を掛けた。背中で、湊と航が言った。
「おやすみ、翔太。ーー良い夢を」
お前等もな。
引き戸を閉じる最後の時まで、二人は翔太を見て微笑んでいた。表舞台なら輝かしく活躍し、表彰されるようなヒーローたちが、こんな山奥の納屋に閉じ篭っている。けれど、悲壮感は微塵も無い。
母屋は、明かりが点いていた。
近江か立花か、ペリドットか。まだ起きているのだろう。
翔太は裏口に回り、寝室代わりの部屋を目指した。迷う程、広くは無い。近江の声が聞こえるけれど、何を話しているのかは分からない。
布団に潜りながら、翔太は夢現に、自分が記憶を失くしていた時のことを思い出していた。人格は記憶の連続性。死者は記憶の中でしか生きられない。つまり、SLCの薬は死者の思い出まで奪うのだ。
自分の家族も、湊や航の両親も、ノワールも。
まるで、存在すらしていなかったみたいに。
脳を破壊し、殺戮人形にする。
それは本当に恐ろしく、悲しいことなのだ。
だから、止めなくちゃいけない。
散らばっていた点と点が繋がるような、難解なパズルが一つのきっかけで完成するような、不思議な感覚だった。何処か他人事だった自身の記憶が、手の平に集まって行くのが分かる。
人は死んだら、何処へ行くの。
砂月の声がする。翔太は答えた。
思い出の中だよ、と。