⑶罪の量刑
死者二十六名、負傷者四十一名。
連休の真っ只中で起きた高速道路の事故は、過去に類を見ない程の凄惨なものだった。
繁華街の駅から電車で四十分。
閑静な住宅地は、白いテントを中心に賑わっていた。
拡声器を通した声が空気を揺らす。犠牲者とその遺族が、加害者の罪を懸命に訴え掛けていた。
テントの下には車椅子の老人も、両足を包帯でぐるぐる巻きにした青年もいた。その奥には黒い額縁に収められた故人の写真があり、事故の悲惨さや残酷さを如実に表している。
犠牲者の殆どは、事故そのものではなく、二次災害の火災で亡くなったのだと言う。
高速道路の渋滞は3kmにも及び、緊急車両の到着に時間が掛かった。ガソリンが発火すると温度は約260℃に上るらしいが、事故当時、最初に焼けた車内は800℃まで温度が上昇していた。
火災で人が死ぬ時、その大半は酸素の欠乏が原因らしい。炎の燃焼で周囲の酸素が奪われ、人は高温によって気道が焼かれて呼吸困難に至るそうだ。被害者は正しく、生きながら炎に焼かれたのだ。
ミナは淀みなく語った。
感情を窺わせないような無表情でありながら、濃褐色の瞳は凄みを増して、今にも凶器を持って走り出しそうだった。
「加害者が助かったのは、本当に運が良かったんだろうね」
署名活動の旗を眺めて、ミナが言った。
初秋の冷たい風に煽られ、旗は右に左に揺れ動く。街路樹の銀杏は木の葉を落とし、箒のようだった。
「人には生存本能があると言われている。これは個人の意思や主義とは異なる、生命そのものに課せられたプログラムだ。遺伝子を残す為に生き延びようとする。その結果、他の誰かを犠牲にしてしまうことがある」
ミナの声は、真冬の夜のように冷たく澄んでいた。
つらつらと語るその言葉は、まるで原稿を読み上げているかのように温度が無い。
「そういうものを、俺の国では原罪と呼んでいた」
伏せられた顔は、美しかった。
翔は特定の宗教を持っていないし、神も信じていない。だが、もしも神や天使というものが存在するのなら、きっとこの子供のような姿をしているのだろうと、漠然と思った。
「西岡が五体満足で生き残ったことは、どうでもいい。腹は立つけどな」
「ゴタイマンゾク?」
「無事ってこと」
「I see」
テントの下へ向かうと、拡声器を持った若い男が見えた。何の面白味も無い白いシャツと黒いスーツを着て、秋の冷たい風の中、額に汗の雫を付けて直向きに訴え掛けている。
聴衆の群れの後ろで眺めているつもりだったが、小柄なミナが埋もれてしまうので最前列を陣取った。
若い男だ。堅実で、融通の利かなそうなサラリーマンだった。西岡とは正反対の人種に見えた。
事故当時、彼の運転する車は列の最後尾にいたらしい。西岡が最初に衝突した車だ。
後方からの凄まじい衝撃を受け、後部座席はひしゃげていたらしい。其処には三歳の娘と、妊娠した妻がいた。彼が必死の思いで手を伸ばす最中、ビリヤードの玉のように連鎖的に起きた事故で前方の車両は爆破、炎上。彼は背中一面を焼かれて意識を失くし、家族は一酸化炭素中毒で亡くなった。
演説の中で、彼は言っていた。
家族の遺体は焦げていたと。
彼の胸中を思う。
車内で身動きの取れない妻と娘を目の当たりにした時、背中を焼かれた彼の痛み。そして、目覚めた時の遣る瀬無さは、如何程か。
共感や同情に何の価値があるだろう。拍手を送る聴衆を置き去りに、翔はミナの手を引いて歩き出した。
遺族が署名を集めている。
翔は迷った。自分には過去が無い。彼等の力にはなれないのだ。斜め下を見遣るが、ミナも力無く首を振った。
「あの人の言葉には、熱がある」
