⑺光
雲一つ無い晴天に、灼熱の太陽が笑っている。
狂ったように泣き叫ぶ蝉の声、沢から流れ込む冷たい風が唯一の癒しだった。
等間隔に植えられた苗木に、青いトマトがぶら下がっている。熟れる頃には枝ごと折れてしまうだろう。翔太は支柱を取り出して、見様見真似で畑に突き刺した。
少し離れた場所で、麦藁帽子を被った立花と湊が胡瓜を収穫している。湊が兎に角いい加減なので、立花はずっと苛々しているようだった。
「お母さんはガーデニングが上手だったんだけどなぁ」
そう言って、湊は脇芽を取ろうとして枝ごと捥いだ。
腹を立てた立花が後頭部を叩く。けれど、どちらも途中で投げ出しはしなかった。ただの負けず嫌いなのかも知れない。
朝の涼しい時間に畑仕事を終え、三人で近江の家の軒下で西瓜を食べた。沢の水で冷やしてくれていたらしい。まだ太陽は高かったが、今日は特にやることも無かったので、翔太と立花はビールを飲んだ。一仕事終えた後のビールは格別に美味い。
真っ青な空に、風鈴の音。
太陽の下で飲むビール。高級なフランス料理のフルコースを食べるより、ずっと贅沢な時間だった。
野菜の生育状態とか土の様子とか、天気の話とか。誰も傷付かない他愛の無い雑談をしている時、何となく湊が拉致された時の話になった。
あの倉庫でノワールが死んでから、一週間程が経過していた。湊は立花に薬を投与したり、誰かと電話したりする以外は翔太にべったりで、外出する素振りも無かった。
寂しいのだろう。田舎で過ごしたことなんて無かっただろうし、ノートパソコンも携帯電話も無く、遊び方も知らない。
知り合いもいなければ家族にも会えず、情報収集と言えば電話くらいで、気を紛らわせるものが無かったのだろう。時々、見兼ねた立花が声を掛けて畑や散歩に連れ出してくれる。並んで歩く姿は、本当に兄弟のように見えた。
立花が湊を気に掛けているのは、何だか微笑ましかった。
翔太はビールを飲み下しながら、思い出して言った。
「立花がお前のこと、ゴキブリみたいだって言ってたぞ」
怒るかな、と思った。
怒ってくれたら良いんだけどな、とも。
表面上は落ち込んだ様子も無いけれど、雛みたいに後ろを付いて回る湊が心配だった。元気を取り戻し、吹っ切れるきっかけになれば良いな、と。
湊は怒らなかった。
山々を見渡しながら両足をぱたぱたと揺らしている。
「ゴキブリって、生命力が凄いらしいね」
湊はそう言って、西瓜を齧った。
種の出し方を知らないのか果肉ごと飲み込んでいることに気付いて、翔太がやり方を教えてやった。人工知能を作るくらい頭が良い癖に、こんな日常の些細なことは知らないのだ。相変わらず、ちぐはぐな子供である。
「アメリカの研究では、ゴキブリは殺されると思ったら瞬間的に時速150kmで移動出来るらしいよ。その時のIQは340を超えるんだって。人間以上だ」
「なんでゴキブリの話なんか聞かなきゃなんねぇんだよ」
ビールを飲みながら、立花が悪態吐いた。
ゴキブリというのが実物を指しているのか湊を指しているのか難しい所だが、本人は気にした様子も無い。口から出した西瓜の種を眺めて「ゴミムシに似てる」なんて最低なことを言う。
「止めろ。食えなくなるだろ」
「虫を食べる文化って多いんだけどな。この国ではバッタも保存食なんだろ?」
「イナゴの佃煮のことか? そういうのは珍味と一緒だよ。好んで食う奴はあんまりいない」
「チンミって何?」
翔太は肩を落とした。
顔が良い奴は得である。例え中身がサイコパス傾向のマッドサイエンティストでも、許せる。珍味について翔太が説明すると、湊は興味深そうに頷いていた。
「蓮治はあんまりそういうの作らないね」
湊が言った。
そもそも、家庭で珍味は作れるものなのだろうか。
立花は煙草を探しながら、答えた。
「バッタは脚が歯茎に刺さるから、好きじゃねぇ」
時間が止まったかと思う程の衝撃発言だった。
立花から生育環境は最低だったと聞いていたが、まさか虫を食べる程、ひもじい思いをしていたのだろうか。
「ミルワームは炒めるとピーナッツみたいな味がするらしいね。親父が中東で食べたって言ってたよ」
「そうなのか? それなら、炒めりゃ良かったぜ」
まるで、生でミルワームを食べていたみたいじゃないか。
彼等の話は何処まで冗談なのか分からない。地球に隕石が落ちて食料が無くなっても、彼等は最後まで生き残りそうだ。
「蓮治はずっと料理が好きなの? 自分で覚えたの?」
確かに、立花の謎の一つである。
いい加減な所のある立花だが、料理ばかりはきっちりやる。仕事に通じるものがあるのだろうか。
「ガキの頃、ろくなもん食えなかったからな。ちゃんと作るようになったのは、近江さんに拾われてからだよ。それまでは、腹に溜まれば何でも良かった」
立花の過去は想像するよりも悲惨だった。
虫を食べて空腹を紛らわせるだなんて、翔太は考えたことも無い。恐らく、施設にいた頃のことだろう。暴力と薬物の蔓延した最低水準の牢獄。
「航は料理の手際が良かったが、お前は駄目だな」
「双子なのに不思議だねぇ」
「自分で言うか?」
翔太が言うと、湊が笑った。
「上がぶっ飛んでると、下は真面に育つんだろうな」
「航だって酷かったよ。反抗期は不登校だったし」
それは、目に浮かぶようだ。
この会話を聞いた航が憤慨する所まで想像出来る。
「家では毎日喧嘩してたよ。あいつ、真っ先に顔面を狙って来るんだぞ。手加減出来ないんだよ」
「それはお前もだろ」
湊と航の母は手を焼いたことだろう。
翔太が笑うと、立花も笑った。湊は何故か照れ笑いして、鼻の頭を掻いた。誰も褒めていないんだが。
「翔太は?」
「あ?」
「君も妹と喧嘩したことあった?」
いきなり自分の話になって驚いた。ブーメランが顔面目掛けて返って来たみたいだった。
彼等は、翔太が話したくないと言えば、追求しないのだろう。そういう線引きが出来る人達なのだと、最近知った。傷付いて来た人なのだ。だから、誰かに優しく出来る。
「俺は、喧嘩したこと無かったよ」
「へえ。妹さんは大人しい子だったの?」
「砂月は……。学校で虐められてて……」
鳩尾の辺りがぎゅっと痛くなる。
湊も立花も、何も言わなかった。このまま黙っていても良いんだろう。そうしたら、湊が話題を変えて、立花が煙草を吸うとでも言って席を立って、有耶無耶にして流してくれる。
でも、向き合いたいと、思った。
湊も立花も、ちゃんと前を向いている。歩き出す為に顔を上げている。俺だけがいつまでも立ち止まっている訳にはいかない。
「何考えてるか分かんねぇって、幽霊みたいだって、揶揄われてた。俺は、砂月の代わりに言い返して、いつも手を繋いで帰った……」
「子供は残酷な生き物だからな」
そう言って、立花はビールを飲み下した。
風鈴の音が鳴る。
「何で言い返さないんだって、砂月に訊いたことがあった。そしたら、砂月は、どうしてって訊いた。あの人達と自分は別の世界に生きてるんだって」
「厨二病だろ、それ」
立花がうんざりしたみたいに言った。
多分、本心ではない。自分の表情を見て、立花は話題を逸らそうとしたのだ。けれど、湊の濃褐色の瞳は逃避を許さない。真っ直ぐに翔太を見詰めている。
「それで?」
「……何も、言えなかった。あいつの目には、同級生も、教師も、家族も、別の世界の生き物に見えてたんだ」
俺はあの時、どうしたら良かったんだろう。
どうしたら。
翔太が項垂れると、湊が言った。
「その感覚、俺も分かるよ」
航にも分かるんじゃないかなあ。
湊は、あっけらかんと言った。
「他人が博物館の硝子のケースの中にいるみたいに見えるんだ。俺はそれを眺めてる。彼等の話は退屈で、無駄が多い。自分じゃ何もしない癖に、俺のことに首を突っ込んで邪魔をする」
「……」
「当たり前の正論を翳して、得意になってる。そういう馬鹿な奴等を見てると、苛々するんだ。時々、世界が色褪せて、ゴミで出来てるように見える」
どうして、俺のことを放っておいてくれないの?