ミナが言った。
翔が復唱すると、ミナは頷いた。
「人を動かす力さ。彼の言葉は事故の悲惨さを訴えているし、加害者への憎しみに染まっているように聞こえる。……だけど、本当に罰したいのは、自分自身なのかも知れないね」
一家の大黒柱。家族を守るべき存在でありながら、彼はただ一人生き残った。妻と娘を助けられず、目覚めた時には全て失っていたのだ。
「俺、ちょっと行って来る」
ミナを残し、翔はテントの下へ向かった。
陳腐なバインダーを持った中年女性が署名を求めていた。翔はボールペンを受け取った。
埋め尽くされる欄を眺め、見様見真似で名前と住所を書いた。住所は出鱈目だった。だけど、悪ふざけのつもりは微塵も無かった。せめて、何かしたかった。
振り返ると、ミナがいなくなっていた。
まさか、誘拐されたのか。嫌な予感が入道雲のように湧き出して、翔は辺りを駆け回った。
人で溢れる街路は、ぐにゃぐにゃと歪んで見えた。
ダウンコートの下に汗が滲んで気持ち悪い。頬を伝う汗を拭い、その名を叫ぼうとした時、視線が強烈に引き寄せられた。
テントの下、ミナがしゃがみ込んでいた。
置いて行かれた迷子みたいだった。遺族から紙コップを受け取ると、両手で包み込み、息を吹き掛ける。
何だよ。
文句の一つも言ってやりたかったが、安堵の方が大きかった。膝に手を突いて呼吸を整えていた時、汗の雫が石畳の上に落ちた。
その瞬間、後頭部を殴られたような酷い頭痛に襲われた。顳顬が脈を打って、吐き気がした。
ぽたぽたと冷たい汗が落ちる。視界が真っ赤に染まっていた。茹だるような熱波と油蝉の鳴き声が現実を覆い尽くすような臨場感を持って蘇る。
血塗れの両親、作り掛けの食事。
真っ赤に染まる自分の手。何かを握っている。
ああ、これは、何だっけ?
「ショウ」
涼やかな声がして、翔の意識は現実に回帰した。
ミナが立っていた。此方を覗き込むように身を屈めて、労わるように背を撫でている。
「大丈夫?」
頷くのが、精一杯だった。
ミナは穏やかに微笑んだ。
「Let's take a break」
そう言って腕を引かれ、翔はテントの下へ向かった。
3.地獄に咲く花
⑶罪の量刑
テントの下は暖かかった。
簡素な長机の下に赤外線ストーブが点けられ、夕焼けの中にいるみたいだった。
遺族のボランティアから一杯のお茶を受け取り、舐めるように啜った。薄い緑茶は臓腑に染み渡るように美味く感じられた。
「頭が痛いの?」
「時々ね」
「検査をお勧めするよ。脳は人が思うよりずっと繊細だから」
そんな金は無かった。
その日の食事も儘ならないのに、どうして病院なんて行けるだろう。ミナの言葉が厚意であると分かっていても、耳が痛かった。
「君の過去を調べたよ」
雑踏を睨む眼差しは、磨き込まれた鏡のように透き通っていた。
「カンダも、ショウも、この国では有り触れている名前みたいだね。年齢や言葉の訛りを検索条件に加えても、該当する人物はいなかった」
翔は目を見張った。
いない、とはどういうことだ?
それなら此処にいる自分は何だと言うのだろう。いや、そもそも、この名前は正しいのだろうか。
形容し難い不安に駆られ、翔は自分の記憶を振り返った。
ミナに出会う前、自分は街で彷徨っていた。その日の食事にも困る程の貧困で、日銭を稼ぐ為にどんな仕事もやった。だが、それ以上は分からなかった。
いつからあの街にいたのか、何処でどうやって生きて来たのか。両親の顔も、出身地も分からない。いつの間にか神田翔と名乗っていて、街をふらついていたのだ。
何故だ。どうして分からない。自分のことなのに!