湊が言いたいのは、そういうことなのだろう。IQが20違うと会話が成立しないと言う。この子は、同世代の友達がいなかっただろう。
「お前みてぇな狂人は、野放しにしちゃいけないな」
「失礼だな」
「狂ってる人間は、自分が狂ってると分からない」
立花が言った。
もしかして、砂月もそうだったのだろうか。
湊の根底にあるのは、分かってくれない他人に対する諦念なのだ。それでも道を踏み外さずにいられたのは、衝突し合える双子の弟の存在や、それを許してくれる両親がいたからだろう。
湊は西瓜の芯を齧った。
「殺意なんてものは通りものと一緒で、いつ誰の所にやって来るか分からない。薬の影響もあっただろうけど、それを止めてあげたのが君で良かったんじゃないかな」
「……殺したんだぞ」
「うん。ノワールも、そうだった。そうしないと、止められなかった」
湊の瞳は、まるで硝子細工みたいに繊細な光を宿していた。触れたら壊れてしまいそうだ。立花は横から手を伸ばして、湊と翔太の頭を撫でた。
「過去なんざ誰にも変えられねぇ。後ろに伸びた影ばっかり見てると、いざ歩き出そうとしても目が眩んで進めねぇぞ」
「……」
「お前等が暴走した時には、俺がキッチリ殺してやる」
殺し屋の立花に言われると洒落にならない。
立花は笑っていた。
「獣道も茨道も、せいぜい楽しめ。其処にしか咲かない花もあるだろうさ」
立花らしくない物言いだな、と思った。
けれど、そう言って背中を押してくれる大人の、なんと頼もしいことか。
「……さて、お客さんだぜ」
御用件は、どちらかな。
立花が笑った。
照り付ける田舎の畦道に、金髪の青年が立っている。陽炎に歪むその青年は、美しいエメラルドの瞳をしていた。
18.空虚な祈り
⑺光
「良い御身分だな」
炎天下の日差しの下、ペリドットはうんざりしたみたいに吐き捨てた。白人みたいな頬は暑さの為か紅潮していて、少し日に焼けているように見えた。
立花はジョッキビールを呷り、快活に笑った。
酔っているのか機嫌が良さそうだった。ペリドットは普段のスーツを脱いで、垢抜けたモノトーンのシンプルな服を着ていた。外人みたいに手足の長いペリドットにはよく似合っているが、山奥の田舎には見合わない。
「西瓜食べる?」
湊が訊いた。図太い神経が羨ましいくらいだ。
ペリドットは馬鹿にするか怒るかのどちらかだと思ったが、力無く笑って、頷いた。
蝉時雨が降って来る。真夏の田舎、青々とした山を眺めながら、ペリドットと縁側に座っている。湊が皿を取りに家の中へ戻り、翔太はジョッキグラスを取りに行くべきか迷った。
だが、戻って来た湊は冷えたビールと平皿を持っていたので、翔太の逡巡は無駄に終わった。
ペリドットはジョッキグラスを受け取ると、一気にビールを呷った。小気味良く喉が鳴る。見ているだけで美味そうだった。一度に半分近く飲み干すと、ペリドットは深く息を吐き出した。
会話の無い沈黙を、風鈴の音と蝉の声が埋めて行く。湊は西瓜を齧り、立花は悠々とビールを呷る。不思議な感覚だった。まるで、ゆっくりと時間が流れているようだ。
「田舎で隠居生活か……」
楽しそうだな、とペリドットは零した。
ペリドットのエメラルドの瞳は、夏野菜の畑を眺めていた。
血腥い仕事で生きて来たことを考えると、贅沢な生活だと思う。後継者を育てながら悠々自給自足の田舎暮らし。銃を握ることも、誰かを殺すことも無い。
ペリドットは西瓜を齧った。蝉時雨の中に小気味良い音が響く。金髪碧眼のペリドットと夏の田舎は不思議に親和性が高く、絵になっている。
「お前に渡すものがある」
ペリドットはポケットを探った。
銃を取り出して眉間をズドン、なんてことは無さそうだった。今のペリドットは燃え尽きてしまったかのように殺意が無く、穏やかだった。
ペリドットの手には、チェーンで繋がれた銀色のドッグタグがあった。翔太はそれに見覚えがあった。ノワールが首から下げていたものだ。
差し出された湊は、泣き出しそうに顔を歪めた。
「……受け取れない。それは、俺がノワールにあげたんだ」
「俺が持ってるよりは良いだろうさ。お前がいらねぇって言うなら、このままあの川に投げ捨ててやる」
どういう二択だ、それは。
見兼ねた立花が、受け取っておけ、と言った。
湊はおずおずとそれを受け取ると、まるで絞首刑にでもされているみたいに項垂れてしまった。
そのドッグタグは、湊がノワールに贈ったものらしかった。それがこんな形で返って来るなんて想像もしていなかっただろうし、望んでもいなかった。
湊の手の中のプレートには、英語が刻まれていた。字体が整っていない。自分で彫ったのだろうか。
When it is dark enough, you can see the stars.
意味を尋ねても、湊は答えなかった。代わりに立花が教えてくれた。
「どんなに暗くても、星は輝いている。……お前らしいな」
立花が言った。湊は膝を抱えて、顎を埋めた。
銀色のプレートが太陽の下で輝く。湊はじっと、それを見詰めていた。大きな目には涙の膜が張り、今にも零れ落ちてしまいそうだった。
プレートは両面に英語が彫られている。字体が微妙に違う。湊のメッセージは筆記体に近いが、その裏面はゴシック体と言うか、一文字一文字、丁寧に彫り込んだみたいだった。
You light up my life.
貴方は私の人生に光を齎してくれた。
それを誰が残したのかなんて、考える必要すら無かった。
ただ、悲しくて、遣る瀬無くて、苦しくて。ノワールがどんな思いでそれを残したのか、何を願ったのか、もう知ることは出来ないけれど、想像するにはあまりにも切なかった。
湊は、ノワールが大切だった。
ノワールも、湊が大切だった。
関係性に名前が無くても、彼等は互いが大切で、その為に走った。例え結果が何も生まなくても、其処には確かにあったのだ。
「……弟の、生きた証だと思った」
独り言みたいに、ペリドットが言った。
たった一人残された弟を守る為に地獄を選び、危険から遠去ける為に突き放し、目の前で救えなかった彼の胸中は如何程か。
弟の亡骸を背負って歩いた彼の姿が瞼の裏に焼き付いている。どうしたってこの世は理不尽で不条理で、当たり前みたいに大切なものを奪って行く。
「弟の世界にちゃんと光があって、手を差し伸べてくれる奴がいて、心を許せる場所があった。孤独じゃなかった。不幸じゃなかった。……俺にとっては、それが全てだ」
強い人だ。
この人は、絶望の底でも希望の光を見付け、失意の中でも理性を手放さない。それ故の不幸もあるだろうけれど、翔太にはその人間性が眩しく、尊いものに見えた。
「お前がハヤブサの玉だってことは、分かった」
エメラルドの瞳は怜悧に輝き、逃がさないとばかりに湊を見詰めている。
「俺にお前を守らせろ。……お前だけが、弟の為に泣いてくれたから」
これは取引じゃねぇぞ、とペリドットは念を押した。
取引じゃないなら、何なんだ。恫喝か?
湊はドッグタグを握り締めていた。
「……俺だけじゃないだろ」
ペリドットは、答えなかった。