「殺人事件についても調べたんだけど、少なくとも、一般に報道されているものには、ショウの言うような事件は見付けられなかった」
「俺の記憶が間違ってるってことか?」
「分からない。俺もこの国に来て長い訳じゃないから」
ミナはパイプ椅子の上、両足を揺らしながら言った。
「お前、いつからこの国にいるの?」
「I have forgotten it」
わざとらしく両手を上げて、ミナは笑った。
自分の過去も分からないが、ミナも謎に包まれている。彼の容姿を考えると、そちらの方が調査し易そうだ。
その時、一人の男がやって来た。
寒空の下、脱いだジャケットを脇に抱えて、暑い暑いと手の平で仰いでいる。
演説の男だ。
立花が殺すターゲット。
無意識に体が強張る。身構える翔とは真逆に、その男は爽やかに笑った。
「こんにちは。体調はどうですか?」
「Thanks to you」
翔に代わって、ミナが答えた。男はミナが英語を話したことに驚いたようだった。
「海外の方? 参ったな、英語は得意じゃないんだ」
「少しなら話せるよ」
内心で嘘吐け、と吐き捨てる。
少しどころか、専門知識まで日本語で喋れる癖に。
男はミナの言葉を全く疑っていないようだった。典型的なお人好しで、騙され易い。翔はそんな風に観察してしまう自分が嫌だった。
「僕は古海です。僭越ながら、遺族の代表者をしています」
「センエツ?」
「……英語では何て言うんだろう?」
古海の困り顔に、出会った頃の自分を思い出す。
ミナは分からないと一々訊き返すので、その度に困らされた。尤も、それは今も変わりないのだけど。
「Speech、聞いたよ。応援してる」
「ありがとう。日本語上手だね」
「Thank you」
ミナと古海が握手を交わす。微笑ましい光景だった。
古海は眩しそうにミナを見詰めている。
「過失致死ではなく、危険運転だったと主張しているらしいね。根拠があるの?」
小難しい言葉を使う割に、敬語は駄目らしい。
砕けた口調で話すミナを、古海はとても、とても優しく見守っていた。もしかすると、ミナではなくて、失くした家族を重ね見ているのかも知れない。
「フロントミラーにね、西岡の車が猛スピードで突っ込んで来るのが見えたんだ。他にも、彼の車が蛇行していたことや、煽り運転していたって証言もある」
蛇行が分からないと思ったのか、古海は片腕を蛇のようにくねらせた。ミナが「Snake」と言って蛇の鳴き声をしたので、古海はコミカルに指を鳴らした。
何と無く、彼は良い父親だったのだろうと思った。
亡くなった娘とも、こんな風にして会話したのだろうか。
「ドライブレコーダーは事故の衝撃や火事で使い物にならなくなってしまってね、僕等も頭を痛めているところさ」
「Headache?」
「あー、困ってるってこと」
逐一話の腰を折るミナにも、古海は腹を立てる素振りもない。むしろ、そのちぐはぐさを楽しんでいるように感じられた。
「被告人が憎い?」
普通なら訊かないようなことを、ミナは平気で問い掛ける。そんなこと、訊くまでもなかった。
加害者が憎いだろう。恨めしいだろう。
自分の家族を奪って、今ものうのうと生きている西岡を許せないだろう。
古海は少し困ったように眉を寄せた。
「憎くないと言ったら、嘘になるよ。でもね、今は使命感の方が大きいかな」
「シメイカン?」
「うん。僕がやらなきゃって、思うんだ」
遺族という集団のトップに立っているからだろうか。
翔は黙って耳を傾けた。
「西岡は、過去にも危険運転をしていたんだ。その時はコネクションとお金で解決した。だから、今度もそうしようとしている。……被害者が負けたり、譲ったりしたなんて前例は作っちゃいけないと思った」
その通りだ。当時の事故のことは知らないが、その時に西岡を厳罰に処していれば、今回のことは防げたかも知れない。それは、希望的観測だろうか。
「娘がいたんだ。三歳だった。将来の夢とか、結婚とか、孫とか、大きくなった時のことをいつも妻と話してた」
「……」
「妻のお腹には息子がいた。喧嘩しないかな、仲良く出来るかな、どんな姉弟になるかなって、一喜一憂して。未来があることを、当たり前みたいに信じてた。明日が来ることを、家族がいることを、当然に思ってたんだ……」
もう叶わない。
そう言った古海の言葉の最後は掠れていた。
彼の気持ちを思うと、余りにも不憫で、胸が潰れそうに苦しかった。
被告人に厳罰を望んで何が悪い。
そいつは今も生きて、遺族を殺せと他人に金を積んで、自分は手を汚さず笑っている。
「帰るぞ、ミナ」
これ以上この場所にいると、西岡への憎しみで自分が暴走してしまいそうだった。立ち上がらないミナの手を引いて、歩き出す。
頬を打つ秋の風が、痛いくらいだった